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スマホのケイタイゲームで遊んでいた淳が、チェッと舌打ちをしている。
夫婦で共働きなんだからゲームなんかしてないで、夕飯の手伝いをしてくれてもいいのに……。もうすぐ、30歳になるのにいつまでも子供みたいなんだから。
夫である淳の様子をチラリと窺い、中村愛理は、心の中で毒を吐く。
結婚する前は手伝ってくれたのに、最近は何もしてくれない。
キッチンに立って料理してとまでは言わない。でも、調味料や小皿を運ぶぐらいならできるはず。
そう思いながら口に出したら、険悪な雰囲気になるのを知っている。それが嫌で、言い出せずにモヤモヤした気持ちのまま声をかけた。
「ご飯できたよ」
「ん、」
淳は、短い返事をして面倒くさそうに立ちあがり、やっとテーブルに着いた。
でも、スマホを手放さない。専用のスタンドに立て掛け、視線を画面に固定したまま、食事を始める。その様子に不快感が募っていく。
せっかく作った肉じゃがやお味噌汁を美味しいとも不味いとも言わずに、口に運ぶ姿を見ていると、食事を楽しむというより、空腹を満たすために食事を取っているんだなと思った。
愛理の心の中に黒いモヤのような不満が広がっていく。
──じゃあ、その食事を用意している私って、何なの?
心の中で文句を言うと、それに反応したかのように淳が不意に顔を上げ、スマホを手に取る。愛理は焦って声をかけた。
「どうしたの?」
問いかけても、すぐには答えず、淳は眉根を寄せている。
そして、持っていた箸を小皿に置き、顔を歪めながらお腹を押さえ呟いた。
「なんか、急に腹が痛い」
「やだ、大丈夫?」
「トイレ行って来る」
席を立ち廊下の向こうにあるトイレへと、慌てた様子で消えていく淳を、愛理は目で追い掛け、呆れたように大きく息を吐き出した。
──子供じゃないんだし、食事を始めてからトイレに行くなんて、マナー違反だよ。
苦々しい思いで、さっきまで淳が座っていた椅子を見れば、いつも手放さないスマホが置きっぱなしになっている。
── 珍しい、よっぽどお腹痛くて慌てていたんだ。
すると、スマホが小さく震えて画面が明るくなり、LIMEで受信したメッセージが表示された。
愛理は、驚きのあまり、その文字から目が離せない。
『今度、いつ会える♡』
スマホの画面を見つめたまま、愛理は息を詰め動けずにいた。やがて、画面はタイムアウトで暗くなる。
トイレの方からジャーと水を流す音が聞こえ、ハッと、我に返った。
「いやー、まいった。急に腹が痛くなって、やっと落ち着いた」
と、首の後ろに手を当てながら、淳は悪びれる様子もなくテーブルにつく。
そして、椅子の上に置き去りにされていたスマホを何食わぬ顔で手に取り一言。
「あっ、スマホ置きっぱなしだった」
その様子にゾワリと悪寒が走る。
── 結婚してまだ2年なのに、浮気してるってことだよね。
さっき、見たスマホの画面の文字が、頭から離れない。そんな愛理の様子を気にもかけない淳は、スマホの画面へ視線を戻し、テーブルの上に残されていた肉じゃがを口に運んだ。
食事を終えると、汚れた食器もそのままにして、立ち上がり「ごちそーさん」と独り言のようにつぶやき、バスルームへと足を向けた。そんな時でもスマホを手放さずにいる。
『不動産リフォーム樹』の跡取りで設計士でもある淳は、ガテン系に人気の防塵防水性能のスマホtuyokuという機種を使っている。
防水加工を良い事に風呂場に持ち込むほど、ゲームに夢中でスマホを手放さないのかと思っていたのに、浮気連絡のカモフラージュだなんて許せない。
愛理は、グッと奥歯を嚙みしめ、自分のスマホの検索アプリを立ち上げる。
『浮気 証拠集め』と入力した。
──ヨシ、そろそろ大丈夫かな。
深夜、隣のベッドで眠る淳は、呼吸音と共に胸が一定の間隔で上下している。
