空が茜色に染まる頃、校舎裏にあるベンチにはふたりの影があった。
ナツギは手に文庫本を持ちながら、ハルトの笑い声にうなずいている。 ハルトは部活帰りのジャージ姿で、アイスを口に放り込んで喋り続けていた。
「でさ! そのとき俺、先生に思いっきり怒鳴られてさぁ!“廊下は走るな!”って!……ナツギ、聞いてる?」
「うん。ちゃんと聞いてるよ」
ナツギは本から目を離さずに言う。けれど、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。 このやりとりは、もう何百回も繰り返してきたもの。 ハルトがくだらない話をして、ナツギが静かに笑う――それが、ふたりの放課後だった。
「……なあ、ナツギって、俺の話つまんないって思ったことある?」
「ないよ。ハルトの話、好きだよ」
即答だった。
ハルトは少し驚いたようにナツギを見て、それからにやけた。
「……なんか、ありがとう。ナツギがそう言ってくれると、嬉しいな」
ナツギはその言葉を胸の奥で何度も繰り返す。 “嬉しい”と言ってくれること。自分を見てくれること。 それが、何よりも――何よりも、大切だった。
ふたりは並んで帰る。通学路を抜けて、川沿いの土手を歩く。 夕陽が水面を照らして、黄金色の世界が広がっていた。
「ナツギって、将来何になりたいとか、あるの?」
「……まだ、わからない。でも、何か……必要とされることがしたいかな」
「ふーん。……俺は、ナツギがそばにいてくれればそれでいいけどな」
ナツギの足が、ぴたりと止まる。 ハルトは気づかず、先を歩いている。 夕焼けに照らされたその背中が、やけに遠く感じた。
「――ナツギ? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。行こう」
ほんの小さな違和感。 けれどその日から、ナツギの中で、何かが音を立てて歪み始めていた。