コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夜のバンカラ街は、いつもよりもざわめきが少なかった。
昼間の喧騒が嘘のように引き、灯りの消えた路地では虫の羽音さえかき消されるほどの沈黙が支配している。
アマリリス・フロルディアはその沈黙の中を、ただ一人歩いていた。
背に冷たい金属の重量。腰に吊るされた愛銃は、今も彼の呼吸に合わせるように静かに揺れている。
「……。」
言葉を発することはない。
彼の眼差しは冷たく、ただ一点、闇の奥に潜む「不正の気配」を追っていた。
今日もまた、街ではチーターが目撃されていた。
パン!
1発打って理解した。
弾丸の軌道を歪め、狙撃を無効化する不正を操るチーター。
「……物の軌道を逸らす能力。ならば、俺が行くしかない。」
アマリリスは自らにそう言い聞かせるように、足を止め、耳を澄ませた。
遠くで、かすかな悲鳴が風に乗って届く。
遅かったか。
いや――まだだ。
銃を握り直し、アマリリスは音のする方向へと駆け出した。
路地の角を曲がると、そこには散乱したインクの痕跡と、転がる店の看板があった。
鮮やかな緑と赤が壁にこびりつき、まだ乾いていない。
そして、その中央に立っていた。
「クク……来たなァ。」
異形の影。
体格はイカボーイのそれを留めてはいるが、腕は異常に膨れ、金属質の光沢を放つ皮膚がその表面を覆っている。
眼は充血し、血走った瞳孔は一点に収束することなく、常に揺らぎ続けていた。
「撃ってみろよォ……どうせ当たらねェ。」
その声は嘲りと確信に満ちていた。
アマリリスは無言で銃を構える。
その一挙手一投足は静かだが、周囲の空気が張り詰めるほどの緊張感を孕んでいた。
引き金が引かれる。
銃声が夜を裂く。
しかし――弾丸は敵の胸を捕らえる直前、ぐにゃりと歪み、壁へと逸れた。
コンクリートに弾痕が散る。
「ハハハ! 無駄だ、無駄だァ!」
チーターは声を張り上げて笑った。
アマリリスの目はわずかに細められたが、動揺の色は微塵もなかった。
ただ冷徹に、次の射撃に移る。
再び銃声。
二発、三発――しかし結果は同じだった。すべてが逸れる。
「……なるほど。」
短く呟き、アマリリスは銃口をわずかに下げた。
敵はそれを怯懦と受け取ったのか、笑い声をさらに大きくする。
「どうしたァ? 弾が当たらなくて怖じ気づいたかァ?」
アマリリスは答えない。
ただ――足元のインクの飛び散り方、壁に刻まれた弾痕の角度、全てを脳裏で結びつけていく。
(軌道が歪む角度は一定じゃない……。だが、歪む「方向」は限定されている……。)
そう考えながら、彼は再び銃を持ち直した。
次の瞬間、敵が刃の腕を振りかざして突進してきた。
アスファルトを蹴る重い音。
夜風を裂く金属音。
「来いよォ! 避けられるもんならなァ!」
アマリリスは深く息を吸い、世界のすべての雑音を切り捨てた。
残るのは銃口と、敵の心臓だけ。
そして、再び引き金を絞った。
銃声が夜に響く。
しかし弾丸はやはり狙いを逸れ、チーターの頬をかすめて背後の壁に深い穴を穿った。
「ハッ! やっぱり当たらねェな! お前の銃なんざ、俺には通じねェ!」
狂ったような叫びと共に、チーターは刃に変質した右腕を振り下ろす。
金属音を伴ってアスファルトに叩きつけられ、火花が散った。
アマリリスは無駄な動きなく後退し、足音さえ残さず距離を取る。
その目は冷たい。
その冷たさに一瞬、チーターの笑みが引きつった。
「……なんだ、その目は。」
「……。」
答えない。
ただ、アマリリスは再び銃を構えた。
再度の銃声。
弾丸は敵の首筋を狙い――やはり逸れる。だがその軌跡は、今度は敵の足元の地面へと突き刺さった。
(やはり……歪む角度は完全にランダムなオート型ではない。意思に従って歪めている……!)
