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第一話 スターリングラード、
十字架を握る夜スターリングラードの夜は、音が死ぬ。
銃声も、怒号も、凍りついた空気に吸い込まれていく。
残るのは、歯の根が合わない音と、自分がまだ生きていると確かめるための呼吸だけだ。
俺は銃よりも、胸元の十字架を強く握っていた。
理由はない。寒さで指の感覚が消えかけていたし、何かを握っていないと、意識まで凍りつきそうだった。
近代戦争じゃ、鉛が物を言う。
祈りだの符だのは、博物館のガラスケース行きだ。
昔は魔法陣で風向きを変え、火の矢を飛ばした?
そんな話、今じゃ酒の席でも笑われる。
「……今日は、久しぶりに目を閉じたら終わりそうな夜だな」
隣の男が、塹壕の壁にもたれながら言った。
前線で知り合った兵士だ。名前も知らない。
だが、こうして暇な時だけは、なぜか話しかけてくる。
「この寒さで寝たら、永遠にお眠りだろ」
皮肉を返す。
それが、俺たちのいつもの会話だった。
男は小さく笑い、声を落とす。
「なあ……噂、聞いたか?」
嫌な予感がした。
前線で噂話が出るとき、それはたいてい“当たる”。
「ナチの連中、とんでもないことしてるらしい」
「収容所か?」
即座にそう返した。
この戦争で“とんでもない”と言えば、それ以外にない。
「いや……もっと手前だ。
戦況そのものを変える兵器を作ってるって話だ」
冗談だろ、と言いかけた瞬間――
合図が走った。
前方。
闇の向こうで、雪が弾ける。
「来るぞ!」
銃口を上げる。
ナチからの突撃だ。砲撃なしの突撃?
しかし、その時は考える暇もなかった。
考える前に引き金を引く。
反動が肩を打ち、薬莢が音を立てて転がる。
一発、二発。標的の影が雪に崩れ落ちるが、すぐに次の影が立ち上がる。
視界が狭く、雪煙が目をくらます。息が白く凍り、指先が引き金を引くたびに痛む。
だが、数が多すぎた。
ナチの兵士が、雪煙を上げて迫ってくる。
距離が詰まる。
撃ち切る前に――
瓦礫の塹壕に、侵入された。
だが、そこで俺は違和感を覚えた。
連中は、俺たちを見ていなかった。
目が合わない。
敵意も、殺気もない。
彼らの目は、後方を――自分たちの来た方向を、恐れに満ちて振り返っていた。
「逃げろ」
ロシア語だった。
確かに、ナチの兵士がそう叫んだ。
多くのナチ兵が瓦礫の塹壕を越え、前線背後へ逃げ込もうとする中、数人をその場で取り押さえた。
直後、前線後方と市街後方では銃音と怒号が飛び交った。
しかし、命令は聞こえない。
この戦場では、わざわざ自ら火の中に飛び込む者はいなかった。
前線の銃声はすでに止んでおり、俺たちはただ命令を待つだけだった。
拘束されたナチ兵たちは、抵抗しなかった。
暴れもせず、ただ、後方を見つめていた。
一人は震え、一人は何かを祈るように呟き、一人は首を横に振り続けている。
その呟きはドイツ語で、「来る……奴らが来る」と繰り返していた。
「何に怯えている」
誰かが問いかけたが、答えはなかった。
静けさが戻る。
前線後方の銃声も消え、風の音だけが残った。
時間が、進まない。
数十分後――
無数の人影が、雪原の向こうから近づいてくる。
歩く者。走る者。小走りの者。
這いつくばりながら、それでも前に進む者。
足音が、雪を踏みしめる不規則なリズムで響き始める。
それは軍隊の行進ではなく、飢えた獣の群れのような、ばらばらの渇望だった。
