テラーノベル
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戦争が終わっても、ホグワーツはすぐには元に戻らなかった。
壁は修復された。
割れた窓も、崩れた階段も、焼け跡も、魔法で少しずつ整えられていった。
大広間にはまた食器の音が響き、生徒たちは授業へ向かい、教師たちも以前と同じような顔で教壇へ立つ。
けれど、前と同じではないと、城の中にいる誰もが知っていた。
夜になると、ひどく静かになる場所がある。
昼間はただの廊下でも、暗くなると急に息苦しくなる場所がある。
誰がどこで倒れたか。
誰が最後に誰の名前を呼んだか。
そういうものが、石の継ぎ目に薄く残っている。
ハリーは、その残りかすに毎日触れていた。
朝になれば人が笑う。
昼になれば誰かがハリーの肩を叩き、よく眠れたかと聞く。
夜になれば、英雄にふさわしい休息をとれと、優しい声で送り出される。
英雄。
そう呼ばれるたび、ハリーは自分の身体の中身が少し空っぽになるのを感じた。
勝ったのは確かだ。
ヴォルデモートは消えた。
戦いは終わった。
けれど、その終わりのために何を失ったかを思えば、胸を張って生き残った顔をするのはひどく難しかった。
眠れない夜が多い。
眠れたとしても、途中で目が覚める。
夢の中では、いつも誰かが間に合わない。
手を伸ばしても届かず、気づくと目が覚めている。
朝になると平気なふりをした。
それだけは上手くなったと思う。
笑えるし、返事もできる。
ロンやハーマイオニーに心配をかけたくないという気持ちも、本当だった。
ただ、一人になると急に息が浅くなる。
何でもない物音に肩が跳ねる。
誰かの具合が悪そうだと、それだけで落ち着かなくなる。
自分でも、どこか壊れたまま動いている感覚があった。
ドラコ・マルフォイもまた、戦争のあとですっかり変わっていた。
それに気づいたのは、復学してからそう経たない頃だった。
以前のドラコは、存在そのものが目立った。
嫌味なほど整っていて、嫌味なほど自信があって、立っているだけで「自分は他と違う」と言っているような男だった。
今は違う。
表面だけ見れば、まだ整っている。
背筋もまっすぐだし、歩き方にも乱れはない。
教師の前では礼儀も崩さない。
けれど、よく見ると分かる。
顔色が悪い。
ほんの少し反応が遅い時がある。
何かを考え込んでいるわけでもないのに、ふと視線が空白へ落ちる瞬間がある。
そして何より、杖を持つ手がときどき不自然に強張る。
最初は気のせいかと思った。
だが何度も見ているうちに、気のせいではないと分かる。
ある日の呪文学の授業で、ドラコは簡単な防御呪文を失敗した。
本当に初歩的なものだった。
以前のドラコなら、目を閉じていても外さないような種類の呪文だ。
なのに、その日は違った。
杖を構えた瞬間、何かに見入るように動きが止まる。
それから詠唱が半拍遅れ、放たれた光は狙いを逸れて壁を掠めた。
教室が静まった。
教師が名前を呼ぶ。
ドラコは一瞬だけ立ち尽くし、それから「失礼しました」とだけ言った。
声は平坦で、言葉遣いも乱れていない。
けれど、その横顔だけがひどく青かった。
ハリーはその一瞬を見逃せなかった。
ただの失敗ではなかった。
何かを見ていた。
杖を握った瞬間、確かに何かに怯えた顔をした。
それでも授業後、ハリーは何も言わなかった。
言えば、ドラコは絶対に拒絶する。
そんなことは分かっていたし、そもそも自分に口を出す資格があるのかも曖昧だった。
なのに、その日からハリーは妙にドラコを目で追うようになった。
食堂の端。
階段の踊り場。
図書室の奥。
見ているつもりはなくても、気づけば視界のどこかで探している。
ドラコは昼間、平気な顔をしていた。
少なくともそう見えるようにはしていた。
だが、平気な人間の顔ではないことが、ハリーには分かる。
それはたぶん、自分も同じだったからだ。
⸻
その夜、ハリーは眠れなかった。
ベッドに入っても、目を閉じるたび妙に冴える。
雨でもないのに、窓の外の風が不規則に鳴る。
誰かが廊下を歩く音が気になる。
遠くで扉が閉まるだけで、胸の奥が嫌なふうに波打つ。
諦めて、ハリーはベッドを抜け出した。
談話室の火はもう小さい。
誰にも見つからないように静かに外へ出る。
城の夜は広く、少し歩くだけで人の気配が消える。
目的があったわけではない。
ただ、じっとしていられなかった。
暗い回廊を歩く。
月明かりの薄い窓辺を通る。
階段を上がる。
そうして、使われていない古い教室の近くまで来た時だった。
中から、何かが落ちる音がした。
金属が床を打つ、乾いた音。
ハリーは足を止めた。
こんな時間に誰かいるのか。
教師か、それとも生徒か。