枕元に忍び寄り、淳のスマホを手に取った。
そして、眠っている淳の人差し指をそっと摘まみ、スマホの画面に押し当てる。指紋認証を使って、スマホのロックが外れると、愛理はホーッと息を吐き出した。
──よく眠っている。お風呂上りにビールを勧めたのは正解だった。
まるで、TVのサスペンスドラマで見たような自分の行動に愛理の心臓はドクドクと早く動き、手に汗がジットリと浮かんだ。
手の汗をパジャマに擦り付けるように拭い、次の操作に取りかかる。
GPSアプリのインストールだ。
淳のスマホはtuyokuという機種。Androidのアプリの中から、Watch quietlyというアプリを選びインストールした。このアプリは最初の1週間は無料。その後1ヶ月につき750円の使用料金が発生するが、アプリのアイコンなどは画面に表示されず、その上、他のスマホやパソコンからも操作でき、音声も拾えるスグレモノ。
もともとは、スマホの紛失防止で開発されたという追跡アプリなのだ。
次に、スマホを機内モードにして、 LIMEアプリを立ち上げる。機内モードにしたのは、万が一、操作の途中でメッセージが送られていた場合に既読にならないための対策だ。
ここで、LIMEアプリについているロック機能を使い、ロックを掛けられていれば、暗証番号がわからず、この先に進めない可能性が大きい。”ロックされていませんように”っと、祈るような気持ちでタップした。
スッと画面が進んだ。幸いにもアプリにロックはされていなかった。ホッと胸をなで下ろす。
スマホのタップで先に進む。まずは、非表示になっている人は居ないかチェックだ。
淳は、指紋認証が掛かったスマホを覗き見られるなんて考えた事もなかったのだろう。非表示の友だちもナシだった。
そして、友だち登録の中から怪しい名前を探し始める。
LIMEは、友だち申請で受け取り後に相手の名前を自由に変えられるから、女性名を男性名に変更しているかもしれない。
暗い部屋の中、スマホの画面を食い入る様に操作して、ホラーさながらの自分の滑稽な姿に乾いた笑いが起こる。
その時、モゾッと淳が動く。
床の上に敷かれたラグマットの上に身を低く伏せ、スマホの光が漏れないように体の下にそれを差し込み隠した。
ピンチとも言える状況に、今にも心臓が壊れそうなぐらい早く脈動を繰り返している。
幸い、淳は寝返りを打っただけで、再び一定の呼吸音を刻み出した。
愛理はゆっくりと頭を上げ、用心深く、その様子を窺う。
淳は、体を横を向きにして背中を見せ、寝息を立ている。念の為、口元に手をかざし、反応がないのを確認してから、スマホの操作に戻った。
スクロールをしていくと”浅見”と苗字だけの名前を見つける。
仕事の取引先や職人さんという可能性もあるが、仕事関係は大抵スマホの電話帳の登録のはず。「浅見」は、女性の名前の「亜沙美」とか「愛紗美」のもじりなのかも……。と思った。
LIMEで名前ならともかく、苗字だけはあまり見かけない。違和感を感じて念のため、開けてみる事にした。
タップすると、さっき見た『今度、いつ会える♡』の文字が目に飛び込んでくる。
『お店決めたら連絡するよ』と淳の返信を見て、ヒュッと息を飲み、はぁはぁと、浅い呼吸を繰り返す。
この他にも『この前は楽しかったね♡』『また行こうよ』『早く会いたい』などの履歴があった。
自分で不倫の証拠を探して、それを見つけたくせに、実際に見つけてしまうと、胸が詰まって息をするのも苦しく感じた。
ギュッと目を瞑り、泣かないように自分自身を叱咤する。
──せっかく、ここまで、やったんだから自分のスマホで撮影して、証拠を残しておかないと離婚の時に不利になる。
自分のスマホで、淳の履歴を無我夢中で撮影し、それが終わると、機内モードを解除して、彼の枕元へスマホを戻した。
