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(確か時也さんの部屋は⋯
私が居た部屋から右に二つ目⋯⋯)
レイチェルは意識朦朧で
ふらつく時也を支えながら
夫婦の自室の前に立った。
だが、其処には⋯⋯
『ヘタレはまだ入るな』
ソーレンの文字であろう。
雑に書かれた張り紙が
乱暴に貼りつけられていた。
「⋯⋯⋯⋯」
レイチェルは、思わず唇を噛んだ。
(きっと、アリアさんは⋯⋯
まだ、あの惨たらしい姿のままで
回復を待っているのかもしれない)
そう思うと
自然と喉が詰まるような感覚がした。
時也は
目を閉じたまま
微かに唇を震わせている。
「⋯⋯⋯アリアさん」
うわ言のように
掠れた声が漏れた。
(⋯⋯この人は、こんなに辛いのに
それでもアリアさんの事ばかり⋯⋯)
張り紙の前で
立ち尽くしている時間も
惜しかった。
彼には
少しでも早く
休んでもらわなければならない。
だが⋯⋯
(どの部屋を使えば⋯⋯)
昨日来たばかりのレイチェルには
他の部屋の使用状況など
分からなかった。
どうするべきか逡巡していたが
結局の所
一番確実な方法は
自分の部屋に寝かせることだった。
「行きましょう⋯⋯時也さん」
レイチェルは時也の腕を引き
自室へと連れて行った。
小さなベッドに時也の身体を横たえ
乱れた着物の裾を軽く直す。
「⋯⋯アリア⋯さん⋯⋯」
また、同じ言葉が漏れる。
時也の頬は蒼白で
汗に濡れ、呼吸も浅い。
「⋯⋯早く、アリアさんに
逢いたいですね⋯⋯」
レイチェルはそう小さく呟くと
そっとシーツを時也の肩まで掛けた。
その場を離れ
部屋の扉を静かに閉める。
再び階下に降りると
リビングから妙な音が聞こえてきた。
「おい!ジッとしてろっての!」
聞き覚えのある不機嫌な声。
リビングに足を踏み入れると
ソーレンが青龍の身体を
雑にタオルで拭いている場面に出くわした。
青龍は
まるで濡れた犬のように
頭から爪先まで乱暴に拭かれ
身を捩ってはソーレンに抗っていた。
「い、痛い!止めんか!
私は貴様の手など借りぬとも
身体を吹けるっ!」
「濡れたまんま
時也んとこに行くだろ、お前っ!
床が水滴で汚れんだよ!!」
まるで兄弟喧嘩のようなやり取りに
レイチェルの肩の力が少しだけ抜けた。
⋯⋯が
その直ぐ近くに目を移した瞬間
また張り詰めた空気に引き戻される。
転生者の男が
ぐったりとした様子で
椅子に縛られていた。
全身が洗い流されたのだろう。
髪は濡れて乱れ
シャツのボタンは掛け違えてチグハグと
雑に着替えさせられた服が
まとわされている。
(⋯⋯私の時は
きっと青龍が身体を拭いてくれたんだ)
少しだけ安堵する。
あの時
自分が目覚めた時には
青龍が自分の側にいてくれた。
そう思うと
この光景を見ていて
妙に青龍へ感謝の念が
湧き上がってきていた。
「ヘタレの世話を 任せちまって
すまなかったな」
突然、投げ掛けられたその声に
レイチェルは顔を上げた。
ソーレンが
まだ濡れた青龍の身体を雑に拭きながら
レイチェルに視線を向けていた。
「⋯⋯いえ、そんな」
思わず苦笑いを浮かべた
レイチェルの耳に
慌ただしい青龍の声が飛び込んできた。
「申し訳ありません、レイチェル様!
直ぐに私が時也様の所へ
参りますので……っ!」
青龍は
濡れた髪を跳ねさせながら
立ち上がろうとしたが
その小さな頭を
ソーレンが無造作に押さえつけた。
「おめぇは
先ずは身体を乾かしてからだ!」
「なっ、貴様⋯⋯!」
青龍がキッと睨みつけるが
ソーレンは全く意に介さず
片手で青龍の頭を押さえつけながら
タオルで容赦なく
ガシガシと頭を拭いていく。
「さっきも言ったろうが!
濡れたまんま歩かれちゃ
また俺の仕事が増えんだよ!」
「貴様はつくづく無礼な男だな!
雑に私を拭くな!
皮膚が剥がれるだろう!」
「お前の皮膚は
もう充分剥がれてるだろ」
「なんだとっ!?」
言い合いを続ける二人の様子に
レイチェルは思わず小さく笑った。
(パッと見だけは
まるで世話焼きのお兄ちゃんと
負けん気の強い弟みたいだな⋯⋯)
ふと、そんな思いが浮かんだ。
「私、厨房で仕込みの
続きをしてきますね!」
そう声を掛け
レイチェルが
リビングを出ようとした瞬間。
「おい!」
ソーレンが
ぶっきらぼうに呼び止めた。
「アリアの席には行くなよ?
まだ掃除終わってねぇんだ」
レイチェルは立ち止まり、振り返る。
「⋯⋯分かりましたっ」
(根っこは、優しいんだな……)
その言い方は不器用で
やや乱暴ではあったが
それでも確かに
〝気遣い〟が感じられた。
「じゃあ
時也さんが汚してしまった方は
私が掃除しておきますね」
「⋯⋯おう。サンキューな! 助かるよ」
ソーレンの声が
背中越しに響いた。
「⋯⋯っ!」
レイチェルの胸が
ぎゅっと締めつけられるように
温かくなった。
ーありがとうー
そのたった一言が
こんなにも胸に沁みるものだとは
思わなかった。
(⋯⋯まるで、家族ができたみたい)
そんな感情が
じわりと胸の奥に広がっていった。