気が付くと日は落ちていた。
丸一日マンションから出なかった篠崎は、資料作りがひと段落すると、目を休めるべくホットアイピローを電子レンジに突っ込んだ。
朝から何杯目かわからないコーヒーをまた淹れる。
干渉しすぎだとわかっていても、昨夜から葵の泣き声が耳から離れなかった。
今、自分と東田がどういう道をたどるのが分からず、ただただでかすぎる借金の中に住んでいる夏希に、少しでも選択肢を増やし、とりあえず落ち着かせてあげたかった。
どうなるかわからず漠然とした不安にとらわれているよりは、選択肢があって、どれにするかを迷う方が、幾分救われる気がした。
夏希が辿るであろう道は大きく分けて3つだ。
①東田と再婚。東田の両親や親戚とはわだかまりがあるものの、一緒に生きていくのは親や親戚ではなく、夫婦だ。
二人が納得し、葵ちゃんに愛を持って育てられるのであれば、何の問題もない。
②東田とは離婚。しかし、住宅ローンの支払いについては口約束ではなく、拘束力を持つ公正証書を作成する。そうすることで、夏希はもし東田が支払いを停止した場合、東田の財産や給与の差し押さえなどができるようになる。
③東田と離婚。住宅も手放し、葵を連れて家を出る。その後、東田が支払いを続けて自分で住もうが、売却しようが、一切関与しない。
①を選んだとして。
いくら綺麗事を並べようとも、夫婦関係を続けるにあたっては、親戚の介入が不可欠であり、そのたびに不貞行為の説明をすることに、夏希はもちろん東田にもストレスがかかる。
②は、離婚協議中ならまだしも、離婚後の公正証書の作成に、東田が協力的に応じてくれるかはわからず、もしかしたらその作成中に東田側が弁護士を立て、内容について争ってくる可能性もある。
客観的に見ると③が一番現実的だが、それには夏希自身の強い意思をもっての経済的自立が必要不可欠であり、東田の浮気も離婚も、寝耳に水だった専業主婦の夏希にとって、今その選択をさせるのは酷というものだ。
母としての強さがあれば不可能ではないが、昨日の反応を見る限り、今の彼女にそれは感じられない。
「……浮気、ね」
篠崎は温まったアイピローを目に当てて、ソファに寝転がり、目を閉じた。
翌朝、篠崎が出勤すると、すぐ目の前を見覚えのある茶色い髪が歩いていた。
「あ。ムキマラ」
思わず呟くと、彼は頭を掻きながらこちらを振り返った。
「おっと。これはこれはストレートの篠崎さん」
その言い方に少々カチンと来ながら、足を止めてこちらを待っている牧村に並ぶ。
「一昨日はうちの馬鹿どもが世話になったらしいな」
「え?ああ。いえいえ、こちらこそ」
言いながら欠伸をしている。
すると何かに気が付いたらしく駐車場を振り返った。
「てか、俺の方がこっちに帰ってくるの早かったんすね。お借りしたジッポライター、俺から返した方が早かったかな」
言いながら、駐車場から篠崎に視線を移す。
「彼氏に預けちゃったんで」
「…………」
その“彼氏”という言い方に、少なからず嫌味が含まれているのを感じながら、それでも篠崎は微笑んだ。
「いーよ、どうせ今夜帰ってくるから」
言ってから様子を見る。
「……同棲してるんですか?」
こちらの読み通り、言い方の微妙なニュアンスでそこまで勘づいた牧村は、明らかな敵意を篠崎に向けた。
「まあな」
「……へえ。仲良しですね。妬けちゃうなー」
牧村が両手を頭の上で組む。
「紫雨さんといい、林さん?だっけ?といい、セゾンは仲良しですね。楽しそうでいいな。羨ましい」
「別にみんながみんな仲がいいわけじゃないぜ。新谷は前は天賀谷展示場に勤めていたからあいつらと仲がいいだけだよ」
「へえ。セゾンって異動あるんですねー」
言いながら牧村はファミリーシェルターに向けて遊歩道を左に折れた。
「じゃ、俺はこっちなん―――」
「ミシェルは―――」
篠崎は牧村を呼び止めた。
「ないのか?異動」
「…………」
こちらを睨み上げた鋭い目を睨み落とす。
「ありますよ。家庭環境とかで希望があれば」
「お前は、異動の希望はないのか」