すべてを終えて自分のベッドに潜り込み、布団を深くかぶる。気が付けば、浅い息を繰り返し、スマホを持つ手がカタカタと細かく震えていた。
それが、慣れない事をした緊張なのか、淳に対する怒りなのか、裏切られたショックなのか、愛理自身にもわからなかった。
──淳が私を裏切っていた。
それは、ここ数か月、持ち続けていた疑念が、確信へと変わった。
仕事が忙しいと言って遅く帰ることが多く、スマホは肌身離さず持っている。新しいネクタイをしてみたり、身だしなみを気にするようになったり、キーケースも新しいものに変えていた。
雑誌やネットで見る”浮気の兆候”というのに当てはまっている。
それでも『淳に限って』と信じたい気持ちで、目を逸らしていた。
結婚して2年、交際した期間も含めれば、7年も一緒に居る。
大学のサークルで知り会った時は、人当たりも良く人気者の彼にだんだんと惹かれていた。ある日、淳からの告白で付き合うようになった時は、本当に夢を見ているようで、幸せだった。
お互いが背伸びせずに、一緒にいる空間が心地よく、この先、家庭を築くなら淳だと思っていた。
永遠の愛を誓い、年を重ね死が二人を分かつまで、ずっと一緒にいるものだと信じていたのに……。
それが、幻だったなんて……。
でもこのLIMEの履歴だけじゃ、不倫の証拠としては弱い。どうにか、尻尾を掴み、出来れば、相手も見つけ出して慰謝料を請求してやりたい。
今まで、二人で積み重ねて来た7年もの月日が、全て汚れてしまったように感じる。
悔しい。
絶対に許さない。
スマホを持つ手に無意識に力が入り、LIMEの履歴を映した写真を睨みつけ決意を固める。
不倫の決定的な証拠を掴むために、淳の様子を見るしかない。
悔しいけど、表面上は今まで通りに振舞って、淳が不倫をしている事に気が付いていないフリをする。
── 眠れない……。明日も仕事があるのに、まいったな。
愛理はスマホを片手に、ベッドから起き上がりリビングへ移動した。
フロアスタンドのスイッチを押すと、不規則に編み込まれたバンブーから漏れる仄かな光が部屋を照らしている。
お気に入りのアジアンテイストの籐で編まれたソファーにぐったりと身を預けた。
本来なら癒しの空間だったはずの部屋。
疲れ切った状態で天井を見上げるとジワリと涙が浮かんでくる。
半年ぐらい前から、仕事が忙しくなったと言って、帰りの遅い日が多くなっていた。早く帰ってきた時も疲れてると言って、家の事には構わずにさっさと寝てしまい、ずっとシテ無い。
きっと、その頃から浮気を始めていたんだ。
5年も付き合って、淳の性格はわかっていたつもりだったけど、2年前に結婚してから変わり始めた気がする。
付き合っていた頃は、クリスマスや誕生日のイベントの度に素敵なデートプランを用意してくれて、プレゼントも欠かさなかった。
それなのに、結婚してからだんだんと興味を失ったようになおざりな態度になってきた。釣った魚には餌はやらないタイプなのか、収入的に自分が上だからマウントを取っているのか、妻には関心を持てなく無くなったのか。
いや、全部か……。
もしかしたら、淳にとって都合がいい結婚相手として選ばれたのかも知れない。
そんな思いが愛理の胸の内に沸き起こった。
このまま結婚生活を続けてゆく意味がわからなくなった。
共働きなのに身の回りの世話をして、浮気をされて、女として見てもらえない。まだ、28歳なのにこのまま枯れていくなんて寂しすぎる。
──実家の事が無ければ、明日にでも離婚したい……。
愛理の実家は、小さな工務店だ。父親と弟、それと2人の職人さんで、一般の木造一戸建てやリフォームをやっているが、このご時世、個人経営では限界がある。経営が回らなくなっていたところに、材木の高騰で仕入れ原価が上がり、ますます経営は厳しくなり借金がかさんだ。そこで、淳の紹介で不動産リフォーム樹に、下請けの仕事を貰うようになり、実家の家計が回るようになっていた。
