十二月の朝は夜明けが来るのかと不安になりそうな暗さで始まるが、その日も習慣的なものでいつもと変わらない時間に目を覚ましたウーヴェは、今日もまた憂鬱な気持ちのままかと目覚めた瞬間に呟き、気怠げに寝返りを打とうとして背中が何かにぶつかった事に気付いて首を巡らせる。
肩越しに見えたのは穏やかに目を閉じて表情と同じく穏やかな寝息を零すリオンの顔で、脳味噌がああと呟いた瞬間、一瞬で目尻から涙が零れ落ちるが、きつく目を閉じて己の腹の前に垂らされているリオンの左手を掴んでその掌で涙を拭く。
先週の日曜日にリオンを裏切るような行為をしてしまいその後悔に打ちのめされてしまっていたが、昨日の夜リオンが戻ってきたので謝罪をし、許してくれた為にウーヴェが抱え込んでいた悩みは一区切りついたのだが、その間、心配をして駆けつけてくれたマウリッツやそもそもの発端となったノアに見せてしまった涙がまた溢れ出した事に唇を噛み締め、もう今回の事では涙を流さないと決意をし再度掌で頬を拭うと、指が曲がって目元を覆い隠されてしまう。
「……俺の手、役に立ってる……?」
寝惚け眼を簡単に想像できる声に微かな涙声でああと返事をしたウーヴェだったが、これはそもそも俺の手でお前には貸しているだけだからと返すと、素直じゃないんだからーと長閑な声に大きな欠伸が重なる。
そのタイミングで寝返りを打つとリオンの胸に顔が当たり、落ち着いた鼓動が響いて来る。
その鼓動に自然と涙が止まり上目遣いに眠そうな顔を見ると、睡魔と戦って勝利したロイヤルブルーの双眸が楽しげに細められる。
「おはよう、オーヴェ」
「……ああ、おはよう」
以前と同じようで少し違う挨拶を交わし背中に回した手で背骨を辿るように撫でると、ウーヴェが起き上がることを伝えてリオンも素直に起き上がる。
そしてここがリオンの部屋であることを思い出して昨夜の醜態の様な光景も思い出してしまうが、一つ頭を振った後、リオンの頬に片手を宛てがい、昨日も何度か伝えたがと前置きをした後に自然と浮かぶ笑顔で頷く。
「お帰り、リーオ」
「……うん。ただいま、オーヴェ」
やっと声が聞けるだけではなく手を伸ばせば届く距離で目を覚まし、こうして言葉をかわせる様になった、その実感を今更ながらに感じたウーヴェだったが、さっきの決意は嘘ではないことを示す様に一瞬だけ腹に力を込めた後、リオンの頬を両手で包み込む。
「もう……出て行くなよ?」
「うん。行かねぇ」
半年近く一人になりその時にずっと感じていたのは自分から家を飛び出したにも関わらずお前に会いたい、傍にいて欲しいという思いだったと、ウーヴェの手に両手を重ねたリオンが閉ざした睫毛を微かに震わせながら素直な思いを口にすると、ウーヴェがそれを受け止めたことを示す様に頷き、全てを許す様にリオンの額に口付ける。
「……一人で苦しかったな」
一人が嫌いなはずなのによく一人でいることを我慢したと褒めると、リオンが前のめりになってウーヴェをぎゅっと抱きしめる。
「……俺が勝手にキレて勝手に飛び出したのにさ……」
すげーオーヴェにそう言ってもらいたかったとウーヴェの肩に顎を乗せながら不明瞭に呟いたリオンの背中を撫でてうっすらと感じられる己の爪痕をそっとなぞると、湿り気を帯びた呼気がウーヴェの背中に一つだけ零れ落ちる。
「……ダンケ、オーヴェ」
「ああ」
確かにお前一人が勝手に飛び出したことかも知れないが送り出したのは俺だと苦笑したウーヴェは、リオンの涙を肌で感じた後くすんだ金髪に手を差し入れて頬を寄せる。
「一人で考えて、どうだった?」
「考えてもどうしようもないことばかり考えてた。……俺を捨てた親のことなんてさ、俺にはどうしようもねぇし考えても仕方ねぇのにさ」
でももしかするとという期待を抱え見事に裏切られたショックから何もかもが嫌になって飛び出してしまったことを呟くと、ウーヴェがくすんだ金髪を何度も撫でる。
