「らんにぃなんか、だいっきらいっ!」
その叫びと同時に、勢いよくドアが開き、こさめは乱暴に靴を履いて外へ飛び出していった。
残されたらんは、呆然と立ち尽くしていた。
ソファで、ひまなつがいるまの肩に頭を預け、気怠げに笑っている。
「いるま、今日ずっと一緒に寝よ〜」
「……は? まだ昼だろ、バカ」
口ではそう言いながらも、いるまの手は自然とひまなつの裾を握っていた。
ふたりの空気は穏やかで、少し甘い。
そのとき…
――バタンッ‼︎
玄関の扉が大きな音を立てた。
「……何だ?」
いるまは眉をひそめ、反射的にひまなつから身を離す。
ひまなつがゆるく伸びをしながら首を傾げる。
「誰か帰ってきた?」
リビングのドアが勢いよく開かれ、そこに立っていたのは、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうなこさめだった。
「……お、おい、どうした?」
いるまの声に、こさめは唇を震わせた。
そして次の瞬間、堰を切ったように涙をこぼし、勢いよく飛び込む。
「いるまくっ……うわああぁぁぁん……!!!」
胸のあたりに顔を埋め、子どものように大泣きするこさめ。
背中が上下に震え、涙と嗚咽が混ざっている。
驚きながらも、いるまは反射的に腕を回して抱きしめる。
シャツの胸元に、こさめの涙がじんわりと染みていく。
「な、泣くなって……どうしたんだよ、喧嘩でもしたか?」
低く優しい声で言うと、こさめはこくんと頷き、さらに強くしがみついた。
ひまなつがキッチンからそっとティッシュを持ってくる。
「はい、こさめ。とりあえず、こっち座ろ?」
優しく声をかけると、こさめはしゃくり上げながらも、いるまに手を引かれてソファに座った。
しばらくは、すすり泣く音だけが部屋に響いていた。
やがて少し落ち着いてきたのか、こさめは小さな声でぽつりと話し始める。
~回想シーン~
二人きりの空間。
こさめはベッドの上に座り、らんの肩にもたれるようにしていた。
部屋にはテレビの音もなく、ただ時計の秒針の音だけが静かに響く。
「ねぇ、らんにぃ」
こさめが小さく呼びかける。
「ん?」
らんはスマホから目を離して顔を向けた。
その瞬間、こさめは身体を少し乗り出し、らんの唇にそっとキスをした。
一瞬の触れ合い。
らんは驚いたように目を見開くが、何も言わなかった。
こさめは嬉しそうに笑って、もう一度、今度は少し長く唇を重ねた。
――けれど、らんから唇を返すことはなかった。
(……やっぱり、俺からしないとだめなんだ…)
心の奥がひゅっと冷たくなる。
「ねぇ、らんにぃ……」
こさめは不安を隠すように笑いながら、視線を落とした。
「最近、らんにぃから全然キスしてくれないじゃん。俺ばっかり…」
「……そうか?」
らんは気まずそうに頭をかいた。
「してほしいなら、言ってくれればするよ」
「“言ってくれれば”って……」
こさめの笑顔が少しだけ揺れる。
「らんにぃから、したいって思わないの?」
その言葉に、らんは少し視線を逸らした。
どこか考え込むように、黙り込む。
沈黙の時間が流れる。
こさめの胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
「……らんにぃ、俺のこと、そんなに好きじゃない?」
小さな声だった。けれど、その一言に、これまで溜めていた不安が滲んでいた。
「好きじゃないってわけじゃない。まぁ……好きだけど」
らんは曖昧な言葉を選びながら、ぼそりと呟いた。
「“まぁ好きだけど”ってなにそれ」
こさめは唇を噛みしめる。
「じゃあ、なんで手出してくれないの?」
その問いに、らんは言葉を失った。
眉を寄せて、何かを考えるように黙り込み、やがて深く息を吐いた。
「……世間体もあるし、まだ早いだろ」
その言葉は理屈としては正しい。
けれど、こさめの心にはまっすぐ突き刺さった。
「世間体……のほうが大事なんだ」
小さく、でも確かにそう呟いたこさめ。
らんはハッとして顔を上げた。
「ち、違ッ…!そういう意味じゃ――」
けれど、もう遅かった。
こさめの瞳には、涙がじわりと滲み始めていた。
唇が震え、頬が紅潮している。
「らんにぃなんて……だいっきらい!」
その叫びは、抑えていた想いが爆発したように部屋中に響いた。
こさめはそのまま立ち上がり、涙を拭うこともなく玄関へ駆け出していく。
「おい、こさめ――!」
らんの声が追いかけるが、もう返事はなかった。
玄関のドアが乱暴に閉まる音が、静かな部屋に響く。
その音が止んだあと、らんはその場に立ち尽くし、握っていた拳を静かに下ろした。
「……違うんだよ」
独り言のように呟いた声は、空気の中で虚しく消えていった。
「……俺ね、らんにぃに……キスしたの」
「……あぁ」
いるまは頷く。こさめの目は真っ赤で、睫毛にはまだ涙が残っていた。
「でも、らんにぃ……全然してくれなくて。いつも俺からばっかりで」
「うん」
「それで……聞いたの。俺のこと、そんなに好きじゃない?って」
その言葉を言うたび、胸の奥が締めつけられるのだろう。
こさめの声はどんどん小さく、震えていく。
「そしたら……“まぁ好きだけど”って言われた」
「……は?」
いるまの眉がぴくりと動いた。
「“まぁ”ってなんだよそれ」
「それで、なんで手出してくれないの?って聞いたら……“世間体もあるし、まだ早いだろ”って」
こさめは目を伏せ、拳をぎゅっと握る。
「世間体の方が大事なんだ、って言っちゃって……そしたら、もう止まんなくて……」
「らんにぃなんか大嫌いって言って、飛び出してきた……」
言い終えた瞬間、涙がまた溢れた。
こさめは両手で顔を覆い、嗚咽をこらえきれずに泣き出す。
いるまはため息をつき、そっとこさめの肩を引き寄せた。
「……バカだな、お前」
「っ……ひどい……」
「違ぇよ。あいつもお前も、どっちもな」
その言い方はぶっきらぼうだったが、声音は優しい。
「あいつは多分、お前のことちゃんと大事にしてぇだけだ。世間体とか言ってんのは言い訳だろ。 手出したら本気で止まれなくなるから、怖ぇんだと思う」
こさめは顔を上げ、ぐすぐすと鼻をすすった。
「……ほんとに?」
「ほんとだよ。あいつ、お前のこと話すとき、絶対笑ってんぞ」
ひまなつは続けて穏やかに話す。
「……っ」
「だいたい、“まぁ好きだけど”なんて言って、本当は“めちゃくちゃ好き”の裏返しだろ」
そう言って、いるまは苦笑を浮かべた。
ひまなつも微笑みながら、ティッシュをもう一枚差し出す。
「こさめ、泣きすぎて目腫れちゃうよ。ほら、顔拭いて」
「……うん」
こさめは素直に頷き、ティッシュで目元を押さえた。
涙で少しぐしゃぐしゃになった笑顔で、「ありがとう」と小さく呟く。
いるまは頭を軽く撫でて、ぽん、と手を置いた。
「……もうちょい時間経ったら、ちゃんと話してこい。らんも待ってると思うぞ」
「うん……」
まだ鼻声のまま、こさめは頷く。
その様子を見て、ひまなつが小さく笑った。
「ほんと、らんは不器用だな」
柔らかい笑い声が、ようやく部屋に戻ってきた。
泣き疲れたこさめは、ソファの上で小さく丸まって眠っていた。
まぶたにはまだ涙の跡が残り、握りしめた拳が胸の上に置かれている。
いるまはそっと膝をつき、こさめの顔を覗き込んだ。
静かな寝息を確認すると、安堵の息をつく。
「……まったく。泣き虫なのは変わりないか」
そう呟きながら、指先でこさめの髪を優しく撫でた。
手のひらに伝わる温もりが、ようやく落ち着いた時間を感じさせる。
毛布を肩までかけ直し、もう一度頭を撫でる。
その仕草には、兄としての優しさと、どこか誇らしげな想いが混ざっていた。
「……やっぱ、いるまってお兄ちゃんなんだねぇ」
不意に背後から聞こえた声に、いるまは振り返る。
キッチンの入り口にもたれて、ひまなつが穏やかに微笑んでいた。
「何だよ、いきなり」
「いや、なんか久々に見た気がしてさ。 ちゃんと兄貴してる顔」
いるまはむずがゆそうに頭を掻き、
「うるせぇよ」と言いつつ、照れ隠しに目を逸らした。
ひまなつはゆっくりと歩み寄り、いるまの隣に腰を下ろす。
そして、静かに彼の額へ唇を落とした。
「っ……おま、こさめの前でやめろって……!」
慌ててひまなつを見上げるいるま。
しかしひまなつは、軽く笑いながらこさめの寝顔を一瞥する。
「寝てるし、ちょっとくらい良いだろ?」
その声音はいつもよりも優しく、どこか安心に満ちていた。
「……お兄ちゃんしてるいるまも、やっぱりかわいいね」
そう囁くと、もう一度だけ、今度は頬に短いキスを落とす。
「ほんと……お前ってやつは」
いるまは小さくため息をつきながら 呟くが、その声はどこか柔らかかった。
こさめの寝息と、時計の針の音。
静かな夜のリビングには、穏やかな温度が漂っていた。
コメント
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わーん 久しぶりの桃水 最高ですありがとうございます尊死待ったなし勘弁してください т т