テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「え〜!ほんとびっくりした!ろくちゃん、なんでここにいるの……?」
明るく弾けるような声が響いた瞬間、会場の空気がふっと緩んだ。
“あやか”と呼ばれた女性が、迷いなく岡崎の元へ歩み寄る。軽やかな足取りと笑顔に、まるでその場の温度が一段上がるようだった。
「いや、こっちのセリフなんだけど。……お前、なんでここに?つーかなぜ藤井と彩夏が一緒に?」
岡崎は最初こそ驚いたようだったが、すぐにいつもの調子へと戻っていった。その切り替えの早さに、どこか無防備さを感じた。
「取材だよ、ろくちゃん!うちの編集部にも案内きててね、本当は別の人が来るはずだったんだけど、直前でインフルになっちゃって。それで急きょ私が担当になったの」
視線が交差する。彩夏はにっこりと微笑み、言葉を継いだ。
「で、会場ついてすぐにちょっと人の流れから離れたくて…静かな場所ないかなって探してたら、たまたまこっちの方に座ってる人がいて。そしたら同じゲストプレートつけてたから、きっと関係者の方だろうなと思って、思いきって声かけてみたの。…それで、ね?」
小首を傾げながら、柔らかく問いかけるようにこちらを見る。その視線を受けて頷くと、岡崎が納得したように目を細めた。
「──あーね?そういうことか。なんか楽しそうにしてるから知り合いなんかと思ってびっくりしたわ」
「えへへ。それより、ろくちゃんはなんでここに?」
「なんでって、だってこのプロジェクト一部だけど俺も関わってるやつだもん」
「え!そうなの?…やだ、ほんとだ。フェリクスの名前ある」
「おっまえ、ちゃんと資料確認しろよなぁ」
「だってさぁー!ほんとについさっき上司に、行ってこ〜い!って渡されたんだもん」
「ややや、だめですねぇ、プロ意識が足りませんねぇ、彩夏ちゃんは」
「ふんだっ!どうせあたしは、ろくちゃんみたく仕事できませんよぉ〜だ」
止まることなく続くふたりのやりとり。そのテンポ感に、割って入る余地などまるでなかった。
岡崎の口元がゆるみ、楽しげに笑った。
その笑顔は、どこかくすぐったそうで、ふとしたやさしさがにじんでいた。あの表情を、見たのは初めてかもしれない。
「あ。…えっと、ごめんな藤井」
ようやくこちらに向き直った岡崎が、手にしたグラスを差し出してくる。
「あっこれ、適当にドリンク持ってきたやつ。藤井の分。はい」
「…ありがと」
言葉を交わしたあとの、わずかな沈黙。そこに、岡崎の声が重なった。
「そか、紹介するわ。この人は大学の時からの友達、宮崎彩夏、さん。今はCOTO編集部でライターやってる。……んで、彩夏。こっちが藤井さんな。藤井香澄さん。LIVELって会社で、今日のとは別件なんだけど、今合同プロジェクトで一緒に仕事してる」
──大学の時からの、友達。
何気ない一言に、ほんの少し胸の奥がざわついた。
「えっと…改めて。はじめまして、宮崎彩夏って言います。ろくちゃんとは、卒業してからもずっと仲良くて……よく話聞いてもらったりしてて、ほんといつもお世話になってるんです」
「…あ、そうなんですね。藤井香澄です。こちらこそ……よろしくお願いします」
差し出された名刺を受け取ると、彩夏はにこやかに笑った。自然で、押し付けがましくない、ちょうどいい距離感。
「あの、香澄ちゃん……って呼んでいいかな?
