テラーノベル
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油の弾ける音と、香辛料の匂いが渦を巻く。
グランベル下町の大衆食堂「満腹亭」、昼の書き入れ時。満席に近い賑わいの厨房には、絶え間なく怒号にも似た注文の声が飛び交っていた。
見習いとして雇われて一ヶ月。まだ半分もレシピを覚えきれていない私だったが、今日はどうしても、看板メニューである「炒め野菜の盛り」を、店主の目の前で一人で仕上げてみせたかった。
(今日こそは、決めてみせる……! 店主にも、ようやく一人前だって、認めてもらえるはずだから)
厚い鉄鍋を煽り、具材を空中で踊らせるように返す。満腹亭名物のこの豪快な仕上げ方を、私はこの一ヶ月、誰よりも熱心に練習してきたつもりだった。
腕を高く振り上げ、鍋を煽る。
その瞬間だった。
(――え……? 肩が、上がらない……!?)
支給された詰襟の厨房着の肩周りが、まるで杭で打たれたように動きを止める。肩がそれ以上上がらず、鍋を返す軌道が半端に途切れた。
鍋の中の具材は、狙った皿ではなく、カウンターの上へと盛大にぶちまけられる。
ガチャン、バサッ!
「……おいミナ、何度目だ、それ」
店主の呆れたようなため息が、厨房に響いた。
「す、すみません……! すぐ片付けます……!」
「おいおい、また失敗か?」「新人ちゃん、大丈夫かい」
失笑と呆れの視線に晒され、顔から火が出るような思いで具材を片付ける。
(また、だ。……この一ヶ月、何度も同じ失敗を繰り返してる。腕が、途中で止まっちゃうんだ)
カウンターの端、定食を黙々と食べていたシオンさんと、ふと目が合った。
(シオンさん……。いつも静かに、一人で食べてるあの人。今の、見られちゃったな……)
黒い猫耳と尻尾を持つ、いつも無表情なあの獣人の女性は、失笑するどころか、何かを見定めるような目で、じっとこちらを見つめていた。
○
片付けを終え、裏口でぼんやりと肩を回していた私に、足音もなく近づいてきたのは、そのシオンさんだった。
「そこのお前」
「あ……シオンさん」
普段は誰とも積極的に会話をしない、店の空気のような存在の彼女が、自分の方から声をかけてくるのは初めてのことだった。
「……その肩、いつも同じところで止まっているのだ」
「え……」
「腕を上げる時、肩甲骨のあたりで、動きが引っかかっている。……厨房着のせいだろう」
(この人、いつもほとんど喋らないのに……。こんなに的確に……)
「あ、あの、シオンさん、何か……ご存知なんですか」
「職人街の外れに、隠れ家みたいな防具屋がある。……行け」
「え、あの、防具屋、って……。ちょっと、詳しく……」
「行けば分かる。……私の飯が美味くなるのは、悪いことじゃないのだ」
それだけ言うと、シオンさんは踵を返し、店の中へ戻っていった。
(この人の、飯……? どういう意味……。でも、あの人がそこまで言うなら……)
「他に、方法もないし……。行ってみるしかないか」
○
半信半疑のまま、シオンさんの言葉だけを頼りに辿り着いた店構えは、想像していたよりも遥かに落ち着いた佇まいだった。
厨房着のまま来てしまったことに気づき、少し気恥ずかしさを覚えながら、私はカウンターの奥にいた黒髪の男性に声をかけた。
「あの……すみません。シオンさん……という方に、こちらに行くよう言われて参りました」
「……シオンさんの紹介ですか。それにしても、来店直後から分かりますが、その厨房着、肩周りの構造にかなり無理がありますね」
「え……」
「肩を上げる動作、途中で止まりますよね。それも、いつも同じ角度で」
(シオンさんと、まったく同じことを……)
「は、はい……。まさに、その通りです。鍋を煽ろうとすると、いつも肩が引っかかって……」
「量産品の厨房着は、肩甲骨が上方回旋する動作を、つまり、腕を高く上げる時に肩甲骨自体も一緒に回転する動きを、まったく想定していません。縫製の都合上、肩周りの生地を動きにくい形で固定してしまっているんです」
「肩甲骨の……回旋、ですか」
