テラーノベル
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何度も躊躇って、ようやく押したチャイムに返答はなかった。少し逡巡してから、ドアをノックする。だが、やはり何の反応もない。こんな朝早くからどこかへ出かけているのだろうか。今日は仕事のスケジュールは入っていないはずなのに。何気なくズボンのポケットに突っ込んだ右手の指先に、何か金属のようなものが触れ、かちゃりと音が鳴る。そこに入っていたのは分かっていたはずなのに、俺の心臓は痛いほどに大きく跳ねた。音の正体はこの部屋の鍵だ。以前だったら何の躊躇いもなく、チャイムを押すことすらせずにこの鍵を使って部屋に入っていただろう。しかし今日はそうすることができなかった。あの日、彼と向き合うことを拒んで逃げだした俺にそんな資格はないと分かっている。
こんこん。ノックの音が虚しく響く。もしかしたら居留守かもしれない。とっくに彼は俺のことなんか見捨てていて、またこうして急にふらりと訪ねてきた俺に呆れているのかもしれない。
——だったら部屋の鍵も替えているだろうな。
ふとそんな考えが脳内をよぎる。俺に合鍵を渡したままなんだし。どうせ開かないんだろうから試すだけだ。それでやっぱり鍵が合わなくなっていたら、潔く諦めて、またこれまでのように振る舞おう。そうだ、それがいい。そうすれば俺はもう、涼ちゃんの何気ないまなざしや言葉、振る舞いに変に期待をしないで済むようになるし、これまで通り、いやこれまで以上に「友人らしく」振る舞えるはずだ。俺がちゃんとここで区切りをつければ、涼ちゃんに迷惑をかけることもなくて済むようになる。
俺はもう一度ポケットに手を突っ込み、先ほどの鍵を取り出す。鍵に付いたお揃いのキーホルダーが鍵本体とぶつかってまたかちゃかちゃと音を立てた。俺は小さく息を吐いてから、それをかつてしていたとおりに鍵穴に差し込む。少し手応えがあって、がちゃりと音がした。開いた。彼は鍵を替えていなかったのだ。急に気まずさ、というよりも罪悪感が俺の胸に押し寄せる。どうしよう、開いちゃったんだけど。何で替えてないんだよ、替えとくだろ普通。しかしこうして鍵が開いてしまった以上、もうどうにでもなれというような投げやりな気分になり、思い切ってドアを開ける。
「涼ちゃん、いないの?」
玄関から呼びかけるも返答はない。やはり出かけているらしい。ならば、いま部屋を出て鍵を閉め直してこの場を離れれば、何もなかったことにできる。不在時に勝手に入ってしまったという、下手すれば犯罪ともなりかねない行為を彼に知られることもないわけで。しかし、俺の身体はなぜか頭で考えるようには動いてくれなかった。それどころか、靴を脱ぎ、リビングの方へと歩みを進めていく。久しぶりに入る彼の部屋は少し埃っぽくて、でも、彼の匂いに満ちていてひどく懐かしかった。俺はそのなつかしさに吸い寄せられるようにしてリビングへと続くドアを開けた。
部屋の中は相変わらず散らかっていて、それは俺が出入りしていた頃よりもさらにひどくなっているような気がした。もともと涼ちゃんは片付けがそんなに得意な方ではない。でも俺があんまりにも散らかっていると小言をいうものだから、あの当時は彼なりにできうる限り綺麗にしてくれていたのだといまなら分かる。良く二人で並んで腰かけていたソファには乱雑に洗濯物が積み重なっている。テーブルには使ったままのマグカップが置きっぱなしになっていて、そんなところは相変わらずだな、なんて苦笑してしまう。でも二人で買った観葉植物は枯れるどころかきちんと手入れがされていた。俺が差した液体肥料はとっくになくなっているだろうから、これは彼が新しく用意したものだろう。なぜだか胸が苦しくなり、視界が滲む。この部屋は懐かしいあの頃のままのようで、でも確実に時間は経過している。
俺が最後にこの部屋を訪れたのはもう1年以上前のことだ。日々忙しくなる活動の中で、次第に俺は余裕を失っていった。恋人である涼ちゃんに対する態度にそれは如実に表れた。今思えば俺は彼に甘え切っていたのだと思う。忙しさに募る苛立ち、余裕のなさを俺は彼にぶつけた。些細な言葉、態度、そのひとつひとつが彼を蔑ろにするものになっていった。それなのに彼は怒るどころか、常に俺を気遣って優しい言葉をかけてくれたりして、それがより一層自分の「至らなさ」を眼前に突き付けられるような感じがして、ますます俺は彼に冷たく当たった。
「俺じゃやっぱダメなのかな」
何度目か分からない喧嘩……いや、喧嘩と言っても俺が一方的に彼に不満をぶつけるだけのやり取りの中で、涼ちゃんが寂しそうに、今にも泣きだしそうなのを何とか堪えたような不器用な笑みを浮かべながら、言った。
「俺、ほら、どんくさいしさ。元貴がいらつくの分かるよ。ごめんね」
なんだよ、それ。違うじゃん。悪いのは完全に俺だろ、涼ちゃん何も悪くないじゃん、俺が八つ当たりしてるだけで。本当は分かってるんだよ、でもうまく謝れないんだ、ごめん。だから、お願い、そんな諦めたような顔で俺を、
「ごめん、俺じゃ、元貴を大丈夫にはしてあげられないみたい」