さっき話しかけたとき、すっごく綺麗な人だなぁって思って、実はちょっと緊張しちゃってたんです。
まさか、ろくちゃんのお仕事仲間だったなんて……なんか嬉しい」
「……いえ、そんな……」
うまく言葉が返せず、心が揺れたままになっていた。
「もう、ろくちゃん、こんな綺麗な人と仕事してて、なんも教えてくれないんだもんなあ〜。……あっ!ごめんね香澄ちゃん、これ、名刺です」
彩夏が再び名刺を差し出すと、岡崎が苦笑するように肩をすくめた。
「あなたねえ…まぁ好き勝手にベラベラと。藤井がこまって固まっちゃってるでしょうが。あっあと藤井、そんなかしこまんなくていいから。タメ口でいいから彩夏は」
「だってほんとにそうなんだもんっ。てかそうだよ!うん!香澄ちゃん敬語やめて話そう」
「あ。…うん」
少し戸惑いながらも返した言葉。その背後に、二人の間にある時間の深さがゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
「そういえば……ろくちゃん。夏にさ、湘南の海の写真送ってくれたでしょ? “今ロケハン中〜”って。あれって、もしかしてじゃあ香澄ちゃんも一緒に?」
「え?あー!うん。そうだよ。藤井も同行してた」
「わあ、やっぱりそうなんだ!」
ぱっと顔を向けた彩夏の無邪気な表情。まっすぐで、曇りがなかった。
「…そ、う。そうなの。うちの会社からも一人出すことになってて……私が、たまたま」
その“たまたま”に、ほんの少し胸が引っかかった。
「え〜いいなぁ……。あたしね、湘南の海、子供の頃から大好きなんだけど、仕事が忙しくて最近はなかなか行けなくてね?
ろくちゃんにもよく話してたんだけど、そしたら写真、いっぱい送ってきてくれて……どれもすっごくきれいで、見ながらうっとりしちゃって。
あの景色、香澄ちゃんも実際に見てきたんだ〜って思ったら……なんかますます羨ましくなっちゃった」
岡崎は、彩夏の言葉を聞きながら静かに笑った。ふざけたようでもなく、特別な何かを誇るわけでもなく。ただ彼女の喜びに応えるように。
──その笑顔を見た瞬間、心が静かに反応した。
あの夜の光景が蘇る。
湘南の浜辺。若者の声と花火の音、そして波音の合間に聞こえたあの言葉。
『 ……俺さ、大学のとき、めっちゃ好きだった子がいたんだよ』
いつもより低く、真っ直ぐに落ちる声。
『あの人が泣きそうな声で“会いたい”って言ってきたら、俺、行っちゃうんだよな』
すべてが繋がった。
──この人だ。
岡崎が、手放せなかった「誰か」は。
今ここで無邪気に笑う彼女だった。
それを知った瞬間、胸の奥から、すうっと何かが抜けていった。
静かに、確実に、熱を失うような感覚。
期待や、願い、名前すら与えてこなかった感情たちが、
ようやく「終わり」を知ったように、音もなく崩れていった。
ずっと知らないままでいられたらよかった。
この人の名前を、顔を、笑い声を、
「特別な存在」として意識しないままでいられたなら。
それでももう、遅かった。
あの夜の言葉に、こんな鮮明な輪郭があったと知ってしまった。
あの視線の行方が、この人に向けられていたと、気づいてしまった。
岡崎の表情が、こんなにも優しくやわらかく変わる瞬間があることを──
自分の前では、決して見せたことのなかったその顔を、
今この距離で、確かに見てしまった。
笑顔がまぶしすぎて、もう、まっすぐ見ることができなかった。
「……そろそろ始まるかな。岡崎、スピーチあるなら行かなくて大丈夫?」
問いかけたのは、逃げ道だった。
自分のこの揺れを、これ以上さらさずに済む、唯一の手段。
「うわ、ほんとだ……やべ。じゃあ俺、ちょっと行ってくるわ」
腕時計を見て慌てたように岡崎が立ち上がる。
その動きすら、もう目に焼きついてしまっていた。
「え、ろくちゃんスピーチするの? すごい!頑張ってね!深呼吸してから行くんだよ!」
「うっせぇな、俺のオカンかよお前は」
振り返りざまの軽口に、彩夏が声を立てて笑う。
その声が、やわらかく空気に溶けて、残っていた。
岡崎の背中が遠ざかっていく。
その歩き方も、背中の広さも、いつもと何ひとつ変わっていないのに、
なぜか、届かない場所へ行ってしまうような気がした。
彩夏は、まだその背中を見ていた。
名残惜しいというより、自然な流れとして、
まるでそこに視線を置くことが当たり前のように。
それを見ていた香澄の胸が、静かに痛んだ。
焼けるような熱が喉を締めつけ、
呼吸の通り道をひそかに塞いでいく。
岡崎は、こんな顔をして笑う。
彩夏にだけ見せるまなざしを持っている。
それを知らなかった自分は、
ほんの少しだけでもそこに触れたかったのかもしれない。
だけど──それは、届かない場所にあった。
自分が知らなかった岡崎を、いま、ようやく知ってしまった。
そして、それが“自分では引き出せない顔”だと理解してしまった。
それだけで、心の奥にあった何かが、音もなく崩れていった。