敵は勝ち誇ったように笑い声を上げる。
「ククク……何度撃とうが無駄だ!俺の能力は弾丸そのものを拒む!この街じゃ誰一人、俺を殺せねェんだよォ!」
アマリリスは深く息を吐いた。
「……そうか。」
短い言葉。
そして一瞬の沈黙を置き、アマリリスは銃口をまるで無意味な方向へ向けた――敵の肩口でも、頭部でもない、路地裏の金属製の看板。
引き金が引かれる。
「なに……?」
弾丸は看板を撃ち抜き、甲高い反響音を上げながら跳ね返る。
チーターは思わず目を見開いた。
「……ッ!?」
金属を伝って反射した弾丸の軌跡は、チーターの背後から心臓へと迫っていた。
「歪みを操れるのは、お前の正面からの弾丸だけだろ。お前の実力ならな。」
その冷たい声と同時に、銃弾は敵の胸を穿った。
「ぐッ……! ば、馬鹿な……こんな……ッ!」
血が溢れる。
金属質の皮膚にヒビが走り、鮮やかな赤が溢れ出す。
それでもなおチーターは立ち尽くし、目を見開いたまま呻き声を上げた。
「俺は……最強の……能力者のはずだ!……ッ……避けられるはずの……弾丸にぃ……!!」
「お前の不正は……すでに分かっている。」
アマリリスの声は感情を削ぎ落とした氷のような響き。
一歩近づくと、銃口を敵の額に突きつけた。
「ここで終わりだ」
銃声。
脳を撃ち抜かれたチーターは、その場に崩れ落ちた。
金属の皮膚が砕け散り、ただの無惨な肉体へと戻る。
アマリリスはしばらくその死体を見下ろしていた。
やがて、銃をホルスターへと戻す。
「……。」
夜風が吹き抜ける。
散乱したインクと血の臭いを押し流すように、冷たい空気が路地を覆った。
アマリリスは踵を返す。
すでに視線は前を向いている。
この街には、まだ無数のチーターが蠢いているのだから。
「次だ。」
その一言を残し、彼は闇へと消えていった。
夜の街に黒い静寂が降りていた。
昨日、灼熱のチーターを倒したばかりのスロスは、淡い夜気を吸い込みながら、次なる標的を探していた。街の路地は破損した看板と瓦礫に覆われ、インクの焦げた匂いが夜風に漂っている。
この街は、いつもなら賑わいのあるナワバリだが、化物――チーターの出現で、その秩序はすっかり崩れ去っていた。
スロスの手には一本のナイフ。刃先は薄く研ぎ澄まされ、夜光を吸い込むように鈍く光る。武器を握る手の力は抜け、まるで手の延長であるかのような自然さで構えられていた。
彼の視線は、闇の奥で微かに揺れるものを捕らえていた。それは、普通の生物の動きではなかった。空間そのものにノイズが走り、輪郭が歪む。
「……ラグか。」
低く呟いた。
スロスにとって、ラグのチーターは単なる相手ではない。時空を歪め、感覚を狂わせる化物。攻撃の予測は困難を極め、油断すれば即死すらあり得る。
廃工場の入り口に立つその存在は、まるで空間に溶け込むようだった。ノイズが体の輪郭を裂き、腕や脚が瞬間的に二重三重に重なる。歩を進めるたび、足音は複雑に遅延し、視界の端で残像が跳ねる。
スロスは一歩後退し、呼吸を整える。刃の位置は微調整され、彼の身体感覚は全てを捉える。目で追うのではなく、空気の振動、音の遅れ、壁の微かな軋み。それらすべてが次の瞬間を告げていた。
ラグが突然、空間ごと歪ませて斬りかかる。
斬撃はまるで視界の中で二つに分裂し、どれが実体なのか判別できない。
スロスはわずかに躱し、ナイフで応戦。刃が金属音を立て、ラグの腕先をかすめる。だが、次の瞬間、腕は空中で二重に重なり、刃は空虚を切るだけ。
「……面倒なやつ。」
低く呟き、スロスは足場を移動する。
瓦礫や倒れた鉄骨を利用し、ラグの歪んだ攻撃の軌道を読む。世界は歪むが、一定のパターンがある。遅延する残像の間隔、ノイズの密度、空気の圧の変化。これらを頼りに、スロスは次の一手を決める。
