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「おい、一番面白いところで寝るな」
「ん……?あぁ……」
横から体当たりされて悪夢から覚めた。
「お前が観たいって言うから観せてやってんのに」
「ごめんごめん、最近寝不足で……」
「そんなにつまらないか?これ」
「いや、予想通りの展開だけど……」
「予想通りじゃ駄目じゃねーか」
特に寝不足でも、つまらないわけでもないのだが。初めて訪ねた恋人の家で、恋人のすぐ隣で寝落ちするなんて、自分でもあまり信じられない。緊張から来る眠気だろうか、と無理矢理結論づけつつ、僕はのそりとソファから立ち上がった。
「ほんとごめん、明日早いしそろそろ帰るよ」
「は、もう?」
組んでいた足を外し、明らかに残念そうにこちらを見上げる明(あきら)。
「うん、また今度」
僕は視線をずらしながらリュックを背負う。
「今度っていつだよ」
明が身を乗り出す。余程飢えているらしい。
くだらない。冷めたことを思いながら、僕は愛想笑いを浮かべる。
「分からない。空いたらまた連絡する」
「おい、そうやってこないだも一ヶ月も空いて──」
「流石にそれはないよ。おやすみ」
遮るようにドアを閉める。アパートの階段を降り、オレンジの街灯に照らされた紺色の歩道を早足で進む。
今生の別れという気はまだないが、また会いたいと思う気持ちも少なくなっていた。
明とは三ヶ月前、マッチングアプリで出会った。年は2個上の25歳。宅配で働いているらしく、人より筋肉があると書かれていた。
アイコンがスニーカーの写真だったので不安だったが、いざ会ってみると顔はまぁまぁ好みだったし、まぁまぁ筋肉もあった。
こちらは律儀に大学の集合写真でピースを決めた時の無加工の、それもいささか写りの悪い写真をアイコンにして保険をかけていた。それが功を奏したのか、明は僕の顔を見るなり言った。
「おぉ、実物の方が良いじゃん」
僕はまんまと喜んでしまった。
マッチングアプリでまともな人と会うのはこれで3度目だ。待ち合わせをすっぽかされたり宗教や詐欺だった回数も含めれば7度目になるが。
会う決め手は、こちらの要望を聞き入れてくれるかどうか。
それは、身体接触を決してしないということだった。ハグやキスはおろか、男同士の軽いノリでよくあるスキンシップも禁止。プロフィール欄にそのことを書いておくと、大半の人が寄ってこない。『なんで駄目なの?』と不思議がられる。『綺麗事を言うな』『恋愛に向いてない』と八つ当たりのように批判されたりもした。
恋愛はいかに身体接触を前提としているかを、嫌というほど思い知らされてきた。
以前興味本位で試し読みしたBL漫画も、セックスシーンのあるものばかりでどうにも受け付けなかった。かといって少年漫画の熱い友情が特段好きなわけでもない。
何気ない日常、友達ともまた違って愛し合っている、家族のような安心感。幻想かもしれないと思いつつも、それを求めてやまない。
身体に触れられなくても、僕は確かに男が好きなのだ。
明はそんな我儘に理解を示してくれる珍しい人間だった。会う前のチャットで明は『全然いいよ、てか俺もそっち寄り』と快く返してくれた。
とは言いつつも、前に会った二人も一見理解を示したようで、結局そういう関係を迫ってくるのがオチだった。
三度目の正直。そう信じながら会ってみたわけだが、今のところなかなか良い感じだ。会話のテンポは会うし、沈黙や既読スルーも気にならないし、音楽や映画の趣味も似ている。条件も律儀に守ってくれている。男を見る目がない自分にしてはよくやったと思う。
だからこそ、常に不安が付き纏っている。いつ豹変するか分からない、所詮遊び目的かもしれない、本命は別にいるかもしれない、どうせ上手くいくわけないだろう──そんな被害妄想がやめられない。
それを取り払う為にも、敢えて明の家に足を踏み入れたはずだった。余計に悪化するなんて訳が分からない。
あの悪夢が少なからずそうさせているのだとしたら、僕は両親を恨むべきだろうか。けれどあちら側の気持ちが分からないわけでもないから困る。
男が好きなんて気持ち悪い。そう思う自分が今も、心のどこかに確実に存在しているのだ。
最悪なことが起こった。いや、普通ならラッキーとか運命だと捉えるのだろうが。