「……ゾフィーにさ、俺のことを子供だって一度も呼んだ事のない人をあんたは親だと思えるのかって言われて、確かにそうだなーって」
あの小さな教会に向かう路地裏でのゾフィーとの会話を思い出しながらリオンが鼻を啜り、彼女にそんなことを言われたのかとウーヴェが苦笑しつつも髪を撫でると、ようやくリオンが顔をあげてウーヴェに恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「あいつの言う通りだったなって」
ただ今思えばお前にも言われた事だったなぁって反省してると俯くリオンの頭にポンと手を乗せたウーヴェは、上目遣いに見つめられて片目を閉じ、反省だけなら誰でも出来るなと決して逆らえない笑顔で告げると、リオンの顔から血の気が引いて行く。
「……え、と……何をすれば、良いかなー?」
「そうだな、まずはとっておきのラテを飲みたいな」
ああ、今日は砂糖は少なめが良いと笑うウーヴェに一瞬息を飲んだリオンは、決意をした様に拳を握った後、今から作るからキッチンに行こうと声を張り上げる。
「ああ、そうしようか」
冷蔵庫にあまり食べ物は入っていないが何とか食べられるものを作ろう、無理なら出かける準備をして何処かのカフェで朝食にしようと笑ってリオンの手を借りながらベッドから降り立ったウーヴェは、自然に腰に回された腕の感触に安堵しつつリオンの部屋からゆっくりと出て行くのだった。
ようやく日が昇り始めた頃、リオンが運転する車で両親の家に向かっていたウーヴェは、いやだなー行きたくないなー嫌だなーと心からそう思っているのかと逆に問い返したくなる様な陽気な声で鼻歌交じりに呟かれて何度もため息を吐いていたが、実家が見えて来た事にあからさまに安堵の色を浮かべる。
あの後、自分好みにしっかりと合わせてくれたカフェラテを飲み、朝食はやはり満足するほど食べられるものが無かった為に日曜でも営業しているあまり行く事のないカフェに出かけたのだが、その時、クリスマス休暇を取っている姉から電話が入り、ランチを一緒に食べようと誘われたのだ。
まだ弟が一人でいるものだと思っている姉の誘いに一瞬躊躇したウーヴェだったが、リオンも戻って来た事を報告しなければならないし仕事への復帰についても話をしなければならないと思っていた為、渋るリオンの背中を殴りつけて車に乗り込ませたのだ。
門を開いてもらい階段下に車を止めたリオンだったが、訴えていたのは不満ではなく、半年間も家出をした事に対する両親への罪悪感、許されないかもしれない不安だと気付き、助手席のドアを開けるリオンを手招きしたウーヴェは、車内に突っ込まれた顔に苦笑しその頬を一つ撫でて小さな音とキスを届けると、ロイヤルブルーの双眸が驚きに見開かれる。
「……大丈夫だ、安心しろ」
何もいきなり取って食われる訳じゃない、いない時にお前が感じていた事、考えた事を素直に話せば例え理解してくれなかったとしても拒絶されることもないし許さないなどと言う様な小さな人達じゃないと己の両親を思って小さく笑みを浮かべると、リオンが安心した様な息を一つ零しウーヴェの頬にキスをする。
「ダンケ、オーヴェ」
言葉に出せなかった不安を読み取ってくれてありがとうと素直な思いを口にするリオンから感じ取ったのは半年の間の別離は無駄では無かったとの思いで、今までならばここまで素直になっただろうかと苦笑するが、差し出される手に手を預けて車から降りると、階段の上にある意味恐ろしい光景が広がっていて二人思わず顔を見合わせてしまう。
背の高い玄関のドアが開け放たれその中心にいるのは、リオンが帰ってきたとウーヴェに教えられてからずっと表情を変えないで腕組みをして見下ろしているレオポルドで、そんな彼に寄り添いながら笑みを浮かべるイングリッドと少しだけ離れた場所に父と同じ姿勢で同じ様に見下ろしているギュンター・ノルベルトがいたが、彼らの陰に隠れられない体格のミカと、嬉しそうな顔で夫の腰に腕を回しているアリーセ・エリザベスがいて、頭上に勢揃いしている家族から降って来る威圧感に、幼い頃からそれに慣れているはずのウーヴェでさえも息を飲んでしまう。
