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「エルネストさんは
嫌いな食べ物やアレルギーはありますか?」
鍋の湯気が静かに揺れる音の中で
時也の問いは
湯に溶けた出汁のように柔らかく
あたたかく空気に溶けていった。
だが問いかけられた青年──
エルネストは、すぐには応じなかった。
指先に這わせていたカナブンの背を
じっと見つめたまま、僅かに目を伏せる。
やがて、低く掠れた声が一言だけ応じた。
「⋯⋯なぜだ?」
問い返す声に含まれるのは
警戒心というよりも、戸惑い。
それは、優しさというものが
未だ彼の中で〝警戒すべきもの〟である
証のようだった。
「さっきも言ったように
野菜を作り過ぎてしまいましたから⋯⋯
エルネストさんにも
食べて手伝って頂こうかと。
お腹、空いてないですか?」
時也が湯気の向こうから
優しく問いかける。
その直後だった。
⋯⋯ぐぅ──
エルネストの腹部から、小さく音が鳴った。
それは空腹という、極めて人間的な証。
目を伏せたまま
エルネストの肩がわずかに震える。
羞恥か、それとも驚きか。
だが時也は
それを責めるでも、笑うでもなかった。
「ふふ。
たくさん食べて、手伝っていただけそうで
何よりです」
あくまで穏やかに
いつもの微笑みのまま、彼はそう返す。
鍋の中では、蕪と長葱が静かに踊っていた。
野菜の白と緑が、熱にほぐされ
柔らかな香りを漂わせる。
時也は、味噌を丁寧に溶かしながら
木の柄杓を鍋の縁に静かに置いた。
その時だった。
エルネストが、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯お前から、植物の香りがする」
その言葉は、分析でも、批判でもなかった。
ただの、事実の指摘──
けれどどこか
好奇心と混乱が入り混じった声音だった。
時也は、味噌の香りが満ちる空気の中
静かに頷く。
「僕は、身体が桜でできてますからね。
そのせいかもしれません」
「⋯⋯なぜ、桜?」
再び問うエルネストの声には
今度は確かな疑念と
理解できないものへの探求心があった。
「僕は、一度死んで⋯⋯
あの裏庭の桜の大樹から
生まれ直したんです」
声に悲壮さはない。
ただ、事実を語る静けさがあった。
それはまるで、自らの死と再生すら
今となっては〝日常〟であるかのように──
エルネストの眉が、ほんの僅かに動いた。
それは彼の中に
思いがけない共感が芽生えた瞬間だった。
「お前も⋯⋯人間に嫌われてた、のか?」
まるでそれが
誰かと分かち合いたかった言葉のように。
問いというより、確認。
確かめずにはいられなかったのだろう。
時也は、鍋を見つめたまま
ゆっくりと答える。
「そのせいではありませんが⋯⋯
別の異能のせいで、気味悪がられ⋯⋯
利用され、人間が嫌いでしたね」
その声は、微笑みをたたえながらも
どこか遠くを見ていた。
エルネストは黙ったまま
ゆっくりと
自分の指先に戻ったカナブンを見つめる。
蟲たちは何も問わず、何も否定しない。
ただそこに在るだけの存在。
だからこそ、彼は続けた。
「虫たちは
お前を嫌いだと思っていない⋯⋯
なら俺も、お前は⋯⋯少し、嫌いじゃない」
その言葉は
まるで少年が勇気を振り絞るような声だった
酷く不器用で、まっすぐで、ぎこちない。
だが
そこには確かな〝善意〟が宿っていた。
時也の手が、ふと止まる。
湯気の向こう、表情は見えないまま
彼はただ一言だけ返した。
「それは、光栄です」
包丁の音がまた静かに再開される。
刻まれていくのは蕪の葉
けれどその静かな調理の音には
どこか〝信頼〟という名の
温度が加わっていた。
ふとエルネストは、壁に背を預けながら
うっすらと目を閉じる。
静かな香りと、暮らしの音の中で
彼の頬がほんの少しだけ
解けたように見えた。
「時也様。
何か、お手伝いすることは⋯⋯あら?」
絹のようなスカートの裾を揺らしながら