かぁっと頬が熱くなるのが分かった。怒り?悔しさ?恥ずかしさ?たぶんそのどれもが当てはまった。一度でもいい、涼ちゃんが俺を怒ってくれたなら、もしかしたら素直に謝れたかもしれないのに。なんでこんな理不尽を受け入れちゃうんだよ。ううん、違う。彼が俺を大切に思ってくれているから、なるべくすべて受け入れようとしていることを俺は分かってるんだ。それなのに彼を追い詰めて、こんな顔をさせてしまった。自分が、どうしようもないばっかりに。彼を傷付けた。
気が付いたときには、俺は立ち上がって、何も言わずに彼の部屋を飛び出していた。連絡はしなかった。彼からも何も連絡はなかった。2日後に仕事で顔を合わせたとき、彼は何事もなかったように接してくれて、でもそれだけだった。いつもなら仕事終わりに恋人としてかけてくれる言葉はないままに別れて、それが積み重なって、気づけば今ではそれが当たり前になってしまっていた。彼が俺に向けるまなざしはずっとあの頃のままのように見えるけれど、もしかしたら関係の続いていた当時からとっくに恋人としての愛なんてなくなっていて、大切な友人に向けるそれへと変わってしまっていたのかもしれない。そういうわけで、俺たちの関係はいわば「自然消滅」していた。
それなのに今日、俺がこの部屋を訪ねてきたのには自分勝手な理由があったからだった。あの日、何も言わないままにこの部屋を飛び出したあの時から、ずっと俺はどこか自分に戻れないままでいる。誰だって、他人に接するときには多かれ少なかれ自分を取り繕うものだろう。俺も相手によって、相手が望む「大森元貴」像にすり合わせて演じ続けている。それが完全にほどけるのは、自分ひとりになった時……と思っていたのだが、そうとも限らないのだということをこの一年で痛感していた。暗い部屋のドアを開けて、静かな空間の中に身を委ねるとき、そこには安心感と共に孤独も確かに寄り添って来る。その孤独に対して俺は強がってしまう。別に。寂しくなんかないんだけど。「寂しくない自分」を演じることは、誰に求められているはずでもないのに、ただただ自分が疲弊するだけなのに、どうしても俺は素直な「自分」に帰ることができない。涼ちゃんといるときはそんなことなかったのに。彼の部屋に帰ると、不思議と肩の力が抜けて、寂しい時でも寂しいと、口に出して言えていたのに。そこでようやく俺は気づいたのだった。俺はあの場所でしか、彼の側でしか「自分」には帰れないのだと。彼といるときの俺が最も自然体かといえばそれは違う。他の人に対するのと同じように、涼ちゃんが望む「大森元貴」でいようとする側面もある。でも、それがあったとしても、彼の側が最も自分にとって「息のしやすい自分」になれる場所なのだ。
あの日黙って彼を置き去りにした俺を、身勝手な行動を、蔑ろにして傷つけた過去を、簡単に許してもらえるとは思っていない。はっきりと拒絶される覚悟だってしている。それでももし、ほんの少しでもいい、許してもらえる可能性があるなら、もしまた彼にあの頃と同じように「おかえり」と笑いかけてもらえるのだとしたら、俺は一生分の「ごめんね」を彼に差し出そう。もう二度と間違えたりなんてしないように。
俺は祈りを込める様に、そっと観葉植物の葉に触れる。その時、玄関の方で物音がした。
「やばぁ、また鍵閉め忘れじゃん」
暢気な彼の独り言が聞こえてくる。いま「また」って言った?大丈夫かよ。苦笑いが浮かんできつつも、俺の手は緊張で固く握りこまれる。ぱたぱたと近づく足音。彼がリビングの扉を開けるまで、3,2,1……。勢いよく扉が開いた。彼は目を皿のように真ん丸にしてこちらを見つめている。
「玄関に……」
あぁ、そうか。靴があったからそれで気づいたのか。涼ちゃんなら気づかないかもと思ったけどさすがにそこまでではなかったか。俺は用意してきたはずの言うべき言葉を紡ごうと口を開く。でもうまく声は出てきてくれなくて、浅く吸った息に合わせて微かに唇が震えた。
「元貴」
涼ちゃんが俺に呼びかける。いつも変わらないあたたかいまなざし。でもそこにはきらきらと涙が光っていて。
「おかえり」
涼ちゃんの言葉に俺はためらっていた一歩を思わず踏み出した。抱きしめた身体は、あの頃と変わらない大好きな匂いとあたたかさがあって、俺は肩の力がするすると抜けていくのを感じる。
あぁ、ようやく俺は、「帰って」これたのだ。
「ただいま」
***
このお話ではじめましての方は、「気づいてくれてありがとう」
お久しぶりの方は、「覚えていてくれてありがとう」、「ただいま」、ですね
英語の接頭語「re-」は「再び」という意味を付与します
そして、自分はガラケー世代ではないのですが、ガラケーのメールは返信のたび「Re;」がつくのでやり取りが重なっていくと件名に「Re;Re;…」とならんでいったとか?(本当に?)
再開(再会)とお返事の意味を込めて
今後の更新等について、「お知らせ」に記載をしました
特に今後も私の書いたものを読んでくれるという優しい読者の方はご確認いただけますと幸いです
それでは「お知らせ」にてお会いしましょう~
20250901
コメント
14件
いろはさん、おかえりなさい。 待ってました! いろはさんのお話が本当にだいすきです。
わぁぁ、いろはさんっ👀✨ おかえりなさいっっ
本当にお帰りなさい!通知を見た時はしばらく放心状態でしたね笑 いろはさんの文章、、やっぱり大好きです😭 これからも楽しみにしてます!