テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第六話 思い出せない名前
最初に浮かんだのは、音だった。
一定の間隔で、遠くから響く、機械的な音。
それが何かは分からない。
けれど、胸の奥がきゅっと縮む。
「……」
晴明は、目を開けたまま、呼吸を整えようとした。
ここは、いつもの場所。
縁側、庭、柔らかい空気。
晴明公も、少し離れたところで書を読んでいる。
なのに。
「……変、だ」
呟いた声に、晴明公が顔を上げる。
『どうしたんだい、晴明』
「……さっき、音がしました」
『音?』
首を傾げる仕草は、いつも通り穏やかだ。
『ここには、風と君の呼吸しかないよ』
「……そう、ですよね」
納得しようとした、その瞬間。
胸の奥に、別の感覚が差し込む。
――冷たい。
――固い。
――白い。
「……っ」
思わず、額を押さえる。
『晴明?』
「……何か」
言葉を探す。
「……白い、天井……?」
言った瞬間、晴明公の指が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬。
それは、見逃せば気づかないほどの間だった。
『……夢だろう』
すぐに、いつもの声に戻る。
『眠りが深いと、そういう像が浮かぶ』
「……夢、ですか」
白い天井。
規則正しい音。
胸に貼り付く、何か。
夢にしては、生々しすぎる。
「……でも」
晴明は、躊躇いながら続けた。
「誰か……
声が、した気がして」
晴明公は、ゆっくりと歩み寄る。
『声?』
「はい……
僕を、呼んでる感じで」
その瞬間、胸が痛んだ。
「……でも、名前が、思い出せない」
それが、いちばん怖かった。
晴明公は、晴明の前に腰を下ろす。
『思い出さなくていい』
即答だった。
『名前というのは、繋がりを強くする』
「……繋がり」
『外と、君を』
優しく、でも確実に。
「……でも」
晴明は、視線を逸らす。
「その人……
すごく、必死でした」
言葉にすると、胸がざわつく。
「僕が、起きないと……
困る、みたいな」
晴明公の目が、細められる。
『困る、ね』
どこか、試すような響き。
『君がいないと、困る人は、たくさんいる』
「……ご先祖様も、ですか」
不意に、そう聞いてしまった。
晴明公、は、少し考える素振りを見せてから、答える。
『僕は、困らない』
静かな声。
『君が選ぶなら、受け入れる』
その言葉に、胸がちくりと痛む。
「……じゃあ」
晴明は、小さく息を吸う。
「外の人は……
僕がいなくなるって、選択肢、ないんですか」
晴明公は、しばらく黙っていた。
『外の人間は、弱い』
やがて、そう言った。
『失うことに、慣れていない』
「……」
『だから、必死に呼ぶ』
晴明の胸に、罪悪感が芽生える。
「……僕が、悪いみたいですね」
晴明公は、首を振る。
『違う』
きっぱりと。
『君は、何もしていない』
一呼吸置いて、続ける。
『ただ、選んでいるだけだ』
その言葉に、救われた気がした。
でも――
また、あの音が、遠くで鳴る。
一定の間隔。
規則正しい。
「……ご先祖様」
晴明は、恐る恐る言う。
「もし……
もし、僕が、あの声の名前を思い出したら」
喉が、鳴る。
「……何か、変わりますか」
晴明公は、即答しなかった。
代わりに、晴明の額に、そっと指を置く。
『変わるよ』
低い声。
『だから、思い出さないほうがいい』
その触れ方は、優しいのに、逃げ道を塞ぐようだった。
「……」
晴明は、目を閉じる。
白い天井。
規則的な音。
名前の、ない声。
それらが、ゆっくりと遠のいていく。
『ほら』
晴明公の声が、すぐそばで響く。
『君は、ここにいる』
晴明は、小さく頷いた。
「……はい」
そう答えながら、心の奥で、微かな違和感が残る。
――どうして、
名前を思い出すだけで、
“変わる”んだろう。
その疑問は、言葉にならないまま、沈んでいった。
そして、晴明公は気づいていた。
もう、完全には消せない記憶が、芽吹き始めていることを。
それでも彼は、何も言わない。
まだ、間に合うと信じているから。
――ここに留めるためなら、
どんな優しさでも、使う覚悟で。
コメント
2件
今回も最高でした! 晴明君がどんどん思い出してきてるけど大事な所がまだ思い出せてない 晴明君を呼んでいるのは誰なのか…続き楽しみにしてます!