アビゲイルが
キッチンの敷居をまたいだ瞬間──
彼女の言葉がふっと途切れた。
その視線の先、キッチンの隅。
観葉植物の鉢の影に
影のように蹲る青年が居た。
褐色の肌、鉛白の髪、そして蘇芳の瞳。
異国の色彩を纏ったその青年は
アビゲイルの姿を見た瞬間
肩をビクリと跳ねさせ──
次の瞬間
まるで雷に打たれたかのように
傍に立つ時也へと縋りついた。
「⋯⋯っ!」
ガタン、と
軽く器が揺れた音すら掻き消すほどの
鋭い動きだった。
時也の腰にしがみついたその身体は
怯え、緊張しきっている。
指先は細かく震え
額には汗すら浮かんでいた。
けれど時也は驚く素振りすら見せず
ただ穏やかに片手を伸ばすと
エルネストの頭を
子供を宥めるように、ゆっくりと撫でた。
「大丈夫ですよ、エルネストさん。
アビゲイルさんも、貴方と同じく転生者で
異能をお持ちです」
その声には、何の力みもない。
まるで、すでに何百回も
同じ場面を経験してきたかのように──
他者の恐怖も不信も
すべて受け止めてきた者の語り方だった。
「アビゲイルさん。
冷蔵庫にローストビーフと
サラダがありますので
リビングに運んでいただけると助かります」
アビゲイルは一瞬、視線を彷徨わせたが
すぐに微笑を整え
その怯えた瞳にまっすぐ優しさを向けると
小さく頷いた。
「⋯⋯わかりましたわ」
その声音は、普段の快活さではなく
静けさをたたえたものだった。
空気を乱さぬよう、慎重に──
まるでそっと撫でるように動く。
彼女は冷蔵庫を開け、涼やかな光の中から
ローストビーフとサラダの入った
ガラス容器を取り出すと
手際よくトレイに並べていく。
無駄のない動作の中にも
どこか柔らかい気遣いが漂っていた。
その間にも、時也は静かに盆を並べていた。
粥はとろりと柔らかく炊かれ
味噌汁には蕪と葱がたっぷりと入っている。
木製の小さな椀に分けられたそれらは
まるでどこかの家庭の朝食のような
穏やかな温もりに包まれていた。
そこへ──
すうっと、気配が現れる。
念話での呼びかけに応じたのだろう。
姿を現したのは
小さな足音すら忍ばせる式神、青龍。
無言で時也のもとに歩み寄ると
器用に盆を二つ手に取り
そのまま振り返らずに出て行く。
「さぁ、エルネストさん。参りましょうか」
そう言って時也が声をかけると
エルネストはしがみついたまま
小さく首を横に振った。
「⋯⋯あっちは、嫌だ」
その言葉には、強い拒絶の色があった。
彼の心の奥にある
何か過去の記憶に起因する恐怖。
人の気配、視線、声、存在──
それらすべてに拒絶反応を起こすような
拒み方だった。
時也は、その理由を問わなかった。
ただ、優しく笑ったまま応える。
「大丈夫ですよ。
お部屋で静かに僕と食べましょう?」
エルネストは、時也の裾を強く握ったまま
ゆっくりと頷いた。
二人分の盆を手に持ち
時也は静かにキッチンを出た。
リビングに入ると
ソーレンとアビゲイルが
すでに食卓の側で待っていた。
「ソーレンさん、アビゲイルさん。
お二人の分もキッチンにございますので
冷めない内にどうぞ
召し上がっていてください。
レイチェルさんは
青龍がお手伝いに行きましたので」
「わかった」
短く返すソーレンの声には
いつものような刺々しさはなかったが
エルネストが彼の顔を見た瞬間──
再び、時也の着物の裾をぎゅっと握り込んだ
(やっぱり⋯⋯怖いですよね、あの表情は)
時也はそう心の中で微笑むと
エルネストを柔らかく視線で促し
二人で階段を静かに上っていった。
残されたリビングには
ふとした静寂が落ちた。
「⋯⋯なんだ、ありゃ?
時也のひっつき虫かよ」
ソーレンが
あくまで無関心を装った声でぼやく。
「臆病というより⋯⋯
人間が嫌い、って感じでしたわね?」
アビゲイルが
運んできたサラダをテーブルに並べながら
静かに返す。
いつもなら、全員が集まり騒がしい食卓も
隣にいつも在る存在が居ないだけで
寂しさが募る二人だった。