テラーノベル
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日本の北側。
独りで電車に乗って逃げたあの日から、数ヶ月が経過していた。
彼女自身は、あの夏の出来事も、モルモットとしての役割も、レゼ、という名前すら過去の塵として捨て去ったつもりだった。
──だが、身体は嘘をつけなかった。
不意に、視界の端に映る白色の花。ただ、それだけ。それだけなのに、脳を直接かき回されるような激痛が走った。
「………っ」
喉の奥からせり上がってくる酸っぱさ。
次に目に入ったのは、雑踏の中で歩く短い金髪の男。後ろ姿が、彼に似ている。
更にその先、角を曲がった先にあった電話ボックス。
逃げようと足を進めるたびに呪いのように彼を連想させるものが現れる。
彼──デンジ。馬鹿みたいに優しかった少年。
訓練されたはずだ。心なんて、任務の邪魔になるだけだと痛いほどわかっているはず。それなのに。
不意に、限界が訪れる。
めまいに襲われ、膝が折れる。幸い、ここは路地裏。人影はない。レゼはその場に座り込み、堪えきれずに胃の中のものを吐き出した。
まともに食事をしていないせいで、出てくるのは透明な胃液ばかり。
「……っ……、ぅ、げほっ……」
荒い呼吸を繰り返す。
本当はわかっている。この吐き気も、頭痛も、全ては自分が彼を──デンジのことを、どうしようもなく大切に思ってしまった代償なのだと。
「……あはは、最悪」
掠れた声が漏れる。
この泥沼のような体調に向けた言葉か。それとも、彼を裏切り、逃げ出し、それでもなお彼を求めている自分自身への蔑みか。
その時だった。
「──レゼ?」
聞き間違えるはずのない、どこか間抜けで温かい声。
心臓が止まるかと思った。ゆっくりと顔を上げる。
そこには、いるはずのない少年が立っていた。
とうとうおかしくなって幻覚まで見えるようになってしまったのか。
そう思うと、自嘲気味な笑いが込み上げる。と同時に、視界が熱い膜で覆われ、一筋の涙が頬を伝った。
「!?あ、わ、わりぃっ!急に…」
目の前のデンジは、慌てたように後退りする。
「人違いだったか…?泣かすつもりじゃ…」
「…ううん」
声を出した瞬間、レゼは直感した。しくじった。
もし彼が本物なら。
ここで他人のふりをして突き放せば。もうこれ以上、彼を自分の都合に巻き込まずに済んだはずだ。ここでまた嘘をつけば、彼を傷つけずに済んだはずなのに。
「というか、何でここに」
「あー、旅行…っつーか、なんつーか」
デンジは気まずそうに視線を泳がせる。
「行きなよ。…楽しい旅行中でしょ」
「………」
デンジは何かを言いかけて、言葉を飲み込んだ。言えないことがあるかのように。
「…心配なんだよ」
絞り出すような声だった。
「お前、すげー体調悪そう…っつーか、見てわかるし」
そう言って、彼は手を差し伸べようとして、躊躇うように止めた。
レゼはその手を見つめ、首を小さく横に振った。
手を取ってしまえば、またあの日々の続きを望んでしまう。けれど、自分の手はもう、戻れない程に汚れきっている。
「…ダメ」
自分に言い聞かせるように、震える声で呟く。
「もう、戻れないんだよ」
吐き気の残る口元をパーカーの袖で拭い、彼女はただ、本物かもしれない少年の影を見つめていた。
──その時。
「デンジ〜!!どこにおる!!ワシを置いて行くとはいい度胸じゃのお!!」
「はぁ、マジでアイツどこ行きやがった」
目の前の少年の名を呼ぶ女の声と、聞き覚えのある男の声。
その二つの声は、レゼに今のこの状況が現実ということを突きつけるには十分だった。
「ほら、デンジ君には大切な人、居るんでしょ…?…行って」
顔を下げたまま、突き放すように言った。
だが、デンジは動かない。デンジが何かを言おうと口を開くのと、向こうから二人が角を曲がってくるのは同時だった。
「おいデンジ、どこ行って──」
男と女──アキとパワーの視線が、デンジとレゼに向けられる。
「げっ!!やっべ、逃げっぞ!」
「え、!?」
拒絶する暇も無かった。デンジがレゼの細い手首を強引に掴む。
驚きに目を見開くが、気づけば反射的に指を絡め、握り返してしまっていた。
「おい!待て、デンジ!!」
