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ふと、頭の片隅に、作曲家でもない、平凡な私が生み出したとは思えないほど、美しく、儚く、綺麗な旋律が浮かび上がった。
しかし何故、発想というものは、どれだけ強く、強く離さまいと掴んでいたとしても、この手から何処かへ飛んでいってしまうのだろうか。
一瞬にして、旋律は記憶から消えてしまった。
もどかしい。早く、早く思い出したい。今、たった今記憶に残されていたものを、早く取り返さなければ。他の誰かにあの旋律を取られる前に、早く、早く!
私は焦った。焦り、思い出そうとする。思い出せなかった。
どうする、どうしようか?これは時間の問題だ。今、世界中で頭を回し、旋律を考えている人なんて何百万といるはずだ。考えろ、どうすれば思い出せるか、他の奴らより頭を回せ。考えろ、考えろ、私だけのものにしたい。あの美しい旋律は、私にしか考えられないものなんだ。他の奴より、早く思い付いた旋律を!早く!!
そして、ふいに、こんな事を考えた。
…そうだ、他のことをしていたら、いつか思い出すのではないか、と。
ここは一度、焦らず、じっくり、生活を見直し、時間をかける。
…逆の発想。
私はいつもの生活を思い出す。そして行動する。
他に浮かんだ旋律を歌ってみる。何も思い出せなかった。街から聴こえる音楽に乗せてダンスを踊る。何も思い出せなかった。有名なクラシックをバイオリンで弾いてみた。何も思い出せなかった。ならばピアノではどうか。何も思い出せなかった。音楽に関わる事だからいけないのか?明日からまた考えて、今日はもう寝てみよう。何も思い出せなかった。そして色々出来るように早く起きよう。何も思い出せなかった。早朝ベッドの上で目を覚ます。何も思い出せなかった。飛び上がって洗面台に向かう。何も思い出せなかった。鏡に映る私と目を合わせる。何も思い出せなかった。キンキンの流水で顔を洗う。何も思い出せなかった。清潔なタオルで顔を拭く。何も思い出せなかった。丁寧に歯磨きをする。何も思い出せなかった。お手洗いに行く。何も思い出せなかった。綺麗に手を洗う。何も思い出せなかった。朝ごはんの支度をする。何も思い出せなかった。頂きますと言う。何も思い出せなかった。朝ごはんを口に運ぶ。何も思い出せなかった。ご馳走様と言う。何も思い出せなかった。食器を洗い片付ける。何も思い出せなかった。歯を磨く。何も思い出せなかった。テレビをつける。何も思い出せなかった。新聞をポストから取り出し開く。何も思い出せなかった。何も思い出せなかった。椅子に深く腰掛ける。何も思い出せなかった。珈琲を一口飲む。何も思い出せなかった。本棚から本を幾つか取り出した。何も思い出せなかった。文字を読むことに時間を溶かした。何も思い出せなかった。気づけば午後2時を回っていた。何も思い出せなかった。遅めの昼ごはんを食べに出かけた。何も思い出せなかった。車を走らせ近くのカフェに寄った。何も思い出せなかった。ホットサンドとカフェオレを頼んだ。何も思い出せなかった。コップを唇につける。何も思い出せなかった。音を立ててサンドを頬張る。何も思い出せなかった。しばらくして空になった皿を見つめる。何も思い出せなかった。代金を支払い店を出る。何も思い出せなかった。車に乗り込みスーパーに寄る。何も思い出せなかった。何が無かったかなと考えながら商品を見て回る。何も思い出せなかった。
…いや、家に無いものは思い出したよ?
食パンと、ソーセージと、あー…生ハムでもいいな。クリームチーズを巻いて食べるんだ。それならソーセージ買わなくていいな。卵も欲しいかな、あれ、まだあったっけ?卵なんていくらあってもいいか。消費期限の紙だけ無くさなければいいんだから、うわー…卵高…躊躇するな、どうしよ…。いや、買わないとくか。ある方に賭けよう。無かったら…無かったで。あーなんか、クッキーでも作ろうかな。いや、チーズケーキにしようか。クリームチーズ余るかな…それかカップケーキにしようか。生クリームをたくさん絞って、カラースプレーとかアラザンなんかかけて。あれ、そしたら卵いるか。いいや、買っちゃお。じゃあ牛乳と、バターと、生クリームってここに売ってる?アラザンとか、あんま見たことないかも。あれ、カップケーキってホケミで作れるっけ?
