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朝の光が
喫茶 桜の居住スペースに差し込み
柔らかな陽が
キッチンとリビングを包んでいた。
奥のキッチンでは
時也が慣れた手つきで
朝食の支度をしている。
カリッと香ばしいトーストの香りに
卵が焼ける優しい音──
そして
桜の花を思わせる
甘やかなジャムの香りが
空気の中を漂っていた。
リビングでは
小さな体の全てを使って
青龍が掃除に勤しんでいる。
その動きは無駄がなく
長年仕えてきた者の矜持すら
滲むほどだった。
幼子の姿とはいえ
箒を操る所作は実に威厳に満ちている。
「おっはようございまーす!」
寝室からリビングに続く扉から
明るい声が響いた。
階段を駆け下りてきたのは
レイチェルとソーレン。
上下揃いのランニングウェア姿で
朝の活力に満ちている。
「おはようございます。
レイチェルさん、ソーレンさん。
これからランニングですか?」
手を止めて振り返った時也が
優しい笑顔で二人を迎えた。
「うん!行ってきます!
時也さん、寝不足はもう大丈夫なの?」
レイチェルの言葉に
時也は軽く目を伏せて微笑んだ。
「えぇ。
お陰さまで、ぐっすり眠れました。
ご心配お掛けしましたね」
レイチェルは安堵の息をひとつ吐いて
顔を綻ばせた。
その後ろで
ソーレンが大きく欠伸を噛み殺しながら
にやりと皮肉な笑みを浮かべる。
「アリアの姿が見えねぇから
たぁっぷり甘やかされたんだろうよ?」
「もう!ソーレンったら!」
レイチェルが頬を膨らませて抗議する中
時也は小さく苦笑しながら
水筒をひとつ差し出した。
「⋯⋯ランニング用のドリンクです。
気を付けて、行ってきてくださいね」
「わあ、ありがとう!行ってきます!」
レイチェルは嬉しそうに水筒を受け取り
ソーレンと共に玄関へ向かった。
開け放たれた扉の先には
朝陽を浴びた街が広がっている。
二人の後ろ姿が見えなくなると
時也は再びキッチンへ戻り
朝食の準備に取り掛かった。
静けさが戻ったリビング。
青龍は、また黙々と掃除を続けていた。
小さな手で箒を動かしながら
玄関の前へと向かう。
木の床を掃き終え、玄関扉を開け
外の石畳に落ちた花びらを
今度は外用の箒に持ち替え
掃き集めていたその時──
垣根の影から、ふいに一匹の猫が現れた。
毛並みは白に近いグレーで
長く波打っており
大きな蒼い瞳は
どこか憂いを帯びていた。
猫はよろよろと歩き出し
青龍の足元へと擦り寄ってくる。
その身体は痩せこけ
毛並みもところどころ絡まっていた。
「⋯⋯おや。お前、随分と窶れているな」
青龍は手を止め
幼子の姿のまましゃがみこみ
猫を静かに見つめる。
猫は青龍の膝に
額を擦りつけるように身を寄せ
低く鳴いた。
「⋯⋯ふむ。
我が主に
お前に分けてやれるものがあるか
聞いてきてやろう。
待っていろ」
その言葉に
猫はまるで意味を理解したかのように
再び短く鳴いて
静かに地面に身を伏せた。
青龍は玄関の扉をゆっくりと開き
室内に戻る。
⸻
「⋯⋯猫、ですか?」
手に持ったトングを止めて
時也は振り返った。
キッチンの入り口に立つ青龍が
真剣な面持ちで見上げている。
「はい。
外に、ひどく痩せた野良が⋯⋯
与えられるものはございますか?」
その口調は幼子の姿とは思えぬほど厳かで
けれど
どこかその声音には
小さな命を想う温かさがあった。
時也は一拍の思案ののち
ふと何かを思い出したように
冷蔵庫へと歩み寄った。
「少々お待ちを」
静かに扉を開け
中から取り出したのは
