五月の風が教室の窓をくすぐる午後。
その日、元貴は珍しく昼休みを1人で過ごしていた。教室の隅の席で、数学のプリントをぼんやりと眺めていたのだ。
正直、数学は得意じゃない。
けれど若井先生が黒板に公式を書く姿を見ていると、不思議と集中できる気がして。
…ただ、それは学問への興味というよりも、別の感情に近かった。
「大森、ちょっといいか?」
不意にかけられた声に、元貴はびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、教室の入口に若井先生が立っていた。
「さっきの授業、問題の途中で手が止まってたから……一緒に解いてみようか」
まっすぐな目。
それだけで、心臓が跳ねるようだった。
「……あ、はい」
数学準備室に連れて行かれた元貴は、2人きりの空間に妙に落ち着かず、どこかソワソワしていた。
若井は机にプリントを広げ、椅子を引いて元貴の隣に座る。
距離が近い。少し肩が触れそうで、息を止めてしまう。
「ここ。sinとcosの値、ちゃんと覚えておけばできる」
若井が優しく言いながら、元貴の手元に赤ペンで印をつけた。
「……それでもさ、なんでこうなるのかって、たまに思うんです。ルール通りにやってても、腑に落ちない時があって」
元貴がぽつりと呟くと、滉斗はふっと微笑んだ。
「そう思えるの、いいことだよ。…ちゃんと考えてるってことだ」
その言葉が、なぜか胸に響いた。
褒められたことが嬉しいわけじゃない。ただ、その声が、自分にだけ届いてるような気がして。
「……大森って、そういうところ、ちょっと意外だな」
「意外?」
「周りに合わせてるようで、内側ではちゃんと考えてるって感じ」
(…ちゃんと見てくれてるんだ)
そう思った瞬間、目が合った。
穏やかで、真剣で、まっすぐな眼差し。
「……大森?」
不意に名前を呼ばれて、心臓がぎゅっと締め付けられる。
先生として、だとわかってる。だけど、“呼ばれた”というだけで、こんなに胸が熱くなるなんて。
(っ……俺、今……)
自分がどんな顔をしてるのか、きっともう隠せていなかった。
ドクドクと高鳴る鼓動。呼吸が浅くなる。
この感情は、憧れなんかじゃない。
たぶん、もう――
「先生、ありがとう。……少し理解できた気がする」
最後は笑顔でそう言ったけど、隠した想いは、きっと先生には届かない。
けど、それでも。
この人の声で名前を呼ばれるだけで、何もかもが報われる気がした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!