「……なんだ、あれは」
瓦礫の塹壕へ飛び込んだ収容服を着た男の一人が、近くの兵士を噛んだ。
牙が肉に食い込み、血が噴き出す。
悲鳴は短かったが、喉を掻きむしるような絶望的な響きだった。
噛まれた兵士の目は驚愕に開かれ、腕を振り回すが、既に遅い。
血が雪に滴り、赤く染まる。
捕まっていたナチ兵が、突然、拘束を引きちぎった。
誰も反応できなかった。
寒さのせいじゃない。
あまりにも、動きが人間離れしていた。
縄が千切れる音が響き、彼の目は狂ったような決意に満ちていた。
そいつは俺の銃を奪い取ると、躊躇なく引き金を引いた。
噛みついた“それ”の胸に穴が開き、同時に、噛まれた兵士の頭部が弾けた。
脳漿が飛び散り、血が噴き、地面に飛び散った物から湯気が立つ。
迷いはなかった。
まるで、もう何度も見てきた光景のように。
彼の指は震えていなかった――経験がそうさせたのか、絶望がそうさせたのか。
次の瞬間、そのナチ兵は背後から撃たれた。
処刑。
誰も文句を言わなかった。
弾丸が胸を貫き、血が口から溢れる。
倒れる体が、雪に沈む。
だが――
倒れたはずの“それ”が、起き上がった。
折れた脚を引きずり、潰れた顔を歪め、弾丸で開いた胸を晒したまま。
虚ろな目が、俺たちを捉える。
それは飢えだった。
純粋な、終わらない飢え。
悲鳴が、遅れて上がる。
そして気づく。
瓦礫の塹壕の外、闇の中に、立っている。
収容服を着た人間たち。
数は、数えられない。
雪原を埋め尽くすほどの群れ。
彼らの体は痩せ細り、収容所の苦難を物語るように、皮膚が骨に張り付き、傷跡が無数に刻まれている。
だが、動きは止まらない。
転んでも、這ってでも、前へ。
虚ろな目。焦点が合っていない。
生きているのか、死んでいるのか――誰にも判断できなかった。
誰も引き金を引けない。
それは哀れみからか、ただの恐怖か。
前線後方では、ナチとソ連兵が入り乱れていた。
逃げ込んできたナチ兵。
撤退してくるソ連兵。
命令は、もう届いていない。
発砲できない。
武器を持たない彼らを撃てる兵士はいなかった。
しかし、その迷いを、“それ”は逃さなかった。
一人の兵士が接触を試みる。
それは近づいた兵士に覆いかぶさり、離さない。
数人が同時に群がる。
噛みつく。引き裂く。
牙が首筋に食い込み、動脈が破れる。
血が噴水のように噴き出し、周りの雪を赤く染める。
兵士の指が空を掻き、銃が落ちる。
群がる“それ”たちは、肉を貪り、骨を砕く。
咀嚼の音が、夜の静けさを破る。
一匹が顔を上げ、血まみれの口でうなる。
叫び声は、すぐに肉の音に変わった。
誰かが発砲した。
命中しても一瞬体を震わせるだけ。
続け様に発砲しても、その進行は止まらない。
あちこちで兵士が噛みつかれて倒れ、その上に無数の“それ”が群がる。
圧倒的な数。
圧倒的な暴力。
前線が崩れ、雪と血と肉片が混ざる。
一人のソ連兵が銃を乱射し、数匹を倒すが、すぐに囲まれ、腕を引きちぎられる。
悲鳴が喉を裂くように響き、やがて止む。
ようやく、撤退命令が出た。
命令がなければ、俺たちソ連兵は簡単には下がれない。
「前線後方へ!下がれ!」
俺たちは前線背後を通り、倒れている無数のナチ兵を横目に市街後方へ向かった。
だが、そこも地獄だった。
市街後方は、即席の野戦拠点だった。
スターリングラードの廃墟に寄せ集められた、崩れた建物の残骸を壁代わりにした掘っ立て小屋のようなもの。
空気は腐った肉と消毒薬の臭いで淀み、地面は凍てついた泥と血の混合物で滑る。
