胸にこびりついた違和感は
まるで冷たい雨のように
時也の心にじわじわと染み込んでいた。
だが
それでも日々の営みは待ってはくれない。
翌日の喫茶桜は
いつもと変わらず
静かに時を刻んでいた。
陽だまりに照らされた木製の床は
ぬくもりを帯び
店内には仄かに
コーヒーと焼き菓子の香りが満ちている。
時也はホールの隅
棚の前でひとり立ち尽くしていた。
その視線の先には
背の高い食器棚の上段。
手を伸ばしても
どうしても届かない場所に
調理で使うシロップの予備の瓶が
収められている
「⋯⋯困りましたね」
ぽつりと呟き、棚の脇に目をやる。
だが
そこにあるはずの脚立は
先日壊れて処分してしまったのだった。
時也が困った顔で上を見上げていると
奥のキッチン側から
ソーレンがふらりと現れた。
「⋯⋯何、見上げてんだ時也?」
いつものぶっきらぼうな声に
時也は困った笑顔で振り返った。
「ああ、ソーレンさん。
実は上にある瓶を取りたいのですが
生憎、脚立が壊れてまして
どうしようかと⋯⋯」
ソーレンも
時也と同じように棚の上を見上げ
ふぅとため息をひとつ吐いた。
そのこめかみに貼られた
大きな絆創膏が
やけに目立っていた。
(⋯⋯バナナの皮で滑って転んだって⋯⋯
レイチェルさんが言ってましたね)
一瞬、思い出し笑いがこみ上げるが
表には出さずに、そっと目線を逸らす。
「肩車したら、届くんじゃねぇか?」
ソーレンが呟くように言い
無造作にぐっと屈む。
「でも、僕は着物なので⋯⋯
あ、僕が下になりましょう」
「はぁ?
お前、俺を持ち上げられんのかよ?」
その物言いに
時也の眉がぴくりと跳ねる。
口元は笑っているが
明らかに機嫌を損ねていた。
「平気ですよ。
これでも⋯⋯僕も男ですし」
言い終えるや否や
時也は静かに屈んで構えた。
ソーレンが半信半疑で彼の肩に乗ると
ふらつきながらも
しっかりと支えられる。
「おお!やるな!」
しかし、その直後――
「⋯⋯だけどお前、身体薄いな?
筋トレしてんのか?
俺のケツがずり落ちそうだぜ」
瞬間――
時也はその場で、グイッと反動を付けて
ソーレンを床に叩き落とした。
「貴方のおしりが大きいんですよ!」
ドン、と尻もちをついたソーレンは
衝撃に「ぐぇっ!」と、短く呻くと
尻を摩りながら目を丸くする。
「いってぇ⋯⋯」
ちょうど通りかかったレイチェルが
カウンターの向こうから
くすくすと笑いながら声を上げた。
「ソーレンの
重力操作で取れば良かったのに!」
その言葉に
二人はピタリと動きを止め
顔を見合わせて同時に赤面した。
「⋯⋯あっ」
「⋯⋯マジでな」
渋々とソーレンが手を翳すと
すんなり瓶が棚から浮かび
すとんと彼の手に落ちた。
何とも言えぬ空気のまま
瓶を時也に渡してから
二人はそそくさと
その場を立ち去ろうとする。
「時也さんも
植物操作で取れたんじゃない?」
レイチェルの追加の一言が
背後から追い打ちのように飛んでくる。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
それを聞いたソーレンは
さすがに我慢しきれずに
吹き出して笑い出した。
「くっ⋯⋯⋯あっははははは!!
バカだろ、俺ら!」
そしてそれにつられ
時也もふっと笑って肩の力を抜く。
「きっと⋯⋯疲れていたんですね。
皆で甘い物でも食べましょうか?」
静かにそう提案すると
誰も反対しなかった。
午後をまわり、ちょうど今は客もいない。
ドアの看板をCLOSEに返すと
時也は厨房へと歩み
やがて閉店後の店内には
パンケーキの甘い香りが漂った。
ふわふわの生地に、しみ込む蜂蜜。
テーブルに並んだ五皿のパンケーキには
それぞれ違うフルーツが添えられている。
時也はアリアの皿のパンケーキを
丁寧に切り分けていた。
白磁の肌に映える
淡い色合いのデザートを前に
アリアは無言のまま見つめている。
けれどその瞳は――
どこまでも穏やかで
あたたかかった。
外では風が揺れて
裏庭の桜の枝が
さらさらと音を立てていた。
喫茶桜には
穏やかな午後の時間が流れている。
そして
時也の胸を覆っていた
煤のような違和感も
今だけは、ほんの少し――
柔らかく
薄れていくような気がしていた。