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絵という唯一の盾を砕かれた私は、逃げるように音楽室へと向かった。美術室から聞こえるあのにぎやかな歓声が、今の私には鋭いナイフのように突き刺さる。
「私には、まだこれがある……」
独学のピアノ。譜面をなぞるだけじゃない、自分の中から湧き出る旋律を音にする瞬間だけは、誰にも邪魔されない聖域だと思っていた。
放課後の、誰もいない音楽室。
少し調律の狂ったアップライトピアノの前に座り、震える指を鍵盤に置く。
ポロン、と寂しげな音が響く。
あの子の描いた完璧な曲線が、脳裏に焼き付いて離れない。
それを振り払うように、激しく、叩きつけるように鍵盤を走らせた。
自作の、まだ未完成な曲。切なさと焦燥が混ざり合った、歪なメロディ。
「……いい曲だね。それ、君が作ったの?」
背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこには同じ学年の男子生徒が立っていた。彼は吹奏楽部のエースで、コンクールでも入賞経験がある「本物」の一人だ。
「独学、なんだよね。すごいな、そんな風に感情を音にできるなんて」
彼は隣に座ると、私のメロディをなぞるように、滑らかに、そして圧倒的に美しい音色でピアノを鳴らした。
私が数ヶ月かけて紡ぎ出したフレーズが、彼の指先を通した瞬間、魔法にかけられたように洗練されていく。
私が必死に守り抜こうとしていた「特別」が、またしても軽々と、残酷なまでの技術によって上書きされていく。
「やめて」
声が震えた。
彼は驚いたように指を止めたけれど、私はもう、鍵盤を見ることもできなかった。
美術、ピアノ、作曲。
私が「好き」だと思っていたものは、結局、周りに誰もいない場所でしか通用しない、井の中の蛙の慰めでしかなかったんだ。
平均点しか取れない勉強、すぐに足を引っ張る運動、鏡を見るたびに溜息が出る外見。
それらすべてから目を背けるために、私は「表現者」という仮面を被っていただけ。
音楽室を飛び出し、廊下を走る。
夕暮れの校舎は、まるで私を閉じ込める檻のようだった。
「……何もない。私には、本当に、何もない」
気づけば、私は中庭のベンチでうずくまっていた。
手に持ったタブレットには、描きかけのイラストと、未完成の音源データ。
すべてを消去してしまえば、この胸の痛みも消えるのだろうか。
その時、頭上から影が落ちた。
「……見つけた。さっき、急にいなくなっちゃったから」
顔を上げると、そこにはあの美術室の女の子が立っていた。
あの子は、私が逃げ出した後に描いたのであろう、乾ききっていないスケッチブックを抱えている。
「あ、あの……私の絵が、何か気に障ったかな。ごめんね」
彼女の瞳は、純粋だった。嫌味も、優越感も、何ひとつ混じっていない。
それが、一番残酷だった。
私は、彼女を憎むことさえ許されない。
「……大したことないなんて、言わないでよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど低くて、冷たかった。
「私にとっては、それがすべてだったの。あの子より上手い、クラスで一番だって、そう思わないと立っていられないくらい、弱かったの。……なのに、あなたは『大したことない』って……」
涙が溢れて、止まらなくなった。
プライドも、自尊心も、あの日から積み上げてきたすべてが、足元で崩れていく音がした。
彼女は、黙って私の隣に座った。
そして、自分のスケッチブックをゆっくりと開き、私が一番打ちのめされたあの絵を見せてくれた。
「……これね、実は昨日、お母さんと喧嘩して、泣きながら描いたの」
彼女は、絵の端にある少し歪んだ線を指でなぞった。
「私、絵を描いてる時だけは、嫌なこと全部忘れられる気がして。でも、描けば描くほど、自分の足りないところばかり見えて……。だから、『大したことない』って言ったのは、謙遜じゃなくて、本当に、自分に満足できてなかったからなの」
彼女は私を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの絵、美術室でずっと見てたよ。……すごく、苦しそうだった」
その言葉に、息が止まる。
「でもね、その苦しそうな色が、私にはすごく綺麗に見えたの。私には描けない、本当の心の音がしてるみたいで。……独り占めしたくなるような、そんな絵だった」
私は、自分の震える手を見た。
あの子は「技術」を見ていたんじゃない。「私」を見ていた。
完璧な絵を描くサイボーグとしてではなく、もがき、苦しみ、それでも何かを掴もうとしている一人の人間として。
夕闇が降りてくる中、私たちはしばらく無言で座っていた。
不協和音だと思っていた世界が、ほんの少しだけ、新しい響きを帯び始めた気がした。