新鮮な鶏のササミだった。
手早く鍋に湯を沸かし
丁寧にササミを湯に潜らせていく。
肉が白く変わり
やわらかく煮えるまでの間
時也は何も語らず
ただ静かに火加減を調整した。
「⋯⋯よし」
しっかりと火の通ったササミを
まな板に取り出すと、指で割いていく。
細く、柔らかく──
猫の小さな口でも噛みやすいように
丁寧に。
その指先の所作には
料理人としての確かな技術と
命を想う真摯さが滲んでいた。
皿に盛られた時
ササミはまるで白い花びらのようだった。
「これで良いでしょう」
そう言って、そっと皿を差し出す。
青龍は静かに一礼する。
「ありがとうございます。
小さき命も⋯⋯きっと、喜びましょう」
その小さな背が
皿を両手に抱えてくるりと振り返る。
時也は静かにその姿を見送りながら
再びキッチンで調理を再開した。
朝の光がまだ柔らかく降り注ぐ中──
青龍が玄関を開けて外に出ると
垣根の傍にいた猫は
まるで理解していたかのように
そこにちょこんと座って待っていた。
真っ直ぐにこちらを見つめる蒼の瞳は
どこか人のそれを思わせる
静けさと聡明さを宿していた。
「待っておったか。聡い猫だな」
青龍はゆっくりと猫の前に膝をつき
両手で皿を差し出す。
白く裂かれたササミの香りが
ふわりと鼻先をかすめると
猫は一歩だけ前へ進んだ。
慎重に匂いを嗅ぎ
次いで
まるで礼を述べるように瞳を細めると──
品のある所作でそっと口に運んだ。
身体に尾を巻きつけるようにして座り
少しずつ咀嚼するその姿は
ただの野良猫とは思えぬほど
落ち着きと気品があった。
青龍はしゃがんだまま
その様子をじっと見つめる。
「慌てずに⋯⋯と、言おうとしたが
無駄な心配であったな」
目を細め、息をつく。
猫は綺麗に食べ終えると
その場で顔を洗い始めた。
前足を器用に舐め取り
耳の後ろを撫でるように擦っている。
一連の動作が終わるまで
青龍は言葉も発さず
ただ静かにそれを見守った。
「満たされたか?
お前も、強く生きていくのだぞ。
では、達者でな」
青龍はゆっくりと立ち上がり
皿を手に取った
──その瞬間だった。
猫の青龍を見上げたその瞳が
不意に光を宿す。
淡く、しかし透き通るように
青く輝いたかと思えば──
空間が水を張ったように歪み
青龍の目前に
突如として水鏡のような結界が広がった。
それは静かに
しかし迷いなく青龍の行く手を遮り
瞬く間に四方を囲う。
「⋯⋯こ、これはっ」
水面のように揺らぐ壁に
手を伸ばしてみると
温度の感触は無く
抵抗だけが掌に返る。
向こうに見える景色はゆらゆらと歪み
まるで夢の中のようだった。
音も風もなく、完全な静寂が訪れる。
「結界術、か。
お前⋯⋯ただの猫ではないのか」
周囲をぐるりと見渡すが
見えるのは揺らぐ壁と、静かな光景だけ。
足元には、猫が再び寄ってきており
満足げに青龍の脚に擦り寄ってきた。
青龍は眉を顰め、ひとつ息を吐くと
心の内で主に語りかける。
《⋯⋯時也様》
だが──
いつもなら返ってくる優しい念の声は
どれだけ待っても、返ってこなかった。
「⋯⋯ふむ。
困ったものだ。
解けるのを待つか⋯⋯
誰かが出てくるかを待つしかないな」
そう呟いて
青龍は結界の内側に腰を下ろす。
猫は
まるで最初から
そこを指定されていたかのように
迷わず青龍の膝に乗り
ふわりと丸くなった。
その長い毛並みがわずかに揺れ
瞳を閉じると、満足そうに喉を鳴らす。
「⋯⋯やれやれ」
微かに肩を竦めた青龍は
幼子の姿のまま、静かに空を見上げた。
囲われた世界は、水面のように静かで──
どこか穏やかな気配を纏っていた。