+++
それからどれだけ走っただろうか。二人は息を切らし、入り組んだ路地を抜け、広い公園の木陰に身を隠すように座った。
「はぁ、はぁっ、…ここまで来りゃしばらくは大丈夫だろ」
デンジが木の幹背を預け、気まずそうに真実を口にする。
「…本当はさ、お前ん事見つけたら捕らえなきゃいけねーの。そーゆー命令が出てんだわ」
「っじゃあ、なんでこんな事」
なぜ、仲間を裏切るような真似をするのか。
レゼの問いに、デンジはぽりぽりと頭を掻きながら、ぶっきらぼうに答えた。
「……知らねぇ。早パイの家族ん墓参りのついでで旅行みてえなんしてたら、お前みてえなやつ見て……そしたら勝手に身体が動いたんだよ」
あまりにも彼らしい、本能的な優しさに、レゼの胸がまた疼く。
「っていうか」
「お前。…碌に飯食えてねーだろ」
「………」
否定できなかった。
「…アレ、食えるんじゃね?」
デンジが指さしたのは、頭上の枝に実った小さな赤い木の実だった。
「……ふふ、それは私も知らないな」
あまりの脈絡の無さに、レゼの唇から乾いた笑いがこぼれた。
デンジはひょいと立ち上がると、枝から実を摘み取って、手のひらに載せてレゼに差し出した。
「これ、レゼの分な」
その手元の向こう側、二人の足元には、小さな白い花が咲き誇っていた。ついさっきまで苦しみの元になっていたそれが、今は不思議と気にならない。
レゼはデンジから受け取った実を、そっと口に含んだ。
「苦っ!!?」
一緒のタイミングで食べたデンジが、顔を歪める。
だが、レゼにはその苦さは分からなかった。眉一つ動かさず、それを噛み砕く。
「おまっ、平気なのかよ……?」
「うん、まあ…ね」
生まれつきの耐性なのか、それとも味、という感覚そのものが麻痺しているのか。だが、今はそんなことはどうでもよかった。
暫くの間、沈黙が流れる。風に足元の花が揺られ、木の葉が空で踊る。
「…ねぇ」
「ん?」
膝を抱え、遠くを見つめたまま。ずっと、言えなかった──あるいは言いたくなかった真実を、口から零す。
「本当は、私」
「…何も知らないの。何もかも」
告白。それは彼女にとって、自らのアイデンティティを根本から否定するようなものだった。
だが、デンジは驚かなかった。
「…あー……」
彼は資料で知っていたのだ。彼女が「モルモット」と呼ばれ、人生の大半を薄暗い実験室で過ごしていた存在をであることを。
「…ごめんなさい、困っちゃうよね」
自嘲気味に笑うレゼに、デンジは鼻をすすって言った。
「……なら、俺が教えればいいじゃん」
「…例えば?」
自分より漢字も数式も英単語もわからない癖に、自分に何を教えられるのか。
「うーん…あ、アレだ、アレ!手品な!」
「…花のやつ?」
「おう!ちゃんと見てろよ!」
そう言って、デンジは足元に咲く花を摘み取って、飲み込み、吐きそうなフリをして、なくなったはずのそれを吐き出す。
「どうだ、分かったか?」
「ふふ、あはははは…っ!わかんないよ…デンジ君、教えるの下手だねっ」
耐えきれず、レゼは声を上げて笑った。
さっきまで自分を苦しめていたはずの吐き気や花が、この少年の手にかかれば、こんなにも滑稽な笑い話に変わってしまう。レゼには、これこそが手品のように見えた。
「あァ〜?俺、めっちゃ丁寧に教えたぜ?」
デンジはぽりぽりと頭を掻き、花をレゼに差し出した。
さっきまでの頭痛も、罪悪感も、完全に消えた訳じゃない。だが、デンジと笑い合っているこの瞬間だけは、本の中の出来事のように遠く感じられた。
+++
笑い声が止んだ後の静寂は、さっきまでとは違う色をしていた。
風に揺れる木々の音と、遠くで聞こえる自分達を探す声。
「なあ」
ふと、デンジが口を開いた。
「?」
「…一緒に逃げねえ…?」
心臓が跳ねた。ただ1人の少女としての、生身の心が。
あまりにも無謀で、けれど世界で一番優しい提案。レゼは震える唇を噛み締め、確かめるように問いかける。
「家族を裏切って、でも?」
それを捨ててしまえば、明日の命に保証はない。それでもいいのかと。
「…それぐらい、好きになっちまったんだよ」
デンジは照れる事すら忘れたような、真っ直ぐな顔で言った。
その言葉は、レゼが今まで受けてきたどんなものよりも濃く、胸に刻まれるものだった。
目を見開く。視界がぼやける。
レゼは両手で顔を覆い、こぼれ落ちる涙を隠そうとした。
「ほんっと…キミは馬鹿だね」
あの日手放したはずの「もしも」の未来。それが今、目の前で現実になろうとしている。
「後悔、するよ」
「別にィ?俺ぁ今、希望に満ち溢れてんだ。ちょっとやそっとのことじゃ何も思わないね」
「…それに」
「レゼがいりゃ、最悪なこともなんとかなる気がすんだわ」
レゼは顔を上げ、濡れた瞳でデンジを見た。
この先、また白い花を、電話ボックスを見て壊れてしまう日が来るかもしれない。
だけど、隣にこの少年がいれば、きっとまた今日みたいに笑い話に変えてくれる、そう思えた。
「…ありがとう」
震える声で、小さく呟いた。
「それって…いいっつーこと、?」
さっきまでの格好良さはどこへやら、デンジは不安そうに顔を覗き込んでくる。
声が出なかった。ただ、溢れる涙を堪えることができぬまま、何度も、何度も、深く頷いた。
「…よし、決まりだ。じゃあまずは───」
どちらかの腹がぐう、と鳴った。
「…メシだな」
「ふふ、そうだね」
二人は立ち上がる。お互いの手を握る。もう離れないように、離さないように。
足元の白い花を踏まないように、デンジとレゼは、夕暮れに染まり始めた街へと一歩を踏み出した。
チュウ、とどこからか、ネズミの鳴く音がした気がした。
「………っ」
意識が浮上する。
最初に視界に映ったのは、無機質なコンクリートの壁。
湿った埃の匂いと、微かな冷気。そこはまるで、外の世界から切り離された小さな檻のような隠れ家だった。
「ここ、は…」
今、自分はどこまで夢を見ていたのだろうか。
思い出そうとすればするほど、あったはずの記憶の断片がこぼれ落ちていく。
ただ、胸の奥にだけ、じんわりとした熱が残っていた。
どこか知らない場所で、誰かと笑い合って───そんな、幸福な残響。
「あれ、早起きだね」
どこからか聞こえたその声は、優しいはずなのに一切の温度を感じさせない。
「──ボムちゃん」
弾かれたように顔を上げれば、そこにはパイプ椅子に腰掛けながら、静かに資料をめくるマキマの姿があった。
彼女と目が合った瞬間、脳を直接焼かれるような激痛がレゼを襲った。
頭を抑え、目を強く閉じる。
不意に脳裏に、1人の少年の顔が浮かんだ。
ボサボサの金髪、どこまでも純粋で、馬鹿げたほど優しい目。
名前。名前は何だったか。喉元まで出かかっているはずなのに、鋭い痛みがそれを力ずくで押し戻す。
「大丈夫?顔色悪いよ」
マキマの声が響くたび、心の中にあったはずの温かい記憶が、何か別のもので黒く塗りつぶされていく。
「い、いえ、平気、です」
ふらつく足取りで立ち上がり、周囲を見渡す。
そこには、虚ろな空気を纏った男女が数人、壁に背を預けて眠っている。
「皆が目を覚ましたら、この後の作戦会議するから。それまでは、ここの中で好きにしてていいよ」
彼女の指先が、次のページをめくる。
そうだ。思い出した。
自分は今、マキマ率いる「公安対魔特異5課」のうちの1人なのだ。
チェンソーマンとの苛烈な戦闘。それは今、一時的な休戦状態であるに過ぎない。
殺さなければいけない。チェンソーマンを。
マキマさんのために。
それが、それだけがここにいる自分の唯一の存在意義なのだから。
(でも、何だろう…)
頭の片隅で、小さな違和感がしつこく首をもたげる。
マキマへの忠誠心よりも、任務への義務感よりも、もっと、ずっと大事な「何か」があったような気がして。
「………」
目を閉じ、それからゆっくりと息を吐き出す。
考えるのは、もうやめだ。
ノイズのような感情は、全てチェンソーマンを殺した後に考えればいい。
レゼは静かに、兵器としての自分を研ぎ澄ませ始めた。
コメント
1件
わあ、チェンソーマンのif再会話…!これは胸にくるものがありました。白い花がトラウマの象徴から、デンジの手品で笑いに変わるあの流れ、じんわりしました。「一緒に逃げねえ?」ってデンジがあんな真っ直ぐな目で言うの、原作では叶わなかった希望の形だ。でも最後のマキマ登場の不気味さ、あの優しい声で記憶を塗り潰していく感じ…いい意味でゾッとしました。続きが気になる…!
うめしゅ,🇺🇸♡