負傷兵がずらりと並べられ、担架の上や地面に直接転がされている。
一人は脚を失い、粗末な包帯が血で黒く染まっている。
もう一人は腹部に砲弾の破片が刺さったまま、うわ言のように家族の名を呼んでいる。
医療班は人手不足で、医者は一人か二人しかおらず、看護兵は疲弊しきった顔で、わずかなモルヒネを分け与えようと奔走する。
補給兵は空の弾薬箱を積み上げ、食料は黒パンと凍ったスープだけ。
飢餓が常態化し、兵士たちの目は落ち窪み、頰はこけている――
誰もが知っているはずの戦争の現実が、ここにあった。
そこへ、前線の俺たちと捕虜となったナチ兵が雪崩れ込んだ。
血まみれの兵士。
銃を失った兵士。
正気を失った兵士。
そして、前線後方と市街後方に、多くのナチ兵も大勢混ざっていた。
最初は、銃口が向けられた。
「フリッツ!」と遠くで誰かが叫び、引き金に指をかける。
だが、ためらいが生まれていた。
ナチ兵たちの顔は青ざめ、目は虚ろ。
彼らは武器を捨て、両手を挙げ、後ろを振り返りながら怯えていた。
一人はコートの下から血が滴り、凍傷で黒くなった指を震わせている。
もう一人はヘルメットを失い、雪で白くなった髪を掻きむしる。
彼らもまた、スターリングラードの犠牲者だった。
「……撃つな」
誰かが言った。
理由は単純だった。
撃つべき相手が、別にいる。
収容服の人間たちが、後方にも現れ始めていた。
歩く。転ぶ。起き上がる。
撃たれても、倒れても、止まらない。
一匹が銃弾を受け、胸に穴が開くが、よろめきながら前進。
血が滴るが、痛みを感じない様子。
群れが廃墟の隙間から湧き出し、壁をよじ登る。
この時、初めて全員が理解した。
国籍は、関係ない。
ナチも、ソ連も、同じ方向に銃を向けた。
それが、共闘の始まりだった。
言葉はない。
合図もない。
ただ、同じものを撃つ。
弾が尽きる。
一人のソ連兵がマガジンを交換し、連続射撃。
“それ”の頭が次々と弾け、雪に倒れるが、すぐに次のものが迫る。
ナチ兵が手榴弾を投げ、爆発が群れを吹き飛ばす。
肉片が飛び散り、煙が上がるが、生き残ったものが這って近づく。
刃物を使う。
銃剣で刺し、首を切り裂く。
血が噴き、腸がこぼれ落ちるが、”それ”は倒れない。
シャベルで殴る。
頭蓋骨が砕ける音が響き、脳が飛び出す。
一人のナチ兵が”それ”に取りつかれ、肩を噛まれる。
悲鳴を上げ、シャベルで自らの腕を叩き切ろうとするが、遅い。
ナチ兵が背中を預け、ソ連兵が正面を撃つ。
「右だ!」とロシア語で叫び、ナチがドイツ語で「左!」と応じる。
一時的な信頼が生まれ、銃弾が交錯する。
だが、群れは減らない。
廃墟の影から、次々と現れる。
中には、この街の市民の姿もちらほらと。
疲労が兵士たちを蝕み、息が上がる。
誰も信じていない。
だが、疑っている暇もない。
「……終わらないぞ、これ」
誰かが呟いた。
汗が凍り、視界がぼやける。
噛まれた兵士たちは、医務室へ運ばれた。
医務室と言っても、廃墟の地下室を急ごしらえで使っただけ。
灯りはランプ一つ、影が長く伸び、壁には血痕がこびりついている。
負傷兵のうめき声が絶えず、消毒液の匂いが鼻を突く。
感染という言葉は、まだ誰も使っていない。
治療。消毒。包帯。
武装したソ連兵とナチ兵が、同じ部屋に立っていた。
銃を下ろさない。
だが、撃たない。
視線だけが、患者を追っている。
数時間。
誰も眠らない。
誰も座らない。
時間は、ゆっくりと溶けるように進む。
