スマホから聞こえるアラーム音がやけに頭に響いた。布団から手を出してアラームを止め、時間を確認すると午前七時。今日は授業があるため、早く着替えなければ。しかし、布団から出ようとすると異様に身体が重く感じる。頭も喉も痛いし咳も出ている。もしかして風邪を引いてしまったのだろうか。
「……薬飲んでおけば大丈夫か」
あまり食欲も無かったので冷蔵庫に入っていたゼリーだけで朝食を済ませ、風邪薬を飲む。薬って苦いから苦手なんだよなぁ。
制服に着替え、周りに移さないようにマスクを付ける。そして部屋を出ようとドアノブに手をかけると、ほんの一瞬だけ頭がふらつく。
「ん〜?寝惚けてるのかな?」
どこか変だと感じつつも、あまり深く考えずに私は寮を出て教室へと向かった。
─✻─✻─✻─✻─✻─✻─
薬を飲んだから大丈夫だろう、という考えはどうやら甘かったようで。時間が経つにつれどんどん頭痛が酷くなっていた。おまけに教室は暖房が付いていて暖かいのにもかかわらず、先程から寒気が止まらない。
(これはガチでヤバいやつか…?)
この後は体術訓練があるが、この状態で参加するのは厳しいだろう。ぶっ倒れる予感しかしない。家入さんの所に行って休んだ方がいいな。保健室に行こうと席を立つと、心配そうな顔をした棘くんが私の顔を覗き込んでくる。
「…明太子?」
「……大丈夫じゃない、かも。ちょっとしんどい…」
「高菜、いくら」
「…うん、先生には保健室にいるって言っといて」
「しゃけ」
一緒に行こうかと言う棘くんに大丈夫だと伝え、私は一人で教室を出る。頭痛が酷い上に身体が重く、歩くのですらしんどかったが、何とか保健室に辿り着く。家入さんに事情を話し、ベッドを借りて横になる。呼吸がしづらかったため、マスクを外して息を吸うと、冷たい空気が喉を通った。
頭が痛い。咳が出て苦しい。寒い。だんだんと音が遠くなる。「あ、やばいかも」と思った瞬間、私の意識は途切れた。
✻side 棘
体調が悪いからと保健室に行った彼女の様子を見に行こうと、体術訓練が終わった後に真っ直ぐ保健室へと向かう。扉を開け中に入ると、硝子さんが何か書類を見ながらコーヒーを飲んでいた。
「どうした。怪我でもしたか」
「おかか」
彼女の様子を見に来たことを伝えると、「そこのベッドで寝てるよ」と言われる。カーテンを開け、ベッドに横たわる彼女を見る。ちょうど目が覚めたところだったのか彼女と目が合う。こちらを見る彼女の目は、心做しか焦点が合っていないように見えた。
「明太子?」
「…とげくん?ふふ、とげくんだ」
ほんのりと赤い顔をし、いつもより若干幼い声で俺の名前を呼び手を伸ばしてくる彼女。その姿を可愛いなと感じつつも、いつもと違う様子に首を傾げる。彼女の額に手を当てると、かなり熱い。熱があるのか。硝子さんにそのことを伝えて熱を測ってもらう。
「三十八度六分か、そりゃ頭も痛くなる。今日はもう寮に戻れ。狗巻は看病を頼む。五条には私から言っておこう」
硝子さんにそう言われ、ベッドから起き上がる彼女。しかし身体に力が入らないのか立ち上がろうにもすぐに床に座り込んでしまう。自分が抱えて連れて行った方がいいだろうと彼女の背中と膝の裏に手を伸ばそうとすると、彼女に手を掴まれる。
「ツナマヨ?」
「……おんぶがいい」
珍しく我儘を言う彼女に、思わず笑みがこぼれる。普段からもっと我儘言ってくれてもいいのに、なかなか言ってくれないんだよな。バレンタインの時は言ってくれたけど。背中に彼女をおぶさると、ぎゅうっと抱きつかれる。熱のせいか「棘くん力持ちだねぇ」とふわふわした喋り方をする彼女。可愛いなぁと思うが、それよりも。
(………胸、当たってんだけど)
彼女からの我儘が嬉しくてあまり深く考えずにおんぶしてしまったが、かなり密着しているