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倉庫を出てしばらく歩くと、空気が少し変わる。街の中心から離れた分だけ人の密度が薄まり、雑踏に溶けていた音が一枚ずつ剥がされ、足音が自分のものだとはっきり分かる程度に周囲が静かになる。
昼の光はまだ十分に強いはずなのに、建物の影が重なり合うこの区画では色味が鈍く、世界全体が少しだけ現実感を失っているように見えた。
スロスは歩調を一定に保ったまま、意識の半分を外に、半分を内側に向ける。頭の中では帰宅後の段取りが淡々と整理されていく。家に戻ったら何を持ち出すか。
神秘を通したナイフは予備も含めて数本、投擲用の軽量刃、特殊な固定具、再生後すぐに装備できるようまとめてあるセット。使い慣れたもの、使う可能性の高いもの、そして「使わざるを得なくなった時」のためのもの。
全部を倉庫に置く必要はないが、長期戦を考えるなら分散は避けたい。倉庫は安全だが、完全ではない。あそこは拠点であって聖域ではない。だからこそ、置く物と手元に残す物を分ける必要がある。その判断を誤れば、生き延びる確率は目に見えて下がる。
考えを巡らせながら路地へ差し掛かった瞬間、視界の端にわずかな歪みが走る。音ではない。影でもない。もっと根源的な違和感。誰かがいる。気配は薄いが、消えてはいない。いや、正確には「あるはずの濃度で存在していない」。
スロスは足を止めず、そのまま数歩進んでからようやく声を投げる。声色は低く、無駄な感情を削ぎ落としたものだった。
「……尾けるなら、もう少し上手くやれ。」
返事は即座に返ってきた。距離も方向も、こちらが把握している前提で放たれる低く落ち着いた声。
「警戒心が強いな。まあ、さっきのを見ていれば当然か。」
その声と同時に、影が一歩前に滲む。現れたのは背の高いイカボーイだった。体格は細身だが無駄がなく、立ち姿だけで鍛えられているのが分かる。顔はカジキマスクに覆われ、素顔は一切見えない。目元すら隠されているはずなのに、視線だけは確かにこちらを捉えている感覚がある。
スロスは歩みを止め、無意識のうちに相手との距離を測る。近すぎず、遠すぎず。互いに踏み込めば戦闘に移行できる間合いだが、今のところ手は出ない。出す理由がない。
「誰だ…?」
短く投げた問いに、男は肩をすくめるような、曖昧な気配の揺れだけを返す。そして次の瞬間、スロスははっきりと違和感を自覚する。気配が、揺らいだ。あるはずのチーター特有の存在感が、ふっと薄くなり、まるで風に吹き消されたように消える。だが完全に消失したわけではない。
数拍遅れて、今度は別の位置から微かに戻ってくる。定まらない。固定されない。存在しているのに、輪郭が掴めない。その感覚に、スロスの目がわずかに見開かれる。チーターであれば、気配で分かる。能力の種類はともかく、歪んだ存在としての重みは隠しきれないはずだ。
だが目の前の男のオーラは、揺らぎ、欠け、時にはまるで最初から存在していなかったかのように静まる。
「……?」
喉の奥で、ほとんど音にならない疑問が生まれる。その様子を察したのか、男は低く名乗った。
「クロウと呼ばれているが……。どっちで呼んでくれても構わない。クロウでもリクスでも。」
本名をあっさり口にするその態度に、スロスは眉をひそめる。警戒が一段階引き上げられるが、同時に奇妙な納得もあった。計算の匂いが強い。意図的に情報を渡し、こちらの反応を測っている。
その間にも、クロウの気配は安定しない。揺らぎ、薄れ、また戻る。その不自然さが、スロスの中に小さく、しかし確かな警鐘を鳴らす。
「俺はどちらにも肩入れしない。能力を振るって英雄になる気もないし、誰かの正義の道具になるつもりもない。」
クロウの低い声は淡々としていて、誇張も虚勢も感じられない。言葉そのものに嘘は混じっていないと、スロスの感覚が告げていた。だが、真実であることと信用できることは別だ。スロスは一歩だけ距離を詰める。殺気は乗せない。ただ、逃げ道と踏み込みの角度を同時に確かめるための前進だ。
それ以上は近づかない。クロウの気配が、また微かに揺らぐ。ある瞬間には確かにチーター特有の歪みを放ちながら、次の瞬間には一般のイカボーイと変わらないほどに薄れる。その不安定さが、確信へと変わる。
「……チーターか。」
