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「そ、そっか。それは……おめでとう」
「ありがとう。ねえ、慧君。この前、電話で全然話せなかったけど、北海道に行くって本当?」
ずっと気になってたことだった。
「……北海道。行くよ」
「本当に行っちゃうの?」
「うん。あの電話の時は、何か上手く話せなくなって、慌てて嘘を言って切ってしまったんだ。ごめん」
「そうだったんだね……ううん、気にしないで」
「雫ちゃんの好きな人は榊社長なんだろうって、そう思った瞬間、頭が真っ白になった。情けないけど、今も結婚って聞いて、ちょっとキツい。いろいろダメなんだ、俺。全然、雫ちゃんのこと忘れられなくて……だから……」
慧君は、とてもつらそうな顔をした。
私まで苦しくなる。
「俺は北海道に行く。雫ちゃんにフラれて決断した。感謝しなきゃいけないくらいだよ、煮え切らない自分の背中を押してもらったんだから」
「そんな……」
「ごめん。イヤミじゃないよ、もちろん。本当に感謝してるんだ。北海道にも今は本心から行きたいって思ってるしね。いっぱい酪農のこととか、小麦のこととか勉強して、東堂製粉所を大きくしたい。たくさんの人に知ってもらって、うちの小麦粉を使えば何でも美味しくなるって、みんなに言ってもらいたいんだ。その夢、絶対叶えたいから」
慧君の顔が笑顔になって、私はすごくホッとした。
素敵な夢……
大きくて、とても優しい夢だと思った。
「慧君のこと、北海道に行ってもずっと応援してる。あんこさんやお店のみんなと一緒に」
「ありがとう。いろいろ準備を終えて、2ヶ月後くらいには行こうと思ってる。父さんはまだ迷ってるみたいだけど。雫ちゃん、これからも東堂製粉所をよろしく頼みます」
「もちろんだよ。『杏』には東堂製粉所の小麦粉が絶対に必要だから」
慧君は穏やかに微笑んだ、そして……言った。
「あのさ……」
少し黙る。
「ん? どうかした?」
「俺は、向こうで成長して、仕事もできて、人に信頼されるような人間になりたいと思ってる。いつになるかわからないけど……そうなれた時に、もう一度雫ちゃんに告白したいと思ってる」
「えっ?」
「……なんてね。そんなバカなことは言えないけど、でも、今、ただ1つだけお願いがある」
「お願い……?」
切なげな表情を浮かべてうなづく慧君。
そんな慧君から、私は視線を外せなかった。
そうやってお互い見つめ合ったまま数秒が過ぎ……
「ねえ、どうするの?」
たまらずそう言った瞬間、慧君はいきなりギュッと私を抱きしめた。
体が強く締め付けられる。
慧君……
そこからしばらくの間、2人の時間が止まった。
普段の優しい慧君とは違って、男の強さやたくましさを感じた。
熱く激しい情が私の心にダイレクトに伝わってくる。
改めて慧君の想いに触れ、どうしようもなく胸が熱くなった。
「ほんの少しだけ。そしたら……俺、北海道に行っても頑張れるから。たとえ雫ちゃんがいなくても……この温もり……絶対に忘れない」
声……震えてる。
きっと、泣いてる……
そんな慧君に、かける言葉が見つからなくてすごく切なくなった。
私は、こんなにも自分を大切に想ってくれてるこの人のことを、突き放すことはできなかった。
私の中には祐誠さんがいる。
他の男性を男として好きだと思うことはない。
だけど、ずっと励ましてくれた仲間としての深い友情みたいな感覚は……やっぱり失いたくないって思った。
「ごめん、こんなことして。ルール違反だよな」
私は首を横に振った。
そんな私に向けて、慧君は言葉を続けた。
「北海道に行っても、ずっと想ってる。勝手に想ってるだけだから気にしないで。俺、絶対に雫ちゃんのこと忘れない。とにかく、あと2ヶ月。最後までこっちで頑張るから、よろしく」
慧君は私から離れ、微笑みを残し、帰っていった。
「最後だなんて……言わないでよ」
慧君の背中を見ながら、私は小さな声でつぶやいた。
きっと、慧君はここで私を待っていてくれたんだろう。
うぬぼれかも知れないけど、そんな気がしてならなかった。
その想いに応えることはできないけど、それでも今日、ちゃんと話せて良かった。
北海道はすごく遠い。
だけど、慧君の夢が叶うのは……
そんなに遠い未来じゃないと、私は心の底から信じたかった。