仕事の昼休憩中にコンビニでおにぎりを選んでいると、明とばったり出くわしたのだ。明はいかにも宅配といった感じの、緑でストライプの少々ダサいポロシャツを着ている。気付かないふりをしたかったが、目が合った瞬間、向こうがパンコーナーからずかずかと近付いてきた。
「おいおい、なんでこんなとこいんだよ!」
明らかに嬉しそうだ。
「それはこっちの台詞だよ」
取りかけていたいくらおにぎりを戻し、少し身体を引く。
「ここら辺で働いてんの?」
「うん、まぁ」
職場を答えたくなかったので、曖昧に濁す。
「なんかお前スーツ似合わねぇな」
「何だよそれ」
明は仕事着似合ってるね、そう返そうとしたが、ここでは気が引けた。レジが目の前なのもあって、店員に変に思われないか、もしくはどこかで同僚に見られていないか、などと失礼なことを気にしていた。
一方、明は何も気にしないようで、必要以上にベラベラと話しかけてくる。
「いつもここで昼飯買ってんのか」
「そうだよ」
「奇遇だな。俺はもっと休憩遅いけど、今日は珍しく午前の分を早く配り終えたんだ」
「そうなんだ」
「でもお前に会えるなら、明日も頑張って急ぐか」
「え?」
僕は動揺した。一つはその発言。そしてもう一つは、肩にぽんと手を置かれたことだ。
「あっ、悪い」
明はすぐさま手を離した。
「仕事のノリで、つい」
「いや、大丈夫」
気付いてくれるだけマシだろう。本来こんなものは何てことないやり取りの一つだ。
なのに僕は複雑だった。職場の人と平然とそういうスキンシップを取っているなら、尚更だった。
恋人なのに、仕事仲間以下かもしれないなんて。
「どうでもいいけど、お前おにぎり派なんたな。俺はもっぱらパン派」
「そうなんだ」
「ここのはカレーパンが一番美味いんだよ。今度食べてみてくれ」
「うん、分かった」
気まずい空気の中、本当にどうでもいいやり取りがなされる。
「取っていいですか」
「あ、すみません」
背後から客が来て、慌てて避ける。
明と距離が離れる。今がチャンスだ。
「じゃあまた」
僕はおにぎりも買わずに背を向けた。明日からこのコンビニを使わないようにしようとすら思っていた。
「ちょっ、結人」
「……何?」
名前を呼ばれ、やむなく振り返る。
「あー、えっと……」
腕を掴もうとして伸ばしたであろう手を空中で彷徨わせながら、明はぎこちなく言った。
「今週末、水族館行かないか?」
「いいよ」
僕は自然と即答していた。家や職場近くじゃなければ行き先はどこでも良かったらしい、と他人事のように自己分析する。
「マジか、いいのか!」
明は拍子抜けしたように目を丸くする。
「うん、いずれ行きたいと思ってたし」
これは本音だったので、薄っぺらくならないように笑ってみせた。
「じゃあ日曜の10時で!絶対忘れんなよ!」
「忘れないよ」
明らかに嬉しそうな明に手を振り、笑いながらコンビニを出る。
足取りは少し軽くなっていた。
「魚やべー」
「やばいね、魚」
かくして水族館デートの日が訪れたわけだが。
初手、大きな水槽の、種類がごちゃ混ぜになった魚の大群を前にして、いい大人二人で「やばい」しか連呼できなくなっていた。
明は気合を入れて服を新調したようだが、僕的には宅配のダサめな方が良かった。
「じゃあこっから順番に見て行くか」
「そうだね」
「何か見たい魚あるか?」
「特には。明は?」
「特に」
「じゃあなんで誘ったんだ」
「ほんとだよな」
笑いながら二人で並んでルートを進んでいく。
「お、亀だ」
「亀だね」
「ペンギンだ」
「ペンギンだね」
「これは……何だ?」
「スリコギモーリーだって」
「分かんないな」
「分かんないね」
見たままを口に出すという適当な、会話とも言えない会話をしながら、それでも一つ一つ真面目に確認していく。
こういうのが楽しいんだろうな。ぼんやりと他人事のように思いながら、明の後を追う。明も楽しいかどうかは分からない。でも少なくともつまらなさそうには見えなかった。
ふと、その広い背中が壁のように止まった。
「どうしたの」
「俺、くらげ苦手なんだよな」
「へぇ、意外」
「何が?」
「苦手なものとかなさそうだから」
「いっぱいあるに決まってるだろ。俺ジェットコースターもピーマンも虫も無理だから」
子供だな、と思ったが言わなかった。自分も同じくらい偏った趣向・思考だと自覚しているからだ。
「じゃあこのエリアはスルーしよう」
「くらげ見なくていいのか?」
「うん、僕もあんま好きじゃないし」
先頭に立って歩き出した僕に、明が揶揄うように声をかけてくる。