「鍋を煽る、高い場所の物を取る、そういった動作の全てに、その回旋が必要です。それができないまま無理に腕を上げようとすれば、途中で動きが引っかかり、狙った軌道からズレる」
(……じゃあ、私が何度も失敗してきたのって)
「私の、腕の振りが悪いんじゃなくて……」
「筋力不足もありますが、技術の問題ではありません。装備が、そもそもその動作を許していないだけです」
その一言に、この一ヶ月の悔しさが、なぜかじんわりと溶けていく感覚があった。
「見せていただけますか。……肩周りを確認します」
促されるまま、案内された狭い空間で、厨房着の上着を脱ぐよう言われる。
厨房仕事で鍛えられた腕や、あちこちに散った小さな火傷の痕が残る肌を誰かに見せることに、多少の気恥ずかしさはあった。だが、この一ヶ月の悔しさを思えば、それくらいの羞恥は些細なことに思えた。
「あ、あの……上着だけ、脱げばいいですか」
「はい、それで結構です」
緊張しながらボタンを外し、上着を脱ぐ。詰襟の下に隠れていた首筋から肩、そして二の腕にかけての肌が、フィッティングルームの淡い灯りの下に露わになっていく。厨房の熱気で火照っていたはずの肌が、外気に触れた瞬間、ひやりと冷える感覚があった。
「……できました」
トウヤさんが近づき、迷いのない手つきでこちらへ距離を詰めてくる。
「あ……」
トウヤの指先が、肩甲骨の輪郭をなぞるように触れた――。
指先が肌をなぞる感触に、思わず肩がびくりと跳ねる。
「ひゃ、っ……」
指先が肩甲骨に触れた瞬間の間の抜けた声を、トウヤさんは気にする様子もなく、そのまま観察を続けていく。
じっと肩の輪郭を確かめるように指を滑らせる感触が、剥き出しの背中を這っていく。ひんやりとした指先が肩甲骨の縁をなぞるたび、くすぐったさとも違う奇妙な感覚が背筋を駆け抜けた。
「動かないでください。……肩甲骨、上方回旋の可動域を確認します。腕を、ゆっくりと真横から上げてみてください」
「は、はい……」
ゆっくりと腕を真横から持ち上げていく。
「……あ」
「そこですね。今、肩の高さを超えたあたりで、明らかに動きが詰まりました」
「詰まった、というか……なんか、そこから先、すごく重くなる感じがします」
「厨房着の肩周りの縫製が、その角度から先の生地の余裕を奪っている。……それと、手首を見せていただけますか」
「手首……ですか?」
トウヤさんが私の手首を取り、軽く動かして確認する。指先が手首の腱をなぞる感触に、また肌が粟立った。
「……思った通りだ。手首の可動域、通常より過剰に使われている痕跡があります」
「え……」
「肩が上がらない分を、無意識に手首の返しだけで補おうとしている。鍋を煽る動作の力の大半は、本来、肩から腕全体で生み出すものです。それができない分、手首一点に負荷が集中している」
(そういえば……最近、夜になると手首がじんじん痛むことが増えてた。まさか、これが原因だったなんて……)
「じゃあ、鍋が落ちるのも、手首が痛いのも、全部……」
「根っこは同じです。肩甲骨の可動域さえ確保できれば、両方解決します」
肩幅、肩甲骨の稜線、腕の長さ……メジャーが淡々と当てられていく。剥き出しの肩を淀みなく滑っていくメジャーの冷たい感触に、私は俯いたまま息を詰めた。
「採寸完了です。少々お待ちを」
○
作業台に向かうトウヤさんの手元を、私はカーテンの隙間から見つめていた。
選ばれていたのは、厨房着そのものの生地ではなく、それよりもずっと薄く、しかし丈夫そうな魔繊維の布地だった。
「これを、今の厨房着の内側、肩から脇の縫い目に沿って仕込みます。表からは見えません」
「表から見えない……。じゃあ、見た目はこれまでと変わらないままで……?」
「厨房で働く以上、衛生規定に適った見た目を保つ必要があるでしょう。生地の色も厚みも、外からは一切分かりません。……肩甲骨の可動域だけが、内側からこっそり解放されます」
その言葉に、私は思わず身を乗り出した。見た目の規定を崩せないという、まだ口にもしていない事情を、彼はすでに織り込んで考えていたらしい。
手早く縫い付けられ、程なくして仕上がる。見た目は、確かに元の厨房着とまったく変わらなかった。
「本当に、何も変わって見えませんね……」