…あれ、さっきまで、何思い出そうとしてたんだっけ?
とりあえず、家に帰ろうかな。
そうしたら、きっと思い出すはず。
家に着いた。
…何も思い出せなかった。
何も思い出せなかった事だけ覚えてる。
あれ?本当になんだっけ?
思い出せない。思い出せない。
他の事を考えると、今考えていた事をすぐに忘れてしまう。
…なんで私は、幼い頃からこんなに忘れっぽいんだろう。
嗚呼、本当に妬ましい。才能とも言えるだろうか、私の特技。
小さい時、友達から言われた約束、忘れちゃって、直接聞きに行こうかって思ったけど、 話聞いてなかったって思われそうで、結局守れなくて喧嘩になった事、あったなぁ。
「違うの! 本当に忘れちゃったんだってば!!」
「約束したのに忘れるなんて、 ⬛︎⬛︎ちゃん、 最低!大嫌い!!」
やめて、違うの。
「私だって!!忘れないでねって言ってくれなかったから忘れたの!⬛︎⬛︎ちゃんの馬鹿!!大嫌いっ!!!」
違う、違う。もうやめて。
「っ!ばちんっ」
…痛い。
「…っ、うぅ…」
「もう会いたくない!何回も忘れる⬛︎⬛︎ちゃんが悪いんだからね!! 」
…痛い、いたい。
…い……たい…
……ころ、したい……
…殺したい、殺す、殺してやる。
全力で走った。彼奴だけを視界に入れて後を追いかけた。首元に手を伸ばした。
息が、いきなり止まる音がした。
首、白くて細いな。
こんなもの、私の握力でも折れそうだけどな。
意外と、骨って頑丈なんだな。
嗚呼、止まってる、息。
脈もだんだん、弱まっていく。
手に直接感じる、体温、脈拍、汗、そして恐怖と怨念。
私の手で、此奴の首を絞めている感覚。
…あの時、彼奴…あの子は、何を思っていたのかな。
…何を、思い出していたのかな。
私と比べて、記憶力は凄い良かったんだよなぁ。
羨ましかったな、何でそんなに記憶力良いの?って聞いても、多分生まれつきだよって答えるだけで、嗚呼、結局頭の出来なんだなって思った。
どれだけ努力して勉強しても、劇の台本を覚えようとしても、殆ど上手くいかなくて、いつも私にだけ責任を背負わされた。
そうだよね、ごめんね。私のせいでいつも上手くいかないよね。ごめん、ごめんね。
小学校も、中学校も、高校も、全部行く気にならなかった。
そもそも、人を殺している時点で、学校なんて行けるはずなかった。
あの時の感覚、一生忘れないだろうな。
生きている、でももうすぐ命が、私のせいで尽きる。そんな感じがした。
…あれ?あれ、なんで?
何で、なんで、こういう事は憶えているんだろう。ねえ、教えて?ねえ。
…嫌いだ、こんな私が。
全部全部、間違って産まれてきた私が。
お母さんには、お父さんには、何も悪いところはない。逆に良いところしかないほどだ。
悪いのは私。
私が、私の出来が悪いから、お母さんとお父さんを、学校のみんなを。
…⬛︎⬛︎ちゃんを。
ごめんなさい、ごめんなさい。
ごめん…なさい…
あ、そうだ。
…ここら辺で、一番高い……
もう一度、生まれ変わりたいと願った。
何も、思い出せなかった。
ならば、そうならば。
きっと、この頭が悪いんだ。
この、脳が悪い。
この脳を、どうにかすれば。
…入れ替えたら、新しくすれば。
ビルの屋上に登った。
そこで、私は両手を大きく、翼のように広げた。そして、これまでの人生の中で一番の大声で叫んだ。
「…誰も!私の才能を!
…奪いませんように!!」
そのまま、頭から、真っ逆さまに、落下した。
何も、思い出せなかった。