「……ハロ、親父、ムッティ」
そんな威圧感に負けない様に明るい声で手をあげたリオンだったが、ギュンター・ノルベルトが階段の手すりに手をついてひらりと身体を翻した瞬間、ウーヴェを盾にする様にその後ろに回り込もうとするが残念ながらそこには車があり、逃げる事が出来ずに悲鳴を上げる。
「逃げるな、リオン・フーベルト!」
「オーヴェ、助けてっ!!」
その声が、ウーヴェがリオンに怒りを向けた時と全く同じで、一瞬ウーヴェに怒鳴られたかと思ったリオンが車に寄りかかるウーヴェを見れば無言で肩を竦められてしまう。
ウーヴェではないと言うことは今頭上から降り注いだ声はギュンター・ノルベルトのもので、兄弟−遺伝上は親子−と言うのは歳を重ねれば声まで似てくるものなんだなと呑気なことを考えたリオンの脳味噌だったが、一瞬の後に頬に痛みを覚えて悲鳴を上げる。
「痛い痛いイタイっ!」
「うるさい、ばか者!」
リオンのよく伸びる頬を力一杯引っ張りながらうるさいと怒鳴ったのは仕事では怜悧な刃物と称されるが、大きな声を滅多に出さないギュンター・ノルベルトで、ああ、そう言えばフェルが小さな頃ノルに叱られる時はこんな感じだったわねと、遠い昔を思い出しながらくすくす笑うアリーセ・エリザベスにミカがそうなのかと確認する様に妻を見下ろすが、そんな彼らの横では確かにこんな感じだったと全てを見て来た両親が大きく頷いていた。
「フェリクスのことだけは信じなければならないのに家出をしやがって……!」
「ノル、言葉が乱暴になってるわよ」
ギュンター・ノルベルトの怒りの根源を察したリオンが涙混じりの声でごめーんと情けない声で謝罪をするが、うるさいと一言だけ言い放ちさらに頬を引っ張る手に力を込める。
「……ノル、ちゃんとリオンに説明をさせるから手を離してやってくれないか?」
リオンの悲鳴が心底のものになったことに気づいたウーヴェが咳払いをして助け舟を出すとその声にも興奮したギュンター・ノルベルトがウーヴェそっくりな顔で睨みつけるが、頼むともう一度弟が正面から兄の顔を見ると流石に落ち着きを取り戻した様で、気恥ずかしげな咳払いをしてリオンの頬から手を離す。
「……中に入りなさい、フェリクス」
リオン、お前もだと弟とその伴侶に対して見事に表情を切り替えたギュンター・ノルベルトは、両親と妹夫婦の視線に咳払いをし、ああ、怒鳴り声を上げたから喉が乾いたと照れ隠しの様に言い放ち一段飛ばしに階段を駆け上がると、開けっ放しだったドアから中に入る。
そんなギュンター・ノルベルトの様子に誰も何も言えなかったが、ウーヴェが微苦笑しつつリオンの赤くなった頬を撫でてさあ、中に入ろうと腰に腕を回すと、慰めて欲しい頭がウーヴェの肩にコツンとぶつけられる。
「痛かったな。……まあ、言葉でグサグサ刺されるよりマシだろう?」
「……うぅ」
「冗談だ」
「お前の冗談は笑えねぇ!」
久しぶりに聞いたなぁと笑うウーヴェにリオンががるるるるると口の中で何やら呪いの言葉を呟くが、ウーヴェの頬にぶちゅっとキスをした後、階段を駆け上りなんとも言えない顔をしているレオポルドとイングリッドの前に向かう。
「親父、ムッティ、ただいま!」
「遅い!」
「門限はとっくに過ぎているのでお仕置きをしないといけないわね」
「ぎゃー!」
玄関先で繰り広げられるそれに呆れた様にため息をついたウーヴェは、階段を降りて来たアリーセ・エリザベスに肩を竦めた後、ミカの手を借りて階段をゆっくりと登る。
「ウーヴェ」
「ん?」
「リオンが帰って来てよかったな」
「……うん、良かった」
ミカの小さな確認の声にウーヴェも素直に頷き手を貸してくれてありがとうと礼を言うと、今度は母に耳を引っ張られているリオンを救出するために一つ手を打って小気味好い音を響かせる。