「試しに、鍋を煽る動作をしてみてください」
震える手で、空の鍋を煽う真似をする。腕を高く振り上げる。
「……あ」
肩が、詰まることなく、すっと最後まで上がっていった。
「上がる……! 全然、引っかからない……!」
「どうです。手首にも、余計な負担がかかっていないはずですが」
何度も鍋を煽う動作を繰り返してみる。手首に、あの嫌な突っ張り感が一切ない。
涙目になりながら、私は思わず呟いた。
「こんな一ヶ月、私、何をあがいてたんだろう……。ずっと、自分の練習が足りないだけだと思ってたのに」
「練習量の問題ではありませんでした。装備が、そもそも許していなかっただけです」
「……ありがとうございます、本当に」
「対価については、分割でも構いません。追ってご相談を」
「は、はい……! あの、シオンさんにも、ちゃんとお礼、言わなきゃ……」
○
数日後。大衆食堂「満腹亭」の厨房。再びの昼の書き入れ時。
あの失敗から何日も経っていないのに、私はもう一度、店主の前で「炒め野菜の盛り」を任せてもらう機会を得ていた。正直、まだ半分は自分でも信じられない気持ちだった。
鉄鍋を手に取り、具材を投げ入れる。
腕を振り上げる、その瞬間、以前ならここで詰まっていたはずの肩が、何の抵抗もなく最後まで上がっていく。
(上がる……! あの時の重さが、どこにもない……!)
具材が空中で綺麗な弧を描き、鍋の中へ吸い込まれるように戻ってくる。もう一度、もう一度と、リズムよく鍋を煽り続ける。
狙った通りの盛り付けで、皿の上に美しく積み上がっていく具材。
厨房の喧騒の中、それに気づいた店主が、驚いたように手を止めてこちらを見ていた。
「……ミナ、今の、お前がやったのか」
「は、はい……!」
自分でも信じられないという顔で、盛り付けられた皿を見つめる。
「一ヶ月、ずっと同じところで引っかかってたのに……。急に、何があったんだ」
「その……ちょっと、装備を見直してもらったんです」
「装備?」
「はい。……肩が、こんなに軽く動くなんて、知らなかったんです」
店主が皿を持ち上げ、盛り付けを確認する。
「……悪くない。いや、むしろ、俺が教えた時より綺麗にまとまってるじゃねえか」
(やった……。ちゃんと、認めてもらえた……!)
「よし。次の常連客への一皿、お前が仕上げてみろ」
「は、はい! やらせてください!」
○
数日後、トウヤの店。ちょうどシオンさんが、カウンターの隅で寛いでいた。
経過を報告しに訪れた私は、あの日の紹介がなければ今の自分はなかったのだと思うと、自然と足がそちらへ向いた。
「あ……シオンさん!」
「……ん。厨房着の方は、片付いたのか」
「はい……! あの、本当にありがとうございました。あれから、看板メニューも任せてもらえるようになって」
「……そうか」
それだけ言うと、シオンさんはまた興味を失ったように視線を逸らす。だが、その尻尾の先が、心なしか嬉しそうに揺れているのを、私は見逃さなかった。
(口では素っ気ないけど……)
「……今度、あの炒め物、多めに頼む」
「はい、喜んで! シオンさんの分は、いつも一番大盛りにしますから!」
「ミナさん。厨房着の仕込み、あれから不具合はありませんか? 念のため、再採寸を」
トウヤさんの言葉に、私は勢いよく顔を上げた。
「あ、そうだ! それより、トウヤさんとシオンさんに、お礼に何か作らせてください! 今度、賄い、持ってきますから!」
「……再採寸の話をしたのですが」
「大丈夫です、材料は私が持ちます! 絶対に美味しいの、作りますから!」
食い気味にまったく違う方向へ話を進める私に、トウヤさんは珍しく、わずかに言葉を失っていた。
「……いい心意気だ。気に入った」
満足げに頷くシオンさんの笑顔で、私の一日が締めくくられていった。
コメント
1件
うわあああ、ミナちゃんかわいすぎる〜!!😭💕 「自分のせいでできなかった」って思い込んでたところが、トウヤさんの「装備が許してなかっただけ」で全部溶けていくの、めっちゃエモかったよ…!! 肩甲骨が上がらなかった原因がちゃんと理学療法っぽく説明されてるのもリアルで好き。シオンさんのツンデレ尻尾にも大注目です🐾✨ 次話も絶対読む!!