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喫茶桜の店内には
いつもの穏やかな空気が流れていた。
外から差し込む春の光が
カウンターやテーブルの縁に
柔らかな陰影を落としている。
ほのかに漂うコーヒーと
焼き菓子の香りの中
時也は顔を伏せたまま
ゆっくりと目を開けた。
「⋯⋯時也」
その声に、背筋が震えた。
静謐な水面に小石が落ちるような――
か細く、美しく
けれど確かに耳奥へ染み入る声。
「⋯⋯あれ⋯⋯俺、は⋯⋯?」
思わず漏れたその一言に
自らもはっとして言葉を飲み込んだ。
「俺!?今の聞き違い?
時也さん、俺って言った?」
レイチェルの声が
店内に跳ねるように響く。
驚いたような
けれどどこか楽しげな声音。
すぐ隣では
アリアが無言のまま彼を見つめていた。
深紅の瞳は静かに揺れ
その瞳に宿る僅かな陰りが
言葉にしがたい心配を滲ませていた。
「⋯⋯すみません⋯⋯
寝惚けてた⋯ようです⋯⋯」
頭を軽く振り
時也はゆっくりと身体を起こした。
そこには
木目の綺麗なテーブルがあり
その上には
途中まで挿し終えた
フラワーアレンジメントが置かれていた。
小さな春の草花――
薄桃のガーベラ、黄色いミモザ
緑の葉がまだ整えられていない状態で
仄かな香りを放っている。
「おいおい、ボケてんじゃねーぞ?
お前、転んで頭でも打ったのか?
服もボロボロだしよ」
ソーレンが低い声で呟き
顎で時也の着物を指し示す。
時也は袖をたくし上げ、視線を落とす。
「⋯⋯え?」
藍色の着物は
所々に裂け目があり
焦げ跡のような黒ずみも混じっていた。
着物の状態に反して
身体に痛みは――ない。
不死の身体が、修復したのだろう。
「ソーレンだって
転んで頭に怪我してるじゃないの」
「てめ⋯レイチェル!
言うなって言ったろうが!」
「しかも⋯⋯バナナの皮で!」
ふふっと、レイチェルが悪戯っぽく笑う。
ソーレンは額の絆創膏を手で隠しながら
レイチェルを睨みつけるが
それもいつものやり取りだ。
けれど――
(記憶が、ない⋯⋯)
時也の中で
何かが不自然に抜け落ちているような
感覚があった。
ぽっかりと穴が空いたような
無音の空間に立ち尽くすような違和感。
(さっきまで⋯⋯
僕は、何処かにいた⋯⋯? )
記憶の糸を手繰ろうとすればするほど
頭がざらつき、輪郭がぼやけていく。
思考の奥深くで
何かが〝都合よく〟消されている――
そんな漠然とした警鐘が
胸中に響いて止まない。
時也は、何気ない振る舞いのまま
そっと胸元の懐へと手を入れた。
そこに差し入れられていたはずの
護符の束が、二、三枚、抜かれている。
「⋯⋯これは」
ごく僅かに、鳶色の瞳に鋭さが戻る。
笑顔を保ったまま
指先を静かに帯へ戻した。
(⋯⋯今、この平穏の中に
何かが⋯⋯混じっている?)
⸻
夜の空気は静かで
ひんやりと肌を撫でていた。
時也は静かに裏庭へと出ると
袖の内側から一本の煙草を取り出し
口元に咥える。
手元の小さなライターで火をつけると
微かな火花と共に
煙がふわりと立ち上がった。
その煙を見つめながら
彼は懐から携帯電話を取り出す。
すでに何度も教わったはずのその機械は
彼にとって未だに馴染みのない存在であり
指先はやや戸惑いを見せる。
「⋯⋯えぇと⋯ここを押して⋯⋯
これは⋯あぁ、違う⋯⋯」
眉を顰めながら何度か操作し
ようやく〝通話〟の画面に辿り着いた時
呼出音が耳に届いた。
表示された文字列は――
『エリスさん』
時也はふっと
小さく安堵の息を吐いた。
やがて
澄んだ少女の声が携帯から響いた。
『あら、お父様!
ようやく操作を覚えたんですか?』
その奥から、もうひとつ。
くすくすと笑うルナリアの声。
まるで風鈴のように、涼やかに耳へ届く。
「こんばんは、お二人とも。
つかぬ事を聞きたいのですが⋯⋯
今日、こちらに来ましたか?」
『そちらに伺うのは、来週ですよ!
お父様ったら
そんなに楽しみに
してくださってたんですね!
嬉しいです!』
声に、不審な点はなかった。
エリスの声も、ルナリアの笑みも
音の抑揚も、間合いも、言葉選びも⋯⋯
どれも彼女達らしさに満ちていた。
しかし――
何故か、心の奥底に引っ掛かりが残る。
「はは⋯⋯
いつだって僕は
貴女達に逢いたいと思っていますよ。
今日は、何をしていたのですか?」
『今日は
陰陽師としての仕事を頂いていましたので
二人で向かいましたわ』
「ああ⋯⋯そうでしたか。
立派になって⋯⋯僕は、誇らしく思います」
『ありがとうございます!お父様』
エリスの声は、嬉しさを滲ませていた。
携帯越しにも
娘の微笑む姿が見えるようだった。
だが⋯⋯それでも。
(⋯⋯おかしい。
おかしくは、ない筈なのに⋯⋯)
語尾ひとつ、呼吸ひとつに至るまで
完璧に〝本物〟の筈なのに――
なぜかその言葉が、心の奥に届かない。
まるで
何か透明な膜に阻まれているような⋯⋯
説明のつかない違和感が
胸に淡く残った。
「また⋯⋯掛けますね。
愛してますよ、二人とも」
電話を切り
煙草の火を灰皿に押し付けて消す。
薄く立ち上った白い煙は
闇夜の中に溶けていった。
そしてその静けさの中――
時也は
胸の奥にぽっかりと空いた
小さな〝穴〟を抱えたまま
ただ夜を見つめていた。