「母さん、父さんも言いたいことはあると思うけど中で話をしよう。ノルが待っているし足も疲れて来た」
だから中に入ろうと再び助け舟を出すと皆同意をしてくれるが、肩を落とすリオンの頭であったり肩であったり腕を一度ずつ撫でたり叩いたりして中に入っていく。
家族のその行為を微苦笑で見守っていたウーヴェは、再び情けない顔をするリオンの頭を抱き寄せてこめかみにキスをすると、たった今お前は家族の皆から許されたと囁くとリオンの手がウーヴェの腰に回って抱きしめる腕に力が込められる。
「……みんな優しいなぁ」
リオンが帰って来たことを聞きつけて真っ先に駆けつけたのであろうギュンター・ノルベルトも、遅いと怒鳴り門限を過ぎたからお仕置きだと笑ったレオポルドやイングリッドも出て行ったことを責めるわけではなく帰ってくるのが遅い事を叱るだけで、出て行ったものに用はないなど、リオンが最も恐れていた言葉など伝えられなかったことに気づき、本当にみんな優しいと再度呟くと、ウーヴェがそんなリオンの髪を撫でる。
「ああ。だから中に入ってちゃんとお前の口から説明をしよう」
「うん」
最後に家に入り玄関のドアを閉めたウーヴェは、長い廊下の先で自分達を迎えるために開いたままのリビングのドアに気付き、ほら、待ってくれていると笑ってリオンの腰に腕を回すとリオンもウーヴェの腰に回していた腕で抱きしめなおす。
この支えがあれば、この後どの様な不安な思いや恐怖を感じることがあったとしても、絶対に挫けることはないと自然と意識すると、リオンの顔にいつもの笑顔が浮かび上がってくる。
それを横目で見たウーヴェも安心したのか、同じ様に笑みを浮かべ、開いたままのドアからリビングへと入るのだった。
ウーヴェの隣に座り、その家族に向けて嘘偽りも隠し事もない気持ちをリオンが口にするが、それは皆の心の中にいつまでも残る様なもので、全ての感情を吐き出した疲労からソファの背もたれにズルズルと寄りかかったリオンを支える様にウーヴェがその身体を抱きしめ、そんな二人をレオポルドやイングリッドは痛ましそうに、リオンを表面的にはよく思っていない−と思われているギュンター・ノルベルトですら口を挟まずに見守っていた。
「……喉も渇いたし何か飲みましょう」
アリーセ・エリザベスが皆の気持ちを代弁する様に呟いて家人を呼ぶといつもの飲み物を人数分お願いと伝え、ウーヴェの腹に顔を押し付けているリオンに顔を向ける。
その言葉を合図にしてギュンター・ノルベルトが立ち上がり伸びをした後にリオンとウーヴェが座るソファの後ろを通るが、その時、まるでぬいぐるみに触る時の様にリオンの頭にポンポンと手を載せてリビングを出て行く。
「……リーオ、顔を洗ってくるか?」
兄の行動に一瞬驚いたウーヴェだったが、それは己が幼い頃こうしてリビングで本を読んでいたり寝転がっている時に今のように後ろをギュンター・ノルベルトが通る際の癖だと思い出し、口ではどれほど不満や不機嫌さを表そうが実は誰よりもリオンのことを案じているのだと改めて気付いて顔を洗ってこいと己の腹に顔を押し付けるリオンの肩を撫でるとくぐもった声がうんと返事をする。
「ほら、行ってこい」
いつまでもそのままでいられないだろうと苦笑するウーヴェに顔を伏せたまま頷いたリオンは、皆に見られるのは恥ずかしいと一言言い放ってリビングを飛び出すが、どうやら洗面所で先にリビングを出たギュンター・ノルベルトと鉢合わせになったらしく、二人が戻ってくる時には素直になればいいだろう意地っ張り兄貴だの、何を言うばかたれと言った罵り合いが聞こえてくるほどだった。
羞恥から互いに罵り合うのも構わないが今は止めればどうだとアリーセ・エリザベスに促されるがどちらも引っ込みがつかなくなったのかソファに座る直前に額がぶつかりそうなほど顔を寄せるが、そんなに仲良しだったのか知らなかったなぁとウーヴェが呑気に呟くと二人が我に返ったように顔を見合わせ、次の瞬間、磁石が反発するように顔を背け合う。