少し意地の悪い質問かとも思ったが、ここで確認しておく必要がある。
――こいつが、こちらの挑発に乗るかどうか。
「ないすね。残念ながら」
「……あっそ」
「あ、でも」
牧村が口の端を引き上げる。
「“気になる子”がどっかにいっちゃったら、追いかけるってことはあるかも?」
冬の澄んだ空気に、切れ長の視線同士がぶつかり合う。
「……週末のイベント、景品係は今回はミシェルなんで」
牧村が口を開いた。
「後でまとめて持っていきますね」
「ああ。よろしく頼む」
「じゃ」
言うと、牧村は今度こそ踵を返し、オレンジ色のウサギが待つ展示場に歩いていった。
(……あの目つきのどこが“あり得ない”だよ)
篠崎は牧村に聞こえないようにため息をついた。
(そう思ってんのはお前だけだ。新谷)
空を見上げる。
今夜、初雪が降るらしい空は、灰色に淀んでいた。
「邪魔です」
天賀谷展示場のバルコニーに面した掃き出し窓を拭いていた由樹は、掃除機を抱えた林にぶつかられてよろけた。
「……ま、まだ怒ってます?」
その後ろ姿に尋ねるが、彼は黙って2階のリビングに入っていってしまった。
ため息をつきながらガラスに視線を戻すと、バルコニーに置いてあるプランターに水をやっている紫雨が目に入った。
「おはようございます!」
振り返ると、紫雨はじょうろをグルグルと振り回しながらこちらを睨んだ。
「あれ?セゾン君。何でいんの」
「今日訪問するお客様、午後からが希望で。午前中は何もすることがないので、お手伝いでもしようかと」
「真面目だなー。サボっとけばいーのに」
興味なさそうにじょうろの水気を飛ばし終えると、紫雨はサンダルを脱いでバルコニーから中に入ってきた。
「あいつは先に帰ったわけ?」
(あいつ?ああ。牧村さんのことか…)
「……じゃないですかね?多分、今日仕事じゃないですか?ミシェルも定休は水曜だけだ……」
言った瞬間、子供部屋に引きずり込まれた。
「バッカ野郎!でかい声でミシェルとか言うな、アホが!チン毛燃やすぞ!」
あまりの迫力に目を見開くと、紫雨はキョロキョロと辺りを見回している。
「大丈夫ですよ!林さんなら掃除機もってどっか行きましたから!」
遠くにある主寝室から林がかけている掃除機の音が響き初め、紫雨は目を閉じながら安堵のため息をついた。
「……林さんって」
声を潜めて、この展示場で一番偉いはずの男を見つめる。
「怖いですよね……」
「なんで?」
「俺、実は昨日、結構本気で怒られて……」
言うと彼は金色の目でギラリと由樹を睨んだ。
「……お前はあいつの本当の恐ろしさを知らねぇんだよ」
「え」
「待ってろ。今度なんかあったら、盗撮してメールで送ってやる」
「……夜中トイレに行けなくなると悪いんで遠慮します」
「いや……」
紫雨は大真面目な顔で由樹に顔を寄せた。
「それが俺のダイイングメッセージかもしれねぇから。もしものときはお前がそれをもって警察に行ってくれよ?」
「……は?」
「そして、死ぬまでに100本の男を咥えるっつー、俺の目標をお前が継いでくれっ!」
由樹はいい加減馬鹿らしくなって、目を細めて紫雨を見た。
「ちなみに今、何本目なんですか?」
「はちじゅ………」
紫雨が動きを止め振り返る。
「…………?」
由樹もつられて振り返る。
と、掃除機の音は遠くで聞こえるのに、真後ろに林が立っていた。
「すごい。もうラスト20本を切ったんですね」
無表情で見下ろしている。
「引き続き、頑張ってください」
言うと、林は掃除機を持ち直し、子供部屋を出ていった。
「そういえば……天賀谷って、掃除機2台あるんでしたね…」
由樹が同情の眼差しを向けたが、紫雨は青くなり座り込んでいた。
「紫雨さん……。嫉妬されるうちが華ですよ?」
睨み上げた紫雨を、由樹は笑った。
その言葉が自分に跳ね返ってくる瞬間が、刻一刻と近づいているとは、このときの由樹は知る由もなかった。
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