ラグの刃が再び迫る。瞬間、時間がねじれたように空気が止まる感覚が走る。
しかしスロスは躊躇しない。ナイフを振るい、斬撃を受け流すように相手の残像を切る。
スロスの刃は、ノイズの隙間に確実に突き刺さる瞬間を待つ。
次の瞬間――衝撃。
空間が裂け、スロスの身体は吹き飛ばされた。
金属の感触、血の熱さ、皮膚を裂く痛み――その感覚が一瞬にして消える。
スロスは地面に倒れ、意識が途切れる。ラグのノイズが歪んだ笑いを残し、暗闇に溶けていった。
だが、スロスの身体は消えない。
事前に切り取られ、自宅に保管されていた小指から、存在の核が再生される。
わずか数秒後、スロスの目が再び開く。
「……まだだな。」
声にならぬ低音。復活と同時に、冷静さが戻る。
身体を起こし、ナイフを握り直す。空間の歪みを感じ取り、ラグの位置を修正する。
再生の力を得たスロスは、再び戦場へ向かう。
ノイズが視界を狂わせ、周囲の物理法則が一瞬崩れる――しかしスロスにはそれすらも計算の範囲内だ。
廃工場の奥で、ラグのチーターは再び姿を現した。
視覚的には空間の乱れとして存在するだけだが、刃の威圧とノイズの渦は確かにスロスに迫ってくる。
スロスは低く身をかがめ、ナイフを水平に振る。
刃は空間を裂き、重なった残像のどれかに確実に触れる。
ラグのチーターは、一瞬、空間に歪みを生じさせて斬撃をかわす。
しかしスロスは躊躇しない。
彼の視覚ではなく、触覚、聴覚、空気の流れを頼りに攻撃を読み取る。
刃先がノイズの隙間を貫き、ラグの輪郭の一部に触れる。
「……効いてるか?」
スロスは低く呟き、距離を取る。
ノイズは揺らぎ、ラグの存在が一瞬だけ明確になる。
その瞬間を逃さず、スロスは全力で斬りかかる。
再生の衝撃が身体に走る。
小指から生まれ出た核は瞬時に肉体を復元し、血液、筋肉、骨格すべてが再び連鎖する。意識が戻ると、スロスは周囲の空気の微かな震えを確かめる。闇の中、ラグの存在は依然としてそこにあり、時空の歪みが空間を波打たせている。
「……もう一度だ。」
刃を握る手に力を込める。再生の間に得られた短い時間で、ラグの行動パターンを読み取る。ノイズの跳ね方、残像の揺らぎ、空気の僅かな圧変化。すべてが次の一手の手がかりになる。
ラグは異様な動きで突進してくる。通常の物理法則ならばありえない速度で距離を詰め、同時に残像を数十に分裂させる。空間の歪みで、刃の届く先が予測できない。
スロスは冷静に、しかし身体全体でその異常を感じ取り、ナイフを振るう。刃先は残像の一つに触れ、空間を切り裂く感触が手に伝わる。だがラグはすぐに空間ごとねじれ、攻撃は空を切る。
スロスは後退せず、空間の歪みを利用する。瓦礫の影、倒れた鉄骨、壁の傾き――それらすべてを自分の体術とナイフ捌きに組み込む。
ラグの動きが一瞬停止したかのように見える瞬間――それこそが反撃のタイミング。スロスは体を低く構え、斬撃を放つ。
刃は空間の隙間を貫き、ラグの輪郭に確実に触れる。ノイズが弾け、チーターの形状がわずかに崩れる。
「……効いた。」
低く呟き、スロスは次の瞬間を待つ。ラグはすぐに姿を復元し、攻撃の波動を強化して反撃してくる。空間そのものが波打ち、刃の軌道は予測できない。
しかしスロスの経験は100年。痛みや恐怖を超越した感覚が、ノイズの中で正確に刃の先を導く。
次々と襲いかかる残像に対し、スロスは旋回、回避、反撃を繰り返す。ナイフは一瞬の隙間を縫うように動き、空間の歪みを裂いていく。
ラグの攻撃の速度が増す。触れれば破壊される金属や瓦礫が、周囲で飛び交う。空気が裂け、スロスのゲソを逆立たせる。だが、再生を知る者としての余裕が、冷静な判断を可能にしていた。
