「……お前、本当に殺し屋やるつもりか?」
ふいに、問いかけられたのは任務を終えた翌日のことだった。
午後の訓練場。コンクリートむき出しの地下施設。
照明は薄暗く、空気は重苦しい。そんな場所で、栞は一人、射撃練習をしていた。
「……っ、くそ……また外れた」
引き金を引くたびに、わずかに手が震える。
的の中心からは微妙に外れ、隣の的にかすめるほどだ。
「銃は怖いもんだ。それが普通だよ。……だが、命がかかってる時、手が震えるようじゃ死ぬだけだ」
背後から聞こえる低い声。
振り返らずともわかる。翠だ。
「昨日の夜、ずっと考えてたんだ」
栞はつぶやいた。視線はまだ標的の方に向けたまま。
その顔には、少しの決意と、ほんの少しの迷いが浮かんでいた。
「殺し屋なんて、向いてないかもしれない。私、撃てない。……昨日の人たちが死んでるって、頭でわかってても、心が追いつかなくて」
「だったらやめればいい」
即答だった。
思いやりもなければ、慰めでもない。
ただ、淡々とした、事実の提示。
「俺たちは、人を殺すために動いてる。銃を向けて、引き金を引いて、それで何かが終わる。お前が迷ってる間に、お前は殺される。仲間も、死ぬ」
言葉が、心臓に刺さった。
「それでも、お前が“殺し屋”やるって言うなら──俺はお前を鍛える。否応なくな」
栞は、静かに目を伏せた。
「わたし……覚えてないんです。親の顔も、名前も、誕生日も。何も思い出せないまま、施設で育てられて」
ぽつりぽつりと、彼女は語り始めた。
「気づいたら、自分の手は血で汚れてた。……施設の誰かにナイフを突き立ててた。正当防衛だったらしいけど、それ以来、誰も私に近づかなくなった」
「……」
「だから、ここに来た。『人を殺した子は、人を殺すために生きろ』って。ひどい話ですよね。でも、他に居場所がなかった」
やがて、栞は振り返り、翠を見た。
まっすぐな瞳。迷いながらも、確かな光を宿した視線。
「それでも、殺したくないって思ってる。人間らしさを捨てたくない。でも、それと同じくらい、捨てたくない人もいる。……昨日、助けてくれたのに、“助けたくせに”って思っちゃいました」
翠はしばらく無言だった。
鋭い目つきは変わらない。冷めた顔も。
けれど、ほんの一瞬だけ、その表情に揺らぎが見えた気がした。
「……コードネーム0812」
彼はぼそりと呟いた。
「その番号の意味、わかってるか?」
「……?」
「お前が初めて人を殺した日。お前の“誕生日”として、組織がつけたコードだ」
「……っ」
息が詰まった。
忘れていた、というより、知るのが怖くて逃げていた。
「だが、そいつはあくまで“組織が決めた”お前の名だ」
翠は歩み寄ると、栞の手から銃を取った。
そして、真っ直ぐ彼女に突きつけた。
「これを持つってことは、誰かに命を与える代わりに、誰かの命を奪うってことだ。お前にそれができるか?」
「……できないかもしれない」
「だったら、できるまで俺の後ろにいろ。俺の背中に隠れて、見て、学んで、それでも前に出たいと思ったとき、初めて撃て」
そして彼は、栞の手に銃を戻した。
その動作は不思議と、優しかった。
「……ありがとう」
そう呟いた栞に、翠はくるりと背を向けて歩き出す。
「礼なんかいらねえ。お前が死なれたら俺の成績に響くからな」
「……!」
ぷいとそっぽを向きながらも、栞はふっと笑った。
その横顔に、ようやく少しだけ色が戻っていた。
この日、彼女はようやく“コードネーム0812”という名前の意味を、真正面から受け止めた。
そして、同時に気づいてしまったのだ。
無愛想で冷たくて意地悪な男──その中に、一筋だけ差す“優しさ”があることに。
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