「お前苦手なもの多そうだよな」
「そうかもね。でもその分好きなものも多いから」
僕は前を向いたまま答えた。自信を持ちたかったのか、無意識に胸を張りながら。
「イルカショー15分後だとよ、どうする?」
「どうせなら見ようか」
「じゃあどうせなら前の方行こうぜ」
パンフレットで顔を仰ぎながら、明は最前列の椅子に座る。隣に座った僕は、こないだソファにいた時よりも居心地の良さを感じた。
それはどうやら明も同じようで、その証拠に会話の内容が一歩踏み込んだものになった。
「俺さ、前に会った人ともここ来たことあって」
「そうなんだ」
「……嫉妬するか?」
いちいち覗き込んでくるのが鬱陶しくて顔を背ける。
「いや、デートの基本的な場所だろうし」
「なんだよつまんねぇな」
本当はあまり気分の良いものではなかった。これで良い思い出話が続いた場合、嫉妬を覚えていただろう。でも次に続いた言葉で僕は安心した。
「そいつにさ、財布盗まれたんだよ」
「いやどういうこと笑」
安心からつい笑ってしまった。
「必ず返すから一万貸してくれって、なぜかイルカショーの最中に言ってきて。俺はイルカに集中したかったから承諾して。気付いたら横にいなかった。俺一人、ずぶ濡れで取り残されてた。イルカは何も悪くないのに、八つ当たりで水族館のレビューに星1つけて、『いくら何でも水がかかりすぎだ』っていかにもクレーマーみたいなコメントして、我に返ってすぐ消したりしたよ。可笑しいだろ」
「いや、不憫だよ笑」
「笑ってんじゃねーかお前笑」
可笑しいのは『この人は本当によく喋るな』ということについてだった。それが明にとっての信用であり、今度こそ繋ぎ止めておきたいという本気の表れなのかもしれない。
「表面上は良い奴だったし、心許しちゃってたんだよな。マッチングアプリ始めたてだったのもあって油断してた。そういうことは残念ながらよくあるな。でも俺、人を信じることはやめたくないんだよ」
明は遠くの青空を見つめながら言った。
「だから俺、お前のこと信じてるから」
それは僕と同じ希望的観測に思えて、だからこそ怖くもあった。
信じることは、怖いことでもある。過度な期待、押し付け、執着──その先にあるのは愛なんかではなく、殺し合いだ。
僕はいずれこの人を裏切るかもしれないし、この人に傷付けられるかもしれない。そう考えたらますます距離を置きたくなってきて、腰を浮かし、椅子の端に寄るという行動を取ってしまう。気まずい空気を察してか、明は慌てたようにこちらを向いた。
「あっいや、無理だと思ったらいつでも別れていいから。俺もそうしてきたし」
「分かってる。そうなったら潔く次行くよ。だってこの世に男は35億いるしね」
「ははっ、やっぱお前面白いな」
明は手を叩いて笑う。茶化した甲斐があると思う。
ただそれだけでは物足りなくて、僕も自分語りをしてみることにした。
「僕もサクラには何回も出くわしたし、必死になってる自分が惨めに思えて、諦めた方が楽なんじゃないかと思ったりしたよ。でもやっぱり貫き通したかった。僕は間違ってないって証明する為にも」
あ、と思った時には遅かった。つい本音が、根底にある信念が漏れ出ていた。
明は黙って考えるようにしてから、本音を返してきた。
「とっくに証明されてるだろ。ていうかそんな証明、いらないだろ」
無責任な言葉だと思った。それは傷付けられても気にしないか、開き直れた者の言葉だ。誰だって欲しいに決まっている。曖昧じゃない、明確な証明を。
具体的な例で言うと結婚だってそうだ。パートナーシップ制度なんかで留まらせてほしくないから、これ以上傷付けられたくないから、もっと確かな証明を、正解を、救いを求める。求めすぎて、疲れて、いっそ逃げたくなったりもする。
一時の気休めとしては、この言葉もある意味救いなのだろうか。
「……そうかな、どうなんだろう」
分からない。よく分からないことだらけだ。
「そうだよ。少なくとも俺は、お前に出会えて良かったよ」
「そっか、ならいいけど」
僕は曖昧な愛想笑いを浮かべていた。本来なら喜ぶはずの言葉で、このひねくれ具合。なぜこんな面倒な生き物に生まれてしまったのか。
「おっ、そろそろ飛ぶぞ」
「もう?早いね」
「しっかり見とけよ、ここのイルカは凄いからな」
「へぇ、楽しみだな」
──思ったより水は来なかった。やたらと跳ねるイルカをぼうっと眺めながら、ここの動物達は単純そうでいいな、と僕も無責任なことを思った。