そんな二人に室内にいた家族は誰も何も声を掛けずにただ溜息をつくだけだったが、飲み物が運ばれてくると自然と笑顔を浮かべ、皆ソファに座ってそれぞれのカップを手にとる。
「……あ」
「お前に教えてもらって以来、コーヒーや紅茶を頼まなければ出てくる飲み物はこれになったな」
それはリオンがここでウーヴェと家族の断絶を解消した時に作った飲み物で、リオン自身はそれをマザー・カタリーナに教わったのだが、まさかここでそれが定着しているとは思わずどう思いを言葉にすればいいのかが分からないで隣で穏やかな顔でそれを飲んでいるウーヴェを見つめると、視線だけがメガネの下から投げかけられ、片目を閉じられる。
「お前の影響はこんな所にまで出てる」
誰かが誰かに与える影響、それが自然な形で誰かの中に入り込んでいるのを目の当たりにしてどうだと笑うウーヴェにリオンがソファの上で胡座をかいたかと思うと、足首をつかんで身体を前後に揺さぶり出す。
それが照れ隠しであることを良く知るウーヴェがカップを手の中でくるりと回して中身に穏やかな波を立たせ、それを飲み干して満足げに息を吐く。
「初めてお前に作って貰った時は本当に美味しくてホッとしたな」
お前の母がお前達兄弟の為に作ってくれた飲み物はこうして母から息子へ伝わり、息子からその伴侶の家族へと伝わっていくんだなとウーヴェが笑うと、ゾフィーのドーナツみたいなものかと小さな声が返ってきて、そうだなと笑みを浮かべてカップの縁をなぞる。
「命の水、母のシュトレン、姉のドーナツ。全部お前や兄弟達を思ってお前の家族が作ってくれたものだな」
それをこうして一緒に食べたり飲んだりすることができるということはその家族の輪の中に入れてもらえているようで嬉しいなと笑うと、リオンがウーヴェにしがみつくように腕を回してくる。
「こら、こぼれるっ」
「オーヴェが俺を泣かすようなことを言うからだろ!」
せっかく顔を洗って来たのにどうしてくれるんだ意地悪オーヴェと肩に顔を埋めながら叫ばれて目を瞬かせたウーヴェは、はは、それは悪かったと全く思っていないことがバレる顔と声で謝罪するとリオンの髪に手を突っ込んでクシャクシャと掻き乱す。
「……良い家族ね、リオン」
ウーヴェにしがみつくリオンにこちらは心底安心したような声でイングリッドが笑いかけるとリオンの頭が上下に揺れ、うんと言う小さいが元気のある声が返ってくる。
「……だよな、俺の家族って本当にいい家族だよな」
さっきも言ったが俺は確かにハイデマリー・クルーガーから生まれたかも知れないが、俺を俺として育ててくれたのはマザーでありゾフィーやアーベルらだと目尻を少しだけ赤くしながら頭に手を当てたリオンに皆の顔に笑みが浮かび、頭が上下する。
「あの二人がさ、会社に来た時に認めてくれてたらちょっと違ったかもだけど……」
会社に来た時の態度ではどう考えても俺のことを認知するつもりは無かったよなぁと半年前の過ぎ去った事を冷たく笑うリオンにその場にいたレオポルドとイングリッド、そしてギュンター・ノルベルトが神妙な面持ちで頷くが、だからこそ俺の親はマザーだと言えると一瞬で笑顔の質を変えたリオンの頭をウーヴェが撫でて嬉しそうに目を細める。
「……ガキの頃からずっと俺の親は家族は何処にいるって思ってたけどさ、すぐそばにいたんだな、俺の親も家族も」
実の両親であっても手を焼き投げ出したくなる様な学生時代を過ごしたが、赤の他人のマザーが何があっても庇ってくれるだけではなく抱きしめてくれた事、そんな人を親と思えなかった俺はガキだったし本当に幸せなことだと笑った拍子にウーヴェに寄りかかったリオンは、受け止めてくれる伴侶に子供の様な笑顔を見せ、オーヴェもと一言告げると家族の前で珍しくウーヴェがリオンの肩を抱き寄せその頬にキスをする。
「色々あるけど……本当に、幸せだなって」