少し迷ってから、扉の隙間へそっと近づく。
中はほとんど暗かった。
机が端へ寄せられ、古い教材が積まれているだけの部屋。
その窓際に、一人、立っている影があった。
ドラコだった。
ハリーは思わず息を止めた。
ドラコは杖を床へ落としていた。
足元に転がった杖を見下ろしながら、まるでそれを拾うことすら怖いみたいに固まっている。
月明かりが少しだけ横顔を照らす。
その顔は、昼間以上にひどかった。
唇は血の気がない。
呼吸が浅い。
目だけがどこか別のものを見ている。
「違う」
ドラコが低く言った。
誰に向けた声なのか、一瞬分からなかった。
けれど次の瞬間、ハリーはそれが独り言ではないと悟る。
ドラコは、部屋の何もない空間を見ていた。
「来るな」
その声は震えていた。
怒っているのではない。
追い払おうとしているのに、本人のほうが追いつめられている声だった。
ハリーの背筋が冷える。
ドラコは数歩後ろへ下がる。
何もないはずの場所から何かを避けるように。
肩が強張り、喉がひどく上下している。
「僕は、やる」
掠れた声。
「だから」
一度、息が止まりかける。
「……見るな」
ハリーはそこで理解した。
何かを見ている。
いや、見えてしまっている。
ヴォルデモートだ。
そう思った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
自分にも分かる。
目の前にいなくても、記憶は勝手に輪郭を持つ。
声も、気配も、命令も。
消えたはずのものが、頭の中ではまだ終わっていない。
ドラコはもう一度杖へ手を伸ばした。
だが、指先が杖に触れる寸前でびくりと止まり、まるで熱でも持っているみたいに引っ込める。
「……っ」
息が乱れる。
その顔には、屈辱と恐怖と苛立ちが混ざっていた。
ドラコにとって、魔法が使えないというのはただの不調ではない。
立っていられなくなるくらい、自尊心を傷つけることだ。
ハリーにもそれくらいは分かる。
その時、ドラコの膝がわずかに揺れた。
考えるより先に、ハリーは扉を押し開けていた。
「ドラコ」
名前を呼んだ瞬間、ドラコの顔がはっきり変わる。
怯えの向きが一気に変わる。
幻へ向いていたものが、今度は現実のハリーへ向いた。
「入ってくるな!」
鋭い声だった。
けれど叫んだ直後、息が乱れ、後ろへよろめく。
ハリーはすぐに手を上げた。
「何もしない」
なるべく低く言う。
「ただ——」
「出ていけ!」
その拒絶は予想していた。
だが、実際に真正面から叩きつけられると胸が少し痛む。
それでもハリーは動かなかった。
「君、今」
言いかけて、言葉を選び直す。
「具合悪いだろ」
ドラコの目が細くなる。
「お前に関係あるか」
「あるとかないとかじゃない」
ハリーは少しだけ近づく。
「杖も持ててない」
その一言が、ドラコの一番触れられたくない場所へ当たったのだと、すぐに分かった。
顔が強張る。
顎に力が入る。
恥と怒りが、同時に表面へ出る。
「見るな」
今度の声は低かった。
低いのに、さっきよりよほど切実だった。
「そんな目で」
ハリーはそこで足を止めた。
そんな目。
たぶん、哀れみか心配か、そのどちらかに見えたのだろう。
あるいは両方か。
ドラコは、そういうものにひどく弱い。
いや、弱いというより、耐えられないのだ。
傷ついていると見抜かれること自体に。
「僕は別に」
ハリーは慎重に言う。
「君を馬鹿にしてるわけじゃない」
「じゃあ何だ」
ドラコが食い気味に返す。
「何を見た」
「何を思った」
「無様だと?」
一歩、今度はドラコのほうが近づく。
「笑いたいなら笑えよ、ポッター」
掠れた声。
「僕がまともに魔法も使えなくなってるのを見て」
「そんなわけないだろ!」
思ったより強い声が出た。
教室の中がしんとする。
ドラコも一瞬だけ黙る。
たぶん、ハリーが怒鳴り返すとは思っていなかったのだろう。
ハリーはそこで一度息を吸った。
感情の勢いのまま話すと、たぶん余計にこじれる。
でも、引くつもりもなかった。
「僕だって」
低く言う。
「平気な顔してても、平気じゃない」
「だから分かる」
一拍置く。
「今の君が、そういう顔じゃないって」
ドラコの目が揺れた。
ほんの少しだけ。
でも、たしかに。
その揺れを見た瞬間、ハリーは少しだけ確信する。
当たっている。
この人は今、本当に限界に近い。
だが次の瞬間、ドラコはその揺れごと押し潰した。
「分かる?」
薄く歪んだ口元。
「お前に?」
その笑いには乾いたものが混ざっていた。
「救世主様に、僕の何が分かる」
その言い方は刺々しい。
でも、昼間のドラコの冷たい皮肉とは違った。
もっと追いつめられていて、言葉の端が自分自身も傷つけている。
ハリーは少し黙ってから、床に落ちた杖へ視線を向けた。
