TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

胸にこびりついた違和感は

まるで冷たい雨のように

時也の心にじわじわと染み込んでいた。


だが

それでも日々の営みは待ってはくれない。


翌日の喫茶桜は

いつもと変わらず

静かに時を刻んでいた。


陽だまりに照らされた木製の床は

ぬくもりを帯び

店内には仄かに

コーヒーと焼き菓子の香りが満ちている。


時也はホールの隅

棚の前でひとり立ち尽くしていた。


その視線の先には

背の高い食器棚の上段。


手を伸ばしても

どうしても届かない場所に

調理で使うシロップの予備の瓶が

収められている


「⋯⋯困りましたね」


ぽつりと呟き、棚の脇に目をやる。


だが

そこにあるはずの脚立は

先日壊れて処分してしまったのだった。


時也が困った顔で上を見上げていると

奥のキッチン側から

ソーレンがふらりと現れた。


「⋯⋯何、見上げてんだ時也?」


いつものぶっきらぼうな声に

時也は困った笑顔で振り返った。


「ああ、ソーレンさん。

実は上にある瓶を取りたいのですが

生憎、脚立が壊れてまして

どうしようかと⋯⋯」


ソーレンも

時也と同じように棚の上を見上げ

ふぅとため息をひとつ吐いた。


そのこめかみに貼られた

大きな絆創膏が

やけに目立っていた。


(⋯⋯バナナの皮で滑って転んだって⋯⋯

レイチェルさんが言ってましたね)


一瞬、思い出し笑いがこみ上げるが

表には出さずに、そっと目線を逸らす。


「肩車したら、届くんじゃねぇか?」


ソーレンが呟くように言い

無造作にぐっと屈む。


「でも、僕は着物なので⋯⋯

あ、僕が下になりましょう」


「はぁ?

お前、俺を持ち上げられんのかよ?」


その物言いに

時也の眉がぴくりと跳ねる。


口元は笑っているが

明らかに機嫌を損ねていた。


「平気ですよ。

これでも⋯⋯僕も男ですし」


言い終えるや否や

時也は静かに屈んで構えた。


ソーレンが半信半疑で彼の肩に乗ると

ふらつきながらも

しっかりと支えられる。


「おお!やるな!」


しかし、その直後──


「⋯⋯だけどお前、身体薄いな?

筋トレしてんのか?

俺のケツがずり落ちそうだぜ」


瞬間──


時也はその場で、グイッと反動を付けて

ソーレンを床に叩き落とした。


「貴方のおしりが大きいんですよ!」


ドン、と尻もちをついたソーレンは

衝撃に「ぐぇっ!」と、短く呻くと

尻を摩りながら目を丸くする。


「いってぇ⋯⋯」


ちょうど通りかかったレイチェルが

カウンターの向こうから

くすくすと笑いながら声を上げた。


「ソーレンの

重力操作で取れば良かったのに!」


その言葉に

二人はピタリと動きを止め

顔を見合わせて同時に赤面した。


「⋯⋯あっ」


「⋯⋯マジでな」


渋々とソーレンが手を翳すと

すんなり瓶が棚から浮かび

すとんと彼の手に落ちた。


何とも言えぬ空気のまま

瓶を時也に渡してから

二人はそそくさと

その場を立ち去ろうとする。


「時也さんも

植物操作で取れたんじゃない?」


レイチェルの追加の一言が

背後から追い打ちのように飛んでくる。


「⋯⋯⋯⋯」


「⋯⋯⋯⋯」


それを聞いたソーレンは

さすがに我慢しきれずに

吹き出して笑い出した。


「くっ⋯⋯⋯あっははははは!!

バカだろ、俺ら!」


そしてそれにつられ

時也もふっと笑って肩の力を抜く。


「きっと⋯⋯疲れていたんですね。

皆で甘い物でも食べましょうか?」


静かにそう提案すると

誰も反対しなかった。


午後をまわり、ちょうど今は客もいない。


ドアの看板をCLOSEに返すと

時也は厨房へと歩み

やがて閉店後の店内には

パンケーキの甘い香りが漂った。


ふわふわの生地に、しみ込む蜂蜜。


テーブルに並んだ五皿のパンケーキには

それぞれ違うフルーツが添えられている。


時也はアリアの皿のパンケーキを

丁寧に切り分けていた。


白磁の肌に映える

淡い色合いのデザートを前に

アリアは無言のまま見つめている。


けれどその瞳は──


どこまでも穏やかで

あたたかかった。


外では風が揺れて

裏庭の桜の枝が

さらさらと音を立てていた。


喫茶桜には

穏やかな午後の時間が流れている。


そして

時也の胸を覆っていた

煤のような違和感も


今だけは、ほんの少し──


柔らかく

薄れていくような気がしていた。



紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜

作品ページ作品ページ
次の話を読む

この作品はいかがでしたか?

751

コメント

1

ユーザー

日常の温もりの中に忍び寄る違和感。笑い合い、甘い香りに包まれながらも、時也の胸を掠める薄暗い影は消えない。どこか歪んだ平穏の中で、彼はまだ気付かない── 記憶に空いた、取り返しのつかない空白に。

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