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夜桜スピカ
542
#空閑有吾
さんま
20
230
#いこおき
さんま
6
その日の朝、三門市を襲ったのは、凍りつくような大不況のニュースでも、新型の近界民の襲撃でもなかった。しかし、絵馬ユズルにとっては、世界そのものが不意に機能を停止したかのような、静かで、圧倒的な拒絶だった。
「鳩原未来が、密航した」
影浦隊の作戦室で、いつもと変わらない気怠げな様子でソファに寝そべっていた影浦雅人が、ぼそりと呟いたその一言。ユズルの耳は、最初、その言葉の持つ意味を正しく処理できなかった。
ミッコウ。
それはボーダーの厳格な規律を破り、許可なく近界へと旅立つ大罪だ。あの、いつもおずおずと笑っていて、ユズルの後ろを申し訳なさそうに歩いていた鳩原先輩が、そんな大それたことをするはずがない。
「……何、言ってるの、カゲさん。変な冗談はやめてよ」
「冗談なわけねーだろ。本部の上の方が大騒ぎしてる。二宮の奴も、今頃顔を真っ青にしてるはずだ」
影浦の感情の揺らぎが含まれた重苦しいトーンが、それが紛れもない事実であることを告げていた。
ユズルは作戦室を飛び出していた。どこへ向かうべきかも分からず、ただ、彼女の気配が残っている場所へ、身体が勝手に動いていた。息を切らせてたどり着いたのは、二人がいつも使っていた古い個人用のトレーニングブースだった。鍵はかかっていなかった。ユズルが勢いよくドアを開けると、そこにはいつも通りの、少しカビ臭くて冷え切った空間が広がっていた。 けれど、何かが決定的に違っていた。
「鳩原、先輩……?」
返事はない。いつもなら、部屋の隅にあるパイプ椅子に腰掛け、大きめのコートに身を包んだ彼女が、「あ、ユズル、お疲れ様」と眠そうな目で迎えてくれるはずだった。シミュレータの電源は落ちており、画面は真っ黒なガラスのように、ユズルの呆然とした顔を映し出している。 部屋の空気は、ただただ冷たかった。 彼女がそこに座っていたという温もりは、どこを探しても見つからなかった。まるで、最初から鳩原未来という人間がこの世に存在していなかったかのように、綺麗に、冷徹に、彼女の気配だけが消え去っていた。ユズルは、彼女がいつも座っていたパイプ椅子にゆっくりと近づき、その座面にそっと手を触れた。冷たかった。氷のように冷え切った鉄とビニールの感触が、手のひらを通じてユズルの心臓を直接突き刺す。
急に失くなった、君の熱量
そのとき初めて、ユズルは理解した。彼女は本当に行ってしまったのだ。自分を置いて、手の届かない、あの暗い世界の向こう側へ。
「なんで……なんで何も言ってくれなかったんだよ……!」
拳を椅子に叩きつける。鈍い音が、狭いブースの中に虚しく響いた。怒りと、悲しさと、それ以上に”信頼されていなかった”という惨めさが、ユズルの胸をめちゃくちゃにかき乱した。一番近くで、彼女の苦しみを見ていたはずだった。彼女が二宮に怒鳴られ、引き金の重さに耐えかねて震えていたとき、隣にいたのは自分だったはずだ。それなのに、彼女が本当に助けを求めたのは、自分ではなく、密航の手引きをしたという一般人の協力者たちであり、一緒に行った兵士たちだった。
自分は、彼女にとってその程度の存在でしかなかったのだろうか。
ただの、生意気で、歩くのが早いだけの、年下の後輩。
『ユズルは、優しいね』
いつだったか、ユズルが「俺がもっと強くなって、先輩の代わりに人を撃つから」と言ったとき、鳩原はそんな風に言って、ユズルの頭を優しく撫でた。あのときの彼女の瞳には、愛おしそうな光と同時に、深い諦めのようなものが混ざっていた。
『でもね、ユズル。ユズルは自分のためにその強さを使いな。あたしのために、ユズルの未来を汚しちゃいけない』
あの言葉は、今思えば、ユズルを自分の計画から遠ざけるための、不器用な嘘だったのだ。 ユズルを巻き込みたくなかったから。ユズルに傷ついてほしくなかったから。彼女なりの優しさで、彼女はユズルを蚊帳の外に置いた。けれど、残された側にとっては、その優しさこそが一番残酷な毒だった。
「優しくなんか、しなきゃよかっただろ……」
ユズルはパイプ椅子の前に膝をつき、顔を覆った。涙は出なかった。ただ、胸の奥が、焼け付くように熱くて、痛かった。本部にいれば、鳩原を非難する声が嫌でも耳に入ってきた。
「規律違反だ」
「裏切り者だ」
「二宮隊の面汚しだ」
特に、彼女の隊長であった二宮匡貴の、あの冷徹な視線と態度は、ユズルの神経を逆撫でするのに十分だった。二宮は、鳩原が消えた後も、何も変わらないように振る舞っていた。まるで、最初からそんな部下はいなかったかのように。
『二宮さん、あんた、鳩原先輩がどんな気持ちでいたか、本当は分かってんだろ!』
一度だけ、本部の廊下で二宮に掴みかかりそうになったことがある。そのときは影浦が後ろからユズルの首根っこを掴んで引き剥がしたが、二宮は足を止めることすら一瞬で、ユズルを冷たく見下ろしただけだった。
『絵馬。感情で動くスナイパーは、戦場では真っ先に死ぬぞ。鳩原のことは忘れろ。あれはもう、ボーダーの人間ではない』
冷酷な正論だった。けれど、ユズルにはそれが許せなかった。忘れることなんてできるわけがない。鳩原が残していったものは、ユズルの心の中に、重い忘れ物として居座り続けている。
彼女から教わった技術。
彼女と過ごした時間。
そして、彼女を救えなかったという、消えない後悔。
それらがすべて、今のユズルを動かす歪んだエネルギーになっていた。夕暮れ時のトレーニングブース。ユズルは、自分のアイビスを出した。ずっしりとした重みが、両手に伝わってくる。この銃を構えるたびに、鳩原の細い指の震えを思い出す。
「オレは、忘れない」
シミュレータの電源を入れ、暗闇の中に浮かび上がるターゲットを見つめる。
鳩原先輩。あんたがオレを置いていったこと、一生許さない。
あんたがオレに黙って一人で背負い込んだこと、全部、台無しにしてやる。
トリガーに指をかけた。
呼吸を整える。心音が高鳴る。けれど、狙いは微塵もブレない。彼女が「重い」と言って耐えきれなかった引き金を、ユズルは冷徹に、力強く引き絞った。
パーン、と、シミュレータの電子音がブースに響き渡る。画面の中央、赤い的の真ん中が、正確に撃ち抜かれていた。失くなった彼女の熱量を、自分の怒りと決意の炎で埋め尽くすように、ユズルは何度も、何度も、一人で引き金を引き続けた。冷え切った部屋の中で、ユズルの吐き出す息だけが、白く、熱く、燃え盛っていた。
コメント
3件
はる。だわ。第2話、読んだ。 うわ、重い……。でも、この重さがめちゃくちゃ胸に刺さるわ。ユズルの「一生許さない」って歪んだ執着が、愛と怒りと後悔が混ざり合ってて、もう、たまらん。引き金を引き絞るシーン、彼女の「重い」って言った重さを自分が背負うって決意の表れだよね。冷えた部屋で吐く息だけが熱いっていう対比が、心に焼きついた。 続き、マジで気になる。次話も読ませてもらうわ🔥