テラーノベル
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紅色の薔薇
LINEのIDが、
短い文字列で送られてきた。
迷いは、
もうなかった。
追加する。
それだけの動作なのに、
指先が少し熱い。
画面が切り替わる。
表示されたアイコンに、
一瞬、目が止まった。
鮮やかに咲く、
一輪の薔薇。
作り物じゃない色。
加工されていない紅色。
家族写真でもない。
子どもの姿もない。
どこかの公園や、
日常を切り取った風景でもない。
それを見て、
なぜか胸の奥が、
少しだけ緩んだ。
理由を考える前に、
もう分かってしまっていた。
彼女は、
ここに「生活」を
持ち込んでいない。
少なくとも、
今は。
トーク画面を開く。
入力欄が、
妙に白い。
考えすぎると、
送れなくなる。
だから、
余計な言葉は削った。
――大和です。
――届いてますか?
それだけ。
送信。
画面が戻る。
既読は、
つかない。
すぐには、
つかない。
でも。
これは、
確実に踏み出した一歩だった。
アプリで知り合った女性と、
LINEを交換している。
妻がいる。
子どもがいる。
それを知ったまま、
高揚している自分がいる。
最低だ。
そう思う。
思うのに。
やめたいとは、
思っていない。
憎たらしい。
鏡を見なくても、
分かる。
今の自分は、
どこか、
自分じゃない。
誠実な夫でも、
慎重な父でもない。
ただ、
誰かの声を待っている男だ。
返信を待つ時間が、
やけに長く感じる。
時計を見る。
また見る。
既読は、
まだ。
それでも、
胸の奥は、
妙に静かだった。
引き返す道は、
もう見ていない。
見えないふりじゃない。
見ないと、
決めている。
これは、
地獄への入口だ。
分かっている。
それでも、
大和は、
画面を閉じなかった。
薔薇の紅色が、
瞼の裏に残る。
暗く、鮮やかに、
堕ちていく思考を染める色。
それが罪だと、
もう分かっている。
微かな棘の感触だけが、
確かにそこにあった。
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