「……今だ。」
スロスは刃を高く振り上げ、ラグの残像の中心に向けて一直線に突き刺す。
時空の歪みを貫き、ラグの核にナイフが触れた瞬間、空間が弾けるように震えた。ノイズが爆発し、残像は消え去り、ラグの異形は崩れ落ちる。
「……終わったか。」
立ち尽くすスロスの視線の先、瓦礫の間に消え残るわずかな歪み。ラグのチーターは完全には消えていない。しかし、その姿はもはや戦闘可能な形ではなく、空間に溶けていく。
スロスは静かに息を整え、ナイフを研ぐ動作を頭の中で再現する。戦闘の後、空気は少し冷え、インクの焦げた匂いが夜風に漂う。
再生の瞬間の痛みも、ラグのノイズの恐怖も、すべてが戦闘の糧となる。
「……今日も、これで終わりか。」
低く呟き、スロスは暗闇の路地へと歩みを進める。次なる標的を求めて、冷たい夜に姿を消していった。
夜の街は不穏な空気に包まれていた。瓦礫の山の間、焦げたインクの跡が薄暗い光に反射して、まるで街全体が呼吸しているかのように揺らめいて見える。
その一角、誰も踏み入れぬはずの廃工場の前に、三つの影が音もなく現れた。
「……ここで合ってるのかな。」
一匹の声が低く漏れる。柔らかい声だが、どこか鋭さを秘めている。影は廃材の隙間を覗き込み、微かに揺れる空気の波を確認していた。
「うん、確かに痕跡があるわ。」
別の声が応える。背の低い影が、厚底ブーツで瓦礫の間に身を乗り出す。視線の先には、焦げたインクの痕と、斬り裂かれたチーターの残骸が散らばっていた。
「でも、もう動くことはないみたい。」
その口調は少し柔らかく、しかし現場の緊張感を隠すことはできない。
「ねえ、こっちはどう?」
最初の影が指示を出すように訊ねる。
「確認したわ。異常はない。再生の痕跡もなし。」
三つ目の影が慎重に瓦礫の端を歩き、「それ」の変化を感じ取る。わずかに揺れる空気、微細な振動、夜風の微かな渦。すべてを感知して慎重に分析する。
三匹は互いに目を合わせることもなく、無言で現場を見回す。
「……ここで倒されたのか。」
最初の影が小さく呟く。声の端に驚きや困惑はない。ただ、現場を正確に把握しようとする冷静さだけがある。
「確かに……何者かが動いた痕跡がある。」
厚底の影が再び視線を移し、瓦礫の隙間に残るわずかな動きの痕跡を指で示す。
三つ目の影は静かに頷く。戦った相手の痕跡を追う。
「見えたか?」
最初の影が低く問いかける。
「うん、でもまだ誰だかは分からない。」
厚底の影が応える。その声には少しだけ興奮が混じる。未知の存在の戦いの跡を目の当たりにして、内心で戦慄しているのだろう。
「……はは、街はまだまだ歪んでるな。」
最初の影が軽く笑う。
「この痕跡、しっかり記録しないと。」
「そしてこれ。これももらっとくぞ。」
夜になってもなお輝きが乱反射している。
「それ」だ。
影たちは無言で立ち去る。廃工場の夜は再び静まり返る。瓦礫の間に残ったのは、戦いの痕跡と、微かに漂うインクの匂いだけ。
街の暗闇の中で、三つの影は消えるように夜に溶け込む。
誰もその姿をはっきりとは見なかった。だが、倒れたチーターの死体は、確実に彼らの目に映ったのだ。
「……次はどこだ?」
低い声が夜風に乗って届く。
「情報を整理してからだよ。」
厚底の影が答える。
三つ目の影は何も言わず、瓦礫の中に残る微かな振動を再び確認する。
街の闇に溶けた三匹――未知の存在は、すでに次の標的を見据えていた。
その影は、まだ誰も知らないが、間違いなく街を監視し、必要な時には行動するだろう。
夜は深まり、瓦礫の山に月光が当たる。焦げたインクと血の匂いが、わずかに冷たい風に乗って漂う。
戦いの余韻を残したまま、影たちは静かに歩き去る。誰も振り返らない。
だが、確かにそこにいた。