外の風が建物を叩き、雪が屋根を積もらせる音が、唯一の時を刻むものだ。
最初は、静かだった。
噛まれた兵士の一人が、うなされ始める。
汗を浮かべ、息が荒くなる。
「熱が出てる」と医者が呟き、額に手を当てる。
だが、脈は不規則で、目は徐々に焦点を失う。
隣の担架では、もう一人が震え始め、歯をガチガチと鳴らす。
寒さのせいか、それとも……誰も口にしない。
やがて、最初の異変。
一人の兵士が、担架から転げ落ちる。
起き上がろうとするが、力が入らず、這うように動く。
「助けてくれ」と呟く声が、徐々にうなり声に変わり、指が痙攣する。
部屋の空気が、重くなる。
ナチ兵の指だけが、銃の引き金に近づく。
次の異変は、ゆっくりと広がる。
噛まれた兵士が、包帯を自ら引き剥がす。
傷口は黒く変色し、膿が滲む。
「痒い……焼けるように」と訴え、爪で掻きむしる。
血が飛び散り、周りの兵士が後ずさる。
ナチ兵の一人が、ドイツ語で呟く。
「彼は…もう助からない……」
ナチ兵たちは、すでに何かを察しているようだった。
だが、撃てない。
ましてや、相手はついさっきまで敵だったソ連兵だ。
ジリジリと、部屋の緊張が高まる。
誰も話さない。
視線だけが交錯する。
外から、断続的な銃声が聞こえ始める――前線後方が崩れている証拠だ。
補給兵が慌てて入ってきて、弾薬の不足を報告するが、誰も聞いていない。
全員の目が、担架に向いている。
一人のナチ兵が、静かに銃を構え、囁く。
「動いたら撃つ」
だが、誰を撃つのか――味方か、敵か。
そして――最初の悲鳴。
担架の上の兵士が、突然、跳ね起きた。
喉を鳴らし、目を見開き、一番近くにいた医療兵に噛みつく。
牙が首に食い込み、肉が引き裂かれる。
血が噴き、医療兵の目が恐怖に歪む。
「ぐあっ!」
短い叫びが上がり、体が痙攣する。
撃つ。
遅い。
銃弾が変貌した兵士の肩を抉るが、止まらない。
さらに噛みつき、腸を引っ張り出す。
噛まれた医療兵が、崩れ落ちる。
その数分後、そいつも起き上がった。
皮膚が灰色に変わり、目が白く濁る。
うなりながら、次の標的に向かう。
噛み傷の負傷で運ばれたソ連兵とナチ兵は、次々と起き上がる。
もう、誰も叫ばなかった。
医務室は地獄になった。
逃げる者。
撃つ者。
噛まれる者。
感染は、ゆっくりと、しかし確実に広がる。
一人が噛まれ、人によっては数分後に変貌。
変貌した者がまた一人を襲う。
部屋の隅で、ナチ兵とソ連兵が背中合わせに立って抵抗するが、スペースが狭く、銃弾が味方を巻き込む。
一発の銃声が響き、誤射で味方の頭が弾ける。
「くそっ!」と叫びが上がり、パニックが増す。
外へ逃げようとする者を、“それ”が追いかける。
市街後方の内部崩壊は目前だった。
部屋は血の海になり、足元が滑る。
前線で戦う者も、後方で守るべき同士も負傷者も、“それ”で溢れかえっていた。
囲まれた抵抗者が、銃を口にくわえ、自決する音が戦場に響く。
俺たちが今戦っている前線と、背後にある後方は、完全に崩壊しかけていた。
前線も、後方も、区別が消えかけていた。
両者の戦争が、同時に壊れた。
俺は無我夢中に、市街後方、ヴォルガ川の向こうを目指して逃げた。
だが――
噛まれた。
腕だった。
痛みは、すぐに消えた。
その直後、砲弾が降り注いだ。
敵も、味方も、
俺も。
すべてが、ただの肉へと帰ってゆく。
視界が白くなる。
音が遠ざかる。
最後に、
俺はもう一度、十字架を握った。
なぜか、それだけは離せなかった。