ドラコがそれに気づき、即座に言う。
「触るな」
「拾うだけだよ」
「触るな!」
今度は、ほとんど反射だった。
ドラコの顔から血の気が引く。
手まで少し震えている。
ハリーはそれ以上動かなかった。
ドラコはしばらく肩で息をし、それからようやく、自分が何をどれだけ露骨に見せてしまったか気づいたらしい。
目を伏せる。
悔しそうに。
けれど立て直すには、もう少しだけ時間がいる顔で。
長い沈黙が落ちた。
やがて、ドラコが低く言う。
「……帰れ」
今度のそれは、怒鳴り声ではなかった。
命令でもない。
懇願に近かった。
ハリーはその声に、少しだけ胸が締まる。
帰れ。
これ以上見ないでくれ。
これ以上ここにいるな。
たぶん、そういう意味だ。
「君を一人にしたら」
ハリーは静かに聞く。
「どうなる」
ドラコは答えない。
答えないこと自体が答えだった。
でも、だからといって踏み込んでいいのかは別問題だ。
ここで無理に近づけば、ドラコはたぶん二度と自分の前で弱らない。
どれだけ壊れかけても、もっと深く隠すようになる。
ハリーはそのことを本能的に察した。
だから、すぐには動かなかった。
代わりに少しだけ腰をかがめ、床へ転がった杖を見たまま言う。
「僕、外にいる」
ドラコの睫毛がぴくりと動く。
「何だって」
「部屋の外」
ハリーは答える。
「入ってこない」
「笑わない」
「何も言わない」
一拍置く。
「でも、もし本当に駄目なら呼べよ」
ドラコはそこで初めて、真正面からハリーを見た。
警戒。
苛立ち。
屈辱。
その奥に、ほんのわずかだけ、別のものが混ざる。
すぐには名前のつかないものだった。
安堵に近いのかもしれない。
でもドラコ自身、それを認めたくない顔をしている。
「呼ぶわけないだろ」
声はまだ硬い。
けれど、さっきより少しだけ息が整っていた。
ハリーはわずかに頷いた。
「じゃあ勝手に待つ」
ドラコの口元がきゅっと結ばれる。
怒鳴るかと思った。
けれどそうしなかった。
代わりに、苦々しげに言う。
「余計なことを」
それは明確な拒絶ではなかった。
少なくとも、今この場から消え失せろと言うほどの強さはない。
ハリーはそのことに気づきながら、何も言わずに後ろへ下がった。
扉の外へ出る。
完全には閉めない。
ほんの少しだけ隙間を残しておく。
冷たい廊下の空気が頬に当たる。
中からは、しばらく何の音もしなかった。
ハリーはその場で壁にもたれ、じっと待った。
心臓が妙に速い。
さっきのドラコの顔が頭から離れない。
杖を前に固まっていた姿。
何もないところへ怯える目。
そして、それを見られた時の、あのひどく痛そうな表情。
ハリーはそこで初めて、はっきりと思った。
放っておけない。
ただ気になるとか、目が離せないとか、そういう段階ではない。
このまま誰にも見つからずに一人で抱え込んでいたら、ドラコはどこかで本当に折れてしまう。
そんな確信があった。
扉の向こうで、ようやく何かが動く音がした。
杖を拾う、かすかな気配。
そのあと、ほんの小さく、呪文の気配。
不安定で、弱い。
でも、さっきよりはずっとましだ。
ハリーは黙ったまま、目を閉じた。
やがて扉が少しだけ開き、ドラコが顔を出した。
もうかなり平静を取り戻している。
少なくとも、そう見せることには成功していた。
だが、目の下の影だけは隠せていない。
「……まだいたのか」
「いたよ」
「馬鹿だな」
「知ってる」
そのやりとりのあと、ドラコは数秒だけハリーを見た。
それから、ごく小さく言う。
「今日は」
少しだけためらう。
「……いや、いい」
ハリーは少しだけ口元を動かした。
「言わなくていい」
ドラコはそこで一瞬だけ、ひどく疲れた顔をした。
でも、それはほんの瞬きのあいだだけだった。
次にはまた、いつもの薄い仮面へ戻っている。
「誰にも言うな」
「言わない」
「本当に」
「本当に」
ドラコはもう一度ハリーを見て、それからゆっくりと視線を逸らした。
「……分かった」
その一言だけ残して、教室の中へ戻る。
扉が閉まる。
ハリーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
追い返されたわけではない。
でも迎え入れられたわけでもない。
その曖昧さが、かえって胸に残る。
今夜、何かが始まったのだと分かった。
まだ名前はない。
恋でも、友情でも、まして救いでもない。
ただ、傷を持った二人のあいだに、もう見なかったことにはできない何かが生まれてしまった。
その夜、ハリーもまた久しぶりに少しだけ眠れなかった。
ドラコのことが、頭から離れなかったからだ。
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