もしもこれが逆だったりすれば目も当てられないどころか今頃路傍の石ころの様に死んでいただろうと笑うリオンにウーヴェが無言で頭を傾げてその肩に載せる。
「……良かったな」
「うん」
二人の様子に安堵に胸を撫で下ろしていたギュンター・ノルベルトだったが、実際問題どうするつもりだと場の空気を少し冷えさせる様なことを告げ、皆の視線が集まった時に咳払いをして足を組む。
「お前がホームや俺たちを家族と思うのは嬉しいことだ。だが……」
認知はされていないが遺伝子上の両親としてクルーガー夫妻が生きている、彼らに対してはどうするつもりだと、決して避けることのできない問題を問いかけるギュンター・ノルベルトにアリーセ・エリザベスが何も今言わなくてもと言いたげな顔になるが、それを制したのはリオンのうんという落ち着いた声だった。
「あの二人に認知しろとか慰謝料を払えとかそんな事を言うつもりはねぇ。実際俺にとってあの二人は映画祭で偶然助けたそれだけだ」
ただ彼らの一人息子であるノアとは今後も友人として付き合っていきたい事を告げると、ウーヴェがメガネの下で目を細める。
「それで良いのか?」
「ん? ああ、だってノアは別に何も悪くねぇだろ?」
俺に何の罪もないとお前が言ってくれた、だったら同じくノアにも何の罪もないだろうと半年前には考えられなかった穏やかさを湛えた双眸でウーヴェを見つめたリオンだったが、ノアはいい奴だから友達として付き合いたいと笑うとリオンの心を受け入れ認める様にウーヴェが一つ頷き、兄へと顔を向けて目を細める。
「ノル、リオンとクルーガー夫妻との間で問題が起きる可能性は低い。もし二人が何かを言って来たとしても、こちらから親子関係を拒否するだけだ」
リオンは幸いなことにそれができない未成年では無い、立派に己の足で立っている大人だ、心配から厳しい事を言ってくれてありがとうと兄の気持ちを正確に読み取った事を伝える代わりに礼を言うと、ギュンター・ノルベルトが気まずそうな顔で咳払いをする。
「リオンが訴える事はない?」
「無い。逆にその事で何かを言ってくればこちらから訴える」
「以前行った検査結果は?」
「あれはノアにも伝えたが、あの結果を以って彼の両親に対して法的な手段を取ることはない」
あの検査はリオンがずっと抱えていた悩みへの一つの回答として受けただけだとリオンの手を無意識に握りながら兄の目を真っ直ぐに見つめたウーヴェは、その結果が思わぬ別離をもたらしたがそれもきっと自分達にとっては必要なものだったのだろうと、リオンの手を指先で確かめながら笑うウーヴェにギュンター・ノルベルトが無言で頷いたかと思うと、なら何も問題はない、彼方から何かを訴えてくればウルリッヒおじさんに頼めば良いと流石にレオポルドの息子だと言いたくなる様な太い笑みを浮かべる。
「うん。ダンケ、ノル。俺の友人にも弁護士がいるけど頼れないときは頼む」
「ああ。それとこれは流石に俺も父さんもどうすることも出来ない」
そんな前置きで言葉を切ったギュンター・ノルベルトがレオポルドに目をやると、息子が何を言わんとするかを察した父が苦い顔で頷く。
「会社には休職届けを出してあるが、復職しても少しの間は風当たりが厳しいぞ」
「ああ、それは分かってる」
そう言えばゾフィーが死んだ時も同じ様な事を警部から言われた気がするがそれも今思えば最大限に庇ってくれていたんだよなと、本当に俺は上司に恵まれていると苦笑したリオンは二人に向けて頭を下げた後、殊勝な表情で働けるのなら何処でもいい、何でもするから会社で働かせて欲しいと己の意思を伝えるが、その手はウーヴェの手にしっかりと握られていて、それがあるから落ち着いた気持ちで思う事を伝えられるのだと気付いたのはリオンよりも二人を見守っているギュンター・ノルベルトらで、その思いがあるのなら何でもできるだろうと父と息子が再度顔を見合わせて頷き、クリスマス休暇に入る前に出勤し人事部に顔を出せと告げると気分を切り替える様にイングリッドがたおやかな手を打ち合わせる。
