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「……若ー、朝ですよー。今日から高校やったでしょう?はよ起きな…」
「あと、あと5分だけ…」
「あんた優等生で行くんちゃいますの?入学初日に遅刻なんて、そんなん目付けられるに決まってますわ」
「…………」
気だるい体に鞭打って、ゆっくりと上体を起こす。開かれた襖から降る、太陽の光は久しぶりに顔へ浴びた気がした。そうして、未だ船を漕ぎかけている思考を泊めるように、何度か瞬きを繰り返す。そうしているうちに船は泊まり、段々と意識がハッキリしてきた。庭から見える桜の大木は、まだ花をつけていないようだった。”阪”と呼ばれる世話役のうちの1人は、早々と片付けを終え、後は菊の使っていた布団を片すのみ、となったようだ。退けろ、と言ったような視線を感じたので、僅かな名残惜しさを振り切って暖かな布団から足を抜き取り、体を伸ばすように立ち上がる。ぐう、と背伸びをすれば、一気に目が覚めたような気がした。
とりあえず朝食を取ろうと縁側へ足を踏み入れれば、ふと声をかけられる。
「若、お早うございます。朝食は既に出来ていますからね。あぁ、あとお父上がお呼びでしたぜ」
”東”と呼ばれる、またしても己の世話役の一人だ。パキッとしたスーツと爽やかにまとめられた髪は、一切に”その気”を感じさせないが、彼の、後ろに手を組んで背を伸ばすその姿は気を一気に 醸し出す様だった。
「そうですか…今、どちらに居ますか?」
「おそらく、大広間じゃないですか?若と朝飯を取りたがっていた気がしますから」
「はぁ……わかりました。…できるだけ急ぎます」
ぺこりと軽く頭を下げ感謝して、東の横をするりと通り抜ける。極道の頭であるのに、少し……いや、かなり心配性で子煩悩な己の肉親を思い浮かべ、微かに頭を抱えた。
大広間へ近づくにつれ、段々と増えていく構成員達へ軽く会釈をし、その横をスタスタと歩いていく。時々彼らから渡される書類や、親戚から預かっていた入学祝いなどを受け取りつつ、歩みを進めた。
そして、特段に目立つ加工のされた襖の前で足を止めた。この意匠には、いつも感嘆を漏らさずにはいられない。丁寧に切られた木枠には、欠けず模様が掘られている。名のある職人に作ってもらったのだろう。右端にある菊の模様は、新聞で見た事のある独特なものだった。
入る前に少しばかり身なりを整え、そしてから両脇に立っている構成員の片方へ声をかける。
「組長、若が来られました。開けても宜しいですか?」
「おお、来たか。構わん、開けなさい」
そうして、開けたソコにいたのはたった1人だけ。この組の頭であり、己の実父だ。大広間の最奥に鎮座している男の近くには、食事が2人分用意されていた。おそらく私の分と彼の分だろう。丁寧に織られた羽織りを、背後にいた幹部によってゆっくりと脱がされる。別に1人で脱げますけどね……。少しの羞恥を感じながら、「ありがとうございます」と小声で零せば彼女はにこりと微笑む。そして襖の向こうへ消えてしまった。
…本当に二人きりだ。このまま立っていても何も起こらないので、とりあえず腹を満たしたい、という思いのまま父親の近くへ寄った。
「おはよう、よく眠れたか?」
「…えぇ、はい。ご丁寧にも、寝室に香を焚いていただきましたから」
「はは、気に入ったか?あれは香の中でもとっておきの1級品だが、お前が気に入ったのならまた買ってもいい」
2つの盆を向かい合うようにして長机へ置き、片方の座布団へと菊は腰を下ろした。そうすれば、問いながら男も向かいへと腰を下ろす。何時も(商談時)の癖で、胸の前で手を合わせ父親からの声を待つが、その声は聞こえてこない。「……食べないのですか?」と尋ねれば、「いい」と言って男はにやりと笑った。その笑顔に微かに背筋を震わせながら、一人で始めを呟いた。
「…高校では部活は何に入るつもりだ?」
箸を手に取り、副菜を口に入れるところで父親からそう声がかかった。あまり行儀は良くないと思うが、箸は降ろさぬまま口を開く。
「そうですね、今のところは弓道でしょうか。それか剣道でもいいですが……」
「そうか、なら武具を一新しなければな」
「必要ありませんそんなこと。……毎年、買い換えているでしょう?」
そう言って、父親は襖の向こうにいる幹部へと声をかけようとするので、思わず大きな声を上げてしまった。「……すみません」と謝罪を口にするが、目の前の男は一切気にしていないように首を振った。
「お前にはいつも迷惑をかけてしまっているから、こういうことでしか返せんのだ。」
「そんな、迷惑なんて……」
「ほれ、早く食わないと遅れるぞ。いいのか」
言い返そうとした途端、そう急かされ、それが正論なので返す言葉も見つからず、持っていた箸を口元へ動かすことしか出来なかった。依然、向かいから感じる視線は無視して菊はゆっくりと口を動かした。
「では、行ってまいります」
「あぁ、何かあったらすぐ言いなさい。俺が何とかしてやる」
「…そんな物騒なこと言わないでください」
はは、と男は大口を開けて笑い、隣に立っている幹部へと声をかけた。
「送迎は頼んだ。もし事故でも起こしたらその時は……分かってるな?」
「承知しています。必ずや若の安全は保証いたします」
「ならいい」
と、言って彼は踵を返し、家へと帰っていった。その後、はあとため息をつきながら眉間を何度か幹部が揉むので、「…申し訳ないです」と菊が声をかければ、途端に表情を変えて焦ったように手を振った。困ったように彼は「大丈夫ですから」と笑い、黒塗りの車のドアを開けた。後ろにいた阪のエスコートを受けながら、菊も車に乗り込む。清潔に保たれた高級車の背もたれへ、軽く体重を預けドア付近に立っている阪へ目を向ける。そうすれば、ふいに手がこちらへ伸び、菊の横髪をサラリと撫でた。
「…何か?」
「寝癖がついてましたんで、失敬」
「……あなたなら、構いません」
言っておきながら少し気恥ずかしくなって、運転手へ「車、出してください」と声をかけた。上の方から聞こえてくる小さな笑い声に、不満を零しながら足を組んだ。少ししてドアがゆっくりと閉まる。それと同時に車の始動音がした。速度を早めながら過ぎていく、よく見慣れた塀にぼうっと目を向けながら、新たな生活へ密かに思いを馳せた。