──離婚したら下請けを切られてしまうかも……。
そんな不安がよぎった。自分一人なら仕事もあるし、どうにかなるけど実家の分までは背負えない。
行き先の見えない不安の中、まんじりともしない夜が更けていく。
ふと、壁に掛けてある淳の背広が目についた。
愛理は立ちあがり、フラフラと近づいて行く。
淳の背広の前に立ち、手を伸ばす。
虚ろな瞳で背広のポケットに手を入れ、ガサゴソと中身を探る。何も無いのを確認すると、背広をめくり内ポケットから長財布を取り出した。
開いた長財布の中にはクレジットカードが2枚、銀行と郵便局のキャッシュカードがそれぞれ1枚ずつ、それにポイントカードも2枚、一万円札6枚と千円札が2枚。
札の手前には数枚のレシート。愛理はレシートを取り出しテーブルの上に並べる。直ぐに自分のスマホでカメラに収め、それを長財布に戻す。
長財布も、また背広の内ポケットに仕舞った。
クレジットカードの請求書はメールだし、カード会社ごとにパスワードの設定があるから見るのは無理か……。
立場上、自分から離婚を切り出すのは難しいかもしれない。でも、証拠を集めて置けば、何かの役に立つはずだ。
気持ちを持って行く場所はソコにしかない。
深夜、街が寝静まる時間に何かに取り付かれたように、自分のスマホに残したレシートの写真を見つめた。
会社近くのコンビニや定食屋のレシート、それに有名コーヒーチェーンのレシートがスマホの画面に写っている。何かが気になり、指でタップして拡大して見ると、そのレシートに違和感を覚え身を乗り出した。
それは、3日前の日付の印字、店名が三子玉川店、クランチアーモンドチョコフラペチーノとカフェラテが1つずつの記載がある。
いかにも甘そうなクランチアーモンドチョコフラペチーノを淳が飲むとは思えない。
ポチポチと自分のスマホに『カフェ 三子玉川店 クランチアーモンドチョコフラペチーノ』と入力。
クランチアーモンドチョコは、三子玉川店限定商品だというのがわかった。
次にインストアプリを立ち上げ、『#クランチアーモンドチョコフラペチーノ』と入力すると、タグ付けでUPされた写真が次々に表示される。
3日前の日付になるまでスクロールして、そこから一枚一枚を丁寧に吟味していく。
もはや、執念とも言える感情に突き動かされていた。
自分の中で、何かが壊れて行く。
私、こんな執念深い嫌な女じゃなかったのに……。
スマホの画面に映る楽しそうな人達、クランチアーモンドチョコフラペチーノのインスト映えショットを見つめていると、浮気をされて深夜にコソコソと浮気の証拠を探している自分の姿があまりにもみじめだと思った。虚しさで心がひび割れていく。
淳の何が好きだったかも、今となっては思い出せない。私の7年間を返して欲しい。もう、何もかも捨てて何処かに逃げ出したい。
淳の事も実家の事もみんな捨て去って、知らない土地で一人暮らしが出来るなら、どんなにいいだろう。
どこか、海の見える街に暮らして、小さなアパートで一人暮らしをする。誰にも煩わされることなく、自由気ままな生活をしてみたい。
実際には仕事もあるし、実家の件もある、無理なのは百も承知だ。でも、今はバカな妄想でもしていなければ、壊れそうな気がした。
はぁーっと、大きくため息を吐き、スマホのスクロールを続けた。すると、ある写真の左隅に映っているスマホの機種がtuyokuで色がグリーン、淳の持っている物と同じなのを発見した。
tuyokuはガテン系には人気だけれど、一般ウケとは違うタイプの機種だ。
クランチアーモンドチョコフラペチーノとtuyokuという二つの符号は、あまり重ならない気がする。これは、いわゆる浮気相手の”におわせ”なのかもしれない。
自分の捨てアカウントを作り、浮気相手らしきアカウントの登録名”A”へ友達申請をした。
──これで監視することが出来る……。