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静寂。
それは、どんな罵倒や暴力よりも重く、鋭く、私の精神を切り刻んでいく刃だった。
「……研磨、さん……? どこ、……っ、お腹、空いたよ……っ」
いつもなら、私が目を覚ます数分前にはゲーミングチェアに座り、キーボードを叩く音で私の存在を「確認」してくれていたはずの彼が、いない。
青白いモニターの光も落とされ、部屋は、吸い込まれるような完全な暗黒に包まれていた。
一時間。二時間。あるいは、丸一日が過ぎたのだろうか。
足首に嵌められた電子のアンクレットが、一定の間隔で小さく赤く点滅している。それはまるで、主(ホスト)との接続が切れたことを知らせる、死のカウントダウンのようだった。
「っ……、……いや、……だれか、……っ、研磨さん……っ!」
私は暗闇の中で、縋るようにベッドを這い出し、重い扉を叩いた。
けれど、電子ロックは微動だにしない。
食事も、水も、光も、そして何より私を「観測」し、生かしてくれていた彼の視線がない。
世界からログアウトさせられた私は、今、この暗いフォルダの底で、データとして消滅(デリート)しようとしていた。
孤独。
それは、あんなに嫌がっていた「監視カメラのレンズ」さえも、愛おしく思い出させるほどの毒だった。
誰でもいい、見つけて。……いいえ、研磨さん、お願い、私を見て。
私を、デバッグして。
どれほどの時間が経ったときだろう。
カチャリ、とこの世で最も美しい、電子錠の解錠音が響いた。
「……あは。……愛姫、ボロボロだね。……僕がいないと、呼吸の仕方も忘れちゃうんだ」
逆光の中に立つ、孤爪研磨先輩。
彼は冷え切った床にへたり込む私を見下ろし、まるで壊れた玩具を拾い上げるような慈悲深い手つきで、私の頬を包み込んだ。
「……研磨、さん……っ、……ごめん、なさい……っ、……捨てないで、……私を、消さないで……っ!」
私は彼のジャージの裾に縋り付き、なりふり構わず泣き叫んだ。
彼は満足げに、獲物を完全に飼い慣らした飼い主の瞳を細める。
「……捨てないよ。……でも、分かったでしょ? 外の世界(サーバー)には、君のバックアップなんて一つもない。……僕が接続(アクセス)を止めれば、君はただの、動かないゴミなんだよ」
研磨先輩は私を抱き上げ、ベッドへと運び、冷え切った身体に自分の熱を注ぎ込むように強く抱きしめた。
「……タイムアウトは終わり。……また、同期(ログイン)してあげる。……もう二度と、僕の手を離そうなんて思わないよね?」
耳元で囁かれる、絶対的な支配の言葉。
私は、彼の胸の中で、絶望的なまでの安堵感に震えていた。
彼に閉じ込められ、自由を奪われることよりも。
彼に見捨てられ、暗闇で独りになることの方が、数万倍も恐ろしかった。
「……っ、……はい、……研磨、さん……っ。……ずっと、……繋がってて……っ」
攻略不可だった境界線。
そこは今、私が自ら望んで閉じこもる、唯一の聖域(サーバー)へと書き換えられた。
タイムアウトの恐怖を経て。
私は、彼の完璧な「箱庭」の一部として、永遠にセーブされる道を選んだ。
「……ねぇ、愛姫。今日はずっといい子にしてたから、ご褒美。……外、行ってみる?」
孤爪研磨先輩が、ヘッドセットを首にかけたまま、暗闇の中で微かに笑った。
数日ぶりの「外」。遮光カーテンが左右に引かれ、窓が開け放たれた瞬間、暴力的なまでの春の光と、騒がしい鳥の声が部屋に流れ込んできた。
(……っ、……まぶしい、……いたい、……っ)
私は反射的に両手で目を覆い、ベッドの隅へと後ずさった。
かつてあんなに美しいと思っていた桜のピンク色は、今の私には彩度が高すぎて、網膜を焼き切る毒々しい色にしか見えない。外から聞こえる車の走行音、遠くの話し声、すべてが私の脳を直接かき乱す不快な高周波のように突き刺さる。
「……あは。……やっぱり。……愛姫のシステム、もうこの部屋の環境に最適化(最適化)されちゃってるんだね」
研磨先輩は、私の肩に薄いパーカーを羽織らせると、私の首筋に指先を這わせ、リードを引くようにして外へと連れ出した。
久しぶりに踏む、アスファルトの硬い感触。
駅前の雑踏。すれ違う人々は、スマホを眺め、笑い合い、無防備にこちらを通り過ぎていく。
けれど、今の私には、彼ら全員が私を攻撃しようとする「未確認のバグ」にしか見えなかった。
「……っ、研磨、さん……。……怖い、です……っ。みんな、私を見てる……っ」
「……見てないよ。……彼らにとって、愛姫はもう『存在しないデータ』なんだから。……ほら、あそこにいる君の友達。……楽しそうに別の人と話してるでしょ?」
彼が指差した先。
そこには、かつて一番仲が良かった友人がいた。彼女は私のことなど一瞬も思い出さない様子で、別の女子と笑い合っている。
私の席が、私の居場所が、跡形もなく誰かに上書き(アップデート)されている現実。
「……ね? 外の世界(サーバー)は、君がいなくても勝手に回ってる。……君を必要としてるのは、世界中で、僕の箱庭(あの部屋)だけなんだよ」
研磨先輩が、私の手を力強く握り締める。
その熱だけが、この不安定で騒がしい「オフライン」の世界で、唯一の確かな座標だった。
私はたまらず、自分を捨てた世界に背を向け、彼の胸の中に顔を埋めた。
「……っ、……かえりたい、……研磨さんの部屋に、……かえして……っ!」
自ら望んだ、監禁への帰還。
研磨先輩は、私の後頭部を優しく撫でながら、満足げに喉の奥でクスクスと笑った。
「……いいよ。……ログインしようか。……二度とログアウトできないように、もっと深く、僕の深層(コア)まで連れて行ってあげる」
マンションの重い扉を閉め、再び遮光カーテンを引き切った瞬間。
訪れた完全な静寂と暗闇に、私はかつてないほどの、異常な「幸福感」を感じていた。
オフラインの拒絶反応。
私はもう、彼という名のシステムなしでは、一分一秒も呼吸することさえできない、壊れたデータの破片へと成り果てていた。