テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
数日後、社長視察の日がやってきた。
「第1営業部のみなさんは社内規則に則って、顧客第一の姿勢が見て取れます。これからもその精神で営業活動に邁進してください」
菱一証券の社長が、静丘支社の視察へとやってきた。
各フロアを見て回り、気になったことがあれば社員に直接声をかける。
テレビで見るような遠い存在ではなく、気さくに社員と話をする方だった。
第1営業部での接待は、奈良課長と朝倉くん、そして私だ。
今、ちょうどこの部の視察が終わり、社長からのお言葉を聞いているところだった。
私は社長を間近で見るのは初めてだった。
白髪混じりの髪は短くカットされ、清潔感にあふれている。六十代だが背筋はまっすぐで、すっとしたスタイルを保っていた。
その隙のない身なりからは、仕事に対する神経質さのようなものも感じられる。
コンプラガバナンスを徹底させることに注力する姿勢が、なんとなく腑に落ちた。
「では、次は第2営業部を見て回ろう」
「はい。こちらです」
奈良課長が頭を下げ、私たちは社長を先導してエレベーターへ向かった。
第2営業部のある上階へ上がり、廊下を進んでいく。
そこでは2課の山田課長と、雨森龍彦が接待者として待ち構えていた。
「社長、お待ちしておりました」
山田課長が深々と頭を下げる。
龍彦もその隣で、いつものように人当たりのいい笑顔を浮かべていた。
その時だった。
視察の時間に合わせるように、掃除員の後藤さんが清掃ワゴンを押しながらやってきた。
「あら……」
私は思わず足を止めた。
不思議なことに、社長が後藤さんへちらりと目配せをする。
後藤さんは、それに軽くうなずいた。
そして清掃ワゴンを廊下の端へ寄せると、何事もなかったかのように社長の横へ並び立った。
その行動を見た龍彦が、わずかに眉を寄せる。
「社長の視察中ですので、掃除員の方は掃けてください」
龍彦なりに丁寧な言い回しを選んだのだろう。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、社長の目が、一気に鋭くなった。
「もしかして、君が雨森龍彦くんかね」
龍彦は、社長からフルネームで呼ばれたことが嬉しかったのか、一気に表情を明るくした。
「はい! 私が雨森龍彦でございます! 名前を覚えていただき光栄です!」
これから褒めてもらえると期待しているのだろう。
目を潤ませた表情は、まるで主人に名前を呼んでもらった子どものようだった。
私も朝倉くんも、黙ってその様子を見ていた。
「覚えてしまったよ」
社長は、にこりともせずに龍彦を見つめる。
「君は、コンプラガバナンスの意識が欠如している社員だからね」
「……はい?」
龍彦の眉がぴくりと跳ね上がった。
期待していた言葉とは、まったく違ったのだろう。
社長はそのまま、後藤さんへ視線を移した。
「雨森くんは、この方を知っているかな」
「掃除員、ですけど?」
やはり、龍彦から後藤さんの名前が出てくるはずもなかった。
社長は呆れたように、長いため息をついた。
「普段から君は、挨拶もしないようだから知らなかったんだね」
「え……」
龍彦の笑顔が引きつる。
社長は後藤さんへ顔を向けた。
「後藤さん。自己紹介をしなさい」
「はい」
まるで事前に打ち合わせをしていたかのように、後藤さんは迷うことなく頷いた。
「私は、本社総務部付けの社員、後藤佳代子です! 現在は各支社を回って、清掃推進員として働いています!」
「社員……」
その言葉を聞いた瞬間、龍彦の頬が引き攣った。
後藤さんが社員なら、話は変わってくる。
先日の廊下での出来事も、ただの清掃員とのトラブルでは済まなくなる。
「社員……でしたか。いつもご丁寧にお掃除していただき、ありがとうございます」
龍彦は急に腰を低くし、何度も頭を下げ始めた。
けれど、後藤さんの表情は険しいままだった。
「何を今さらっ!」
龍彦の身体がびくりと跳ねる。
「あの時、私は骨折したかと思うくらい痛かったのよ! 助けもしないで放置するなんて、ありえないわ!」
後藤さんが怒りを露わにすると、その声を聞いた社員たちが何事かと廊下へ集まり始めた。
一人、また一人とギャラリーが増えていく。
龍彦は横目でそれを確認し、頬を引きつらせた。
「えーっと……身に覚えがないもので……。人違いです……」
先日の出来事を忘れるはずもない。
それでも龍彦は、手を額に当てたり、首を傾げたりしながら、身振りをどんどん大袈裟にしていく。
(誤魔化しのサインだ)
私はすぐにわかった。
「雨森くんは覚えていないのかね。私はその当日に報告を受けたが?」
社長がギロリと厳しい視線を送る。
「えーっと……ここはたくさんの従業員がいます。私と似た体形の方もたくさんいますし……」
龍彦の視線が泳ぐ。
社長の顔をまともに見ることができなくなり、その額には小さな汗が浮かんでいた。
とんでもない状況になる。
龍彦自身も、ようやくそれを察したのだろう。
ここであの件を持ち出されたら、内定している人事部への異動もキャンセルになるかもしれない。
その時だった。
朝倉くんが、すっと前へ出た。
「雨森さん。廊下でぶつかって倒れた後藤さんを、助けることもなく去っていきましたよね」
「……!」
龍彦の額に一瞬で青筋が立った。
奥歯を噛み締めるように、声を絞り出す。
「朝倉っ……」
けれど、朝倉くんは一歩も引かなかった。
「僕も瞳子さんも、見ていました。あの時のことをおっしゃっているんですよ。後藤社長は」
朝倉くんは、あえて社長の名前を強調した。
「……え?」
龍彦が一拍遅れて顔を跳ね上げる。
「後藤社長……と、後藤さん……」
震える指先で、後藤さんを指す。
「もしかして……」
龍彦の頭の中で、すべてがつながったようだった。
社長と後藤さんは、さらに厳しい視線を龍彦へ向ける。
そして。
「私たちは、夫婦なのだよ」
「「「「え────」」」」
廊下にいた社員たちが、一斉に驚きの声を上げた。
私も、思わず目を見開いてしまった。
その中で、ただ一人。
朝倉くんだけが、まったく表情を変えていなかった。
(……やっぱり)
私は朝倉くんの横顔を見つめる。
(彼は、このことを知っていたのね)
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12