スロスの声は低く、断定的だった。クロウは否定もしなければ肯定もしない。ただ沈黙が一拍落ち、その間に気配が一度、完全に消える。そして、すぐ隣に戻ってくるような錯覚を与える。
「じゃあ何の用?」
問いは二重の意味を含んでいた。用件と意図、その両方を測るための言葉だ。クロウはそれを理解した上で、両手を軽く上げる仕草をする。挑発でも降伏でもない、ただの線引き。
「もちろん。ここで刃を交える理由はない。俺はただ……お前がどこへ向かうのか、少し興味があっただけだ。」
スロスは視線を逸らし、街灯の切れ目を見る。昼の名残の光が届かないそこは、影が溜まりやすく、足音も吸い込まれる。
「家だ。荷物を取りに帰る。それだけだ。」
一歩、また一歩と歩き出しかけたところで、ふと足が止まる。背後の気配が再び揺らいだ瞬間、確信が裏付けられた。やはりこいつはチーターだ。ただし、これまで見てきたどの種類とも違う。
「……何のチーターだ?」
問いは短く、飾り気がない。クロウは少しだけ首を傾ける。カジキマスクの角度が変わっただけなのに、視線の圧が増したように感じられる。
「答える必要はない。」
即答だった。拒絶は明確だが、そこに敵意はない。その一言と同時に、気配がふっと遠ざかる。まるで話題そのものを遮断するかのように。スロスはそれ以上追及しない。今ここで掘り下げても意味はないと、本能が告げていた。クロウが一歩下がり、距離を保ったまま言葉を続ける。
「選んだんだな。狩る側として生きる道を。」
その声音には評価も非難もなく、ただ事実を並べるような冷静さがあった。スロスは立ち止まらず、低く返す。
「選んだんじゃない。必要だっただけ。」
言葉の端に感情を滲ませることはしない。必要だった。それ以上でも以下でもない。一瞬の沈黙が落ちる。路地の奥で風が鳴り、遠くの街の雑音がかすかに戻ってくる。クロウはそれ以上踏み込まない。境界線を理解した者の距離感で、ただ静かに告げる。
「なら邪魔はしない。中立は中立だ。お前が何を倉庫に持ち込もうと、何を捨てようと、俺は口を出さない。」
その言葉に、条件も裏も感じられない。ただし、保証もない。スロスは一度だけ顎を引き、返事の代わりに歩き出す。振り返らない。背後の気配が、揺らぎながら徐々に薄れていくのを感じる。完全に消えたわけではない。必要とあらば、また現れるだろう。
その予感だけを胸の隅に残しながら、スロスは家へ向かう道を進む。頭の中では武器の整理が再開されていたが、その隙間に、クロウという存在の輪郭が、消えきらずに引っかかり続けていた。
家の扉を開けた瞬間、外界との接続が断ち切られる感覚が走った。街のざわめき、遠くで鳴る金属音、人の気配、それらがすべて一枚の扉の向こう側に押し戻され、室内には人工的に作られた静寂だけが残る。
スロスは一歩踏み込み、鍵を掛ける動作すら惰性で済ませる。ここは安息の場所ではない。眠るための家ではなく、存在を維持するための拠点だ。床に足音を響かせないよう歩きながら、視線だけで室内を確認する。壁、天井、家具の配置。異常はない。侵入の痕跡もない。問題なし。キッチンに立ち、棚を開ける。乾燥した保存食が数袋、水が数本。
イカとして生きるなら少なすぎる量だが、自分にとっては十分すぎるほどだ。この体は消耗品だ。限界が来れば捨て、小指から再構築すればいい。その事実が、食事という行為の優先度を極端に下げている。食べるのは必要だからで、楽しむためではない。棚を閉め、地下への扉に手を掛ける。開いた瞬間、空気が変わる。温度が下がり、埃と金属、紙の匂いが混ざり合った、慣れ親しんだ空気が肺に流れ込む。階段を下りるにつれて、頭の中が戦闘用の思考へと切り替わっていく。
地下室は整理されているが、無機質ではない。壁一面に並ぶラック、番号の振られた箱、書き込みだらけの資料、仮説と検証の途中で止まったメモ、チェックがついている本とついていない大量の本。すべてが過去の戦いと観察の蓄積だ。スロスは迷いなく動き始める。神秘を通したナイフを一本ずつ手に取り、刃の状態を確認し、バッグに収める。予備を含めて数本。投擲用の軽量刃、指先で回転を確かめる。
再生直後でも即座に装備できるようまとめられたセット。長期戦を想定した構成だが、すべてを持ち歩くわけにはいかない。倉庫に置く分と、常に身につける分を自然と分ける。集中は強さを生むが、依存は弱さになる。その境界を越えないよう、何度も経験が教えてきた。