「難しい話は終わりね。……カタリーナが作るものほど美味しくはないかも知れないけれどうちのシェフもシュトレンを焼いてくれたのよ」
アドヴェントごとに火を灯す蜜蝋を用意して皆でシュトレンを食べましょう、でもその前にシェフが自信作と言っていたラム肉のラズベリーソース添えのランチを皆で一緒に食べましょうと微笑まれ、当然ながら誰もその言葉に反対するものはいなかった。
母のその言葉に室内に広がっていた緊張感や重苦しい空気は一掃され、シェフ自慢の料理がどんなものか楽しみだと笑い、顔を出した家人にランチの用意を頼むのだった。
ランチを食べただけで帰るつもりだったが兄だけではなく姉夫婦の強い希望からディナーも一緒に食べることになった二人は、ランチ同様美味い料理を久し振りに家族勢揃いをした中で食べる特別感も味わっていた。
だが特別な夜はいずれ終わりを迎え、ありふれた朝を迎えまた日常へと戻って行く。
その寂寥感をこらえながら明日の朝が早いからもう帰ると、泊まって帰れとうるさい家族を無敵の笑顔で諦めさせたウーヴェは、露骨に残念そうな顔をする兄の頬にキスをし、両親にも同じくキスをした後、姉夫婦には少しだけ長くキスをすると、誕生日は一人で過ごすつもりだったがリオンと二人で祝うことにする、自分達二人の誕生日は一緒に過ごそうと笑う。
「今からプレゼントを用意しておくよ」
「あまり高価なものはダメだからな、ノル」
誰よりも何よりも高価なプレゼントを贈りそうな兄に釘をしっかりと刺したウーヴェは、でも楽しみにしていると笑みを浮かべて手をあげて車に乗り込む。
「リオン、運転を頼む」
「ん、了解」
助手席に乗り込み窓を開けていつまでも玄関前で見送ってくれる家族に対して寒いから中に入ってくれと苦笑するが、頷くだけでその場から動かないことに気づき、これは早く車を出さないといけないとリオンと苦笑し合い、そんな所にも見える家族の気遣いに感謝しつつリオンがゆっくりと車を走らせると門扉が静かに開き、粉雪が降り始める道へと進んで行く。
白のBMWの姿が完全に見えなくなるまでその場を動かなかったギュンター・ノルベルトらは、粉雪が降り始めたことに気付いて中に入ろうと両親や妹夫婦を促す。
「……リオン自身はケリをつけられたようだな」
「そうだな……後はあちらの出方次第だな」
さっきは明確に告げなかったがリオンが受けた検査と結果から憶測したことで何某かの法的手段に訴えてくるようなことがあれば全力で叩き潰すと母と妹には聞こえない様にポツリと呟いたギュンター・ノルベルトは、ちらりと見た父の顔にも同じ思いが浮かんでいることに気づくと、気分を切り替えるように肩を竦める。
「半年ほど他の部署に異動させてみようか」
「それも悪くないな。今のままだと俺たちにおんぶに抱っこだと陰口を叩かれるからな」
リオン自身は何も出来ないと謙遜するが、働き出してからは仕事中の軽口は別にして他部署との調整や事務的な働きについてレオポルドが不満を覚えることはなかった。
だからこの機会に他部署に異動させてそこで短期間ながらも働けば、会長室では得られないだろう人間関係も形成出来るし、それは決してリオンの今後を思えば無駄にはならないはずだった。
「明日人事の者と話をするか」
「そうだな」
半年ほど営業や企画を回ってから父さん付に戻しても良いと笑いながらレオポルドは寝室に、ギュンター・ノルベルトはミカと飲むためにホームバーがある部屋へと移動するのだった。
降り始めた粉雪が彼らの最愛の子供達を暖かく包む様な不思議な暖かさで降り続き、両親や家族の温もりを実感しつつリオンとウーヴェも自宅に戻って行く。
明日から始まる前と同じ様で確実に何かが違う毎日を、これからも二人肩を並べて生きていく事を口に出さずに確かめる様にシフトレバーの上で手を重ねたリオンとウーヴェは、車内で特に言葉を交わすことはなかったがその沈黙は外の空気と同じく不思議な暖かさを持っているのだった。