そして二人はグラスを取り、同時に乾杯と言いながら、頭よりも少しだけ高い位置にそれを掲げ、口を付ける。やや酸味があるものの、りんごのフルーティーな香りが鼻に抜け、喉越しも爽やかで、百子はうっとりと息をつく。
「美味しい……シードルってこんな味なのね。ピンク色のシードルがあるのも知らなかった……」
部屋の照明に透かして見てみれば、ピンクゴールドのような色味になるが、夜景に翳してみれば桃色が引き立つ。ロゼワインと色合いが似ているが、それと比べると随分と渋みが少なく、飲みやすい部類のお酒である。
「美味いだろ? これ、ずっと百子と飲みたかったんだよな。百子はぶどうより林檎が好きだし、俺一人でシードル飲む訳にもいかないし」
陽翔はグラスを揺らし、桃色のそれがつられて揺れるのを見て微笑む。シードルの味そのものは期待よりは酸味があったものの、百子が喜ぶ姿を見ただけで、あまり流通していない桃色のシードルを買ったかいがあるというものだ。
早速2杯目を注いだ百子は、ハッとして立ち上がり、冷蔵庫に入れていたチーズのアソートを取り出す。包みを開けた百子は陽翔の好きなカマンベールを彼の前に置き、レッドチェダーチーズを齧っていたが、陽翔はそれに手をつけなかった。
「陽翔、お酒ばっかり飲んでたら胃が悪くなるよ?」
陽翔が3杯目を飲んでいるのを見て、百子はあわあわとしていたが、顔色の全く変わらない彼は事も無げに告げた。
「……晩飯のパエリアとアヒージョがまだ残ってんだよ」
真っ赤な嘘ではあるが、百子は信じたらしく、これ以上追求はしてこなかった。陽翔は夜景とグラスを交互に見て目を輝かせている百子を見てホッと息をついたが、心なしか彼女がそわそわしているようにも見えてしまい、首を傾げた。
「陽翔、本当にありがとう……! 陽翔と水族館デートして、二人でスペイン料理食べて、こうして夜景を見られるなんて夢みたい……!」
心から嬉しそうに感謝を告げる百子を見て、陽翔は彼女を抱き寄せたかったが、その代わりに左手を強く握りしめる。
「俺がずっとこうしたかっただけだ。色々あり過ぎて全然恋人らしいことも出来てなかったが、俺も楽しかったぞ。いや、過去形にするのはまだ早いか……なあ、百子……俺は百子との楽しい時間を夢で終わらせたくない」
陽翔は立ち上がって百子の前に跪き、左手にずっと持っていた、小さな紺色の布張りの箱を彼女に向かって差し出した。
「百子、俺と……俺と結婚してくれ。この世の誰よりも百子が好きなんだ。ずっと一緒にいてくれ」
陽翔は小さな箱を開ける。柔らかな白銀と、一際大きな透き通った多面体が、百子を見上げて燦然と輝いた。
百子はしばし彼とその輝きを交互に見て、目をぱちくりさせる。あまりにも予想外のことがあって、百子の思考回り過ぎを通り越して固まってしまった。呆けたように陽翔を見つめる黒玉を見返していた彼は微苦笑を浮かべる始末である。
「百子……返事を聞かせてくれないか?」
陽翔の言葉で百子の周りの空気は瞬時に解凍され、百子は目を潤ませながら、彼の手からおずおずとそれを受け取った。
「うん……! 喜んで……! ありがとう、陽翔……!」
百子は箱を両手で愛おしそうに包んで、声を震わせながらも、精一杯の笑顔で陽翔に返事をした。その瞬間、百子は陽翔の腕の中に閉じ込められ、未だかつて無いほどの、彼の嬉しそうな笑顔と目が合う。彼の瞳が夜景の灯りよりも、それどころか夜空の星よりも輝いて、潤んだ目をした百子自身を写している。
それに魅入られているうちに、唇に温かく湿ったものが重なった。体の中心がぽっと温かくなった彼女は、このままで終わらせたくなくて、百子は右手に箱を持ちながら陽翔の背中に手を回す。そして彼の唇を舌で軽くノックし、唇の隙間からするりと舌を入れて陽翔の舌と、先程飲んでいたシードルの、甘く芳醇な香りと甘酸っぱい味を追いかける。陽翔とのキスは甘い気持ちになるが、今日は本当の意味で甘く、百子は夢中で彼の舌を、上顎を丹念に|舐《ねぶ》った。陽翔も負けじと舌を絡ませに来るため、百子は本当の意味で酔いそうになってしまう。
「誓いの口付けにしては、随分と長いし激しいな」
「あら、陽翔だって熱心だったじゃないの。私、陽翔のキスで酔いそう」
陽翔のにやりとしたその顔を見ても、百子はどこ吹く風だった。恥ずかしがる彼女を見たかった陽翔は少し落胆したが、積極的な彼女を見るのは、その落胆を相殺して余りあるほどに気分が高揚するのも事実である。陽翔は再び百子を抱きすくめ、そのままベットに彼女を押し倒す。酒を飲んでも上気しない百子が、陽翔のキスだけで、顔どころか首まで真っ赤になっている事実に、陽翔は全身が沸き立つほど歓喜に震えていた。陽翔は彼女の右手から零れ落ちた箱をベットサイドに置いてから、彼女の耳元で低く囁く。
「そうか……じゃあもっと酔わせたくなるな。俺がもっと酔わせてやるよ」
ぴくりと体を跳ねさせた百子は、そのままねっとりと耳朶に舌を這わされ、高く声を上げた。