作業の合間、ふと動きが止まる。クロウの気配が脳裏に蘇る。揺らぐオーラ、存在が確定しきらない違和感。チーターであることは間違いない。それなのに、何の能力かを掴ませない余白。
「答える必要はない。」
そう言い切った声。中立を名乗るその姿勢。信用できるかどうかは別だが、少なくとも自分を道具として使おうとする種類ではない。危険だが、理解可能な危険。次に浮かぶのはアッシュだ。触れただけで消える力を、秩序の掃除だと呼び、淘汰だと正当化した歪んだ正義。虚ろだった目に宿った熱。
あれは信念というより、自己防衛だったのかもしれない。自分は違うと言い切れるのか。狩る理由を「必要だった」と表現した時点で、どこまで同じなのか。思考を振り払うように、資料の箱を開ける。過去のチーター事例、能力分類、再生や灰化に関する考察。倉庫に置いておけば、不正者狩りの誰かが使うかもしれない。自分が前に出なくても、知識は武器になる。必要な分だけを選び、バッグに詰める。
地下室を一度見渡し、異常がないことを確認して扉を閉める。再び地上へ。家を出る頃には、頭の中は整理されていた。夜の道を歩きながら、言葉が何度も反復する。中立、正義、必要、不正者狩り。どれも完全ではなく、どれも曖昧だ。それでも今は、それで動くしかない。
倉庫が見えてくる。無機質な扉の前で立ち止まり、バッグの重さを確かめる。一瞬だけ息を整え、取っ手に手を掛ける。押し開けると、軋む音と共に拠点の空気が流れ込み、スロスは迷いなく中へ足を踏み入れた。
夜が完全に街を覆い、倉庫の外壁を打つ風の音が昼とは別物の低さに変わった頃、内部の照明が自動的に切り替わり、白に近かった光が少しだけ橙を帯びる。その変化は微細だが、時間が進んだ事を身体より先に空間が知らせてくる。不正者狩りの拠点として使われているこの倉庫は、生活感を極力削ぎ落とした構造をしているが、それでも夜になるとイカが集まっている場所だという空気が滲み出る。
エルクスはキッチンと呼ぶには簡素な調理スペースに立ち、袖を軽く捲りながら無駄のない手つきで火を入れる。フライパンが温まる音、油が広がる音、刻まれた食材が触れ合う乾いた音が、広い倉庫の天井に反響し、静寂をゆっくりと満たしていく。スロスは少し離れた位置で、壁に背を預けながらナイフを一本ずつ取り出し、刃の状態と神秘の通りを確認していた。金属の冷たさが指先に伝わるたび、昼の戦闘の記憶が微かに蘇るが、表情には出ない。ただ、調理の匂いが空気に混じった瞬間、手の動きがほんの一瞬だけ遅れる。
空腹という感覚はほとんどない。この体は食事を必須としない。それでも匂いは記憶と結びつき、意識の端を掠める。エルクスは振り返らず、しかしスロスの気配の変化を見逃さずに言う。
「スロスも今日は食っとけ。消耗は見えない所に出るそ。」
淡々とした声で、説得でも命令でもない。事実を並べただけの言葉だった。スロスは数秒沈黙し、ナイフを布で包んで脇に置く。
「量は要らない。」
それだけ答え、用意された簡易テーブルの前に腰を下ろす。皿に盛られた料理は派手さはないが、必要な栄養を計算したものだと一目で分かる。一口分を口に運び、噛み締める。味を評価するというより、体がどう反応するかを確かめるような仕草だった。
「うまい…。」
「そりゃ良かった。」
エルクスは満足したのかそれ以上触れない。食事が進むにつれ、倉庫の緊張は少しずつ緩み、昼間に張り詰めていた空気が夜用の静けさへと移行していく。
食後、風呂の準備が整えられる。配管を通る水の音が低く響き、やがて湯気が立ち上る。スロスは湯に身を沈め、再生した体の感覚を内側から確認する。皮膚も筋も完全だが、灰化された瞬間の違和感だけが、消えない残響のように骨の奥に残っている。湯の温度がそれを薄め、思考を少しずつ緩めていく。風呂から上がる頃には、倉庫内の照明はさらに落とされ、各自が寝る準備に入っていた。簡易ベッドが並び、布が擦れる音や小さな足音が交錯する。スロスは横になる事はせず、壁際に座ったまま周囲を見渡す。エルクスが近づき、声を潜めて言う。
「ここでは無理に役を演じなくていいからな。起きていられるなら夜は頼むぞ。」
スロスは視線だけで返事をする。
「寝ない。必要もない。」
短い会話の後、倉庫は次第に静まり返り、呼吸音が一定のリズムを刻み始める。完全な夜の中で、スロスだけが目を閉じず、今日聞いた言葉や見た光景を静かに反芻していた。アッシュの正義、クロウの中立、不正者狩りという集団。その全てを距離を保ったまま眺めながら、影のように夜を見張り続ける。その姿は眠らない存在として、倉庫の闇に溶け込みながら確かにそこにあった。
深い地下。光源の位置が定まらない空間で、壁とも天井とも判別しにくい黒い構造体が静かに脈打っている。機械音でも心音でもない、不規則で緩慢な振動が空間全体に染み込み、そこに身を置く者の感覚を内側から狂わせる。
その中心に座す存在、ボスは目を閉じたまま僅かに指を動かした。次の瞬間、何かが途切れた感触が伝わる。糸が焼き切れるような、しかし焦げる匂いも音もない断絶。
「……消えたか。」
低く、抑揚のない声。アッシュと繋がっていた生体反応が、完全に途絶えた事を理解するまでに時間は要らなかった。想定内だが、結果としては最悪に近い。能力の反応域、神秘の干渉値、その全てが途中で断ち切られている。
「神秘で能力をガード出来る、か。」
小さく舌打ちに似た呼気が漏れる。
「本当に、めんどい連中だ。」
アッシュの灰化は触れた瞬間に終わるはずだった。それを正面から耐え、貫通するという発想自体が歪んでいる。神秘という概念を武装として扱う者達の存在は、計画のテンポを確実に狂わせる要因だった。
ボスは視線を横に滑らせる。そこには影のように佇む人影がある。カジキマスクを被った長身のイカボーイ。クロウ、あるいはリクスと呼ばれる存在だ。
「神秘の制御を受けにくい奴はこの中にいるのは当然だがな。そんな小細工で死ぬ事はないが……私とクロウと…No.2はどうだろうか…。」
クロウは肩を竦めるだけで肯定も否定もしない。
「制御されない、というより……干渉されにくい、が正しい。」
淡々とした声。ボスはそれを特に訂正せず、さらに奥へと視線を向ける。もう一つの影がそこにいた。空間に溶け込むように立ち、存在感だけが異様に濃い。
「No.2よ。」
呼びかけに、影が一歩前に出る。
「お前の能力は、神秘で制御されるか?」
間を置かない質問。No.2は一拍だけ沈黙し、次いで整った敬語で答える。ただしその敬語には落ち着きつつも禍々しい雰囲気が隠れている。
「おそらく…。しかし、関係ありません。もし制御されても、神秘が尽きるまで戦える持久力があるのは貴方様もご存知でしょう……。長期戦にはなりますが…問題は全くありません…。」
ボスは小さく息を吐く。それが笑いなのか苛立ちなのかは分からない。
「……そうか。」
アッシュの件が脳裏を掠める。出すのが早すぎた。育成も観測も不十分なまま、舞台に上げてしまった。その結果がこれだ。
「反省点だな。あれは駒としては未完成だった。私の能力をも突破できた可能性があったのにな…。」
失敗を悔いる色はない。ただ事実として処理しているだけだ。だが計画そのものは止まらない。むしろ、状況は次の段階へ進んだと見るべきだろう。ボスは指先で空間をなぞる。そこに新たな反応が、微かに、しかし確実に芽吹き始めている。
「まあいい。また別の駒を用意すればいいだけだ。」
声が低く、深く沈む。
「アッシュとは違う。より適応が早く、神秘への抵抗も高い。」
閉じられた右の部屋で、新たなチーターの存在がまだ名も与えられぬまま、静かに準備を始めていた。ここで一つの章は終わる。しかし歪みは消えない。次の波が、すでに動き出している。
話の掛け合いが終わると同時にクロウは思った。
(ハイドがいれば楽にあいつを殺れたんだがな…。)
リクス(クロウ)
イカボーイ。
身長は高く、声は低い。
カジキマスクを付けており、素顔は見えない。
馴れ馴れしいわけではないが、言葉一つ一つにその人の内側を探ろうと言う意図が見える。
ハイドをアジトに案内した張本人。
「クロウ」はアジト内で呼ばれている名で、本名ではない。ちなみに本名は「リクス」らしい。
本人曰く自分は「中立の立場」である。自分はあくまで、私利私欲で能力を使ったり、使われて支配される事はないという。
ボスへの忠誠は一切誓っていない。尊敬も信頼もしていない。他のチーターとも一切関与しない。
チーターである事はスロスが確認したが、何のチーターかはまだわからない。また、チーター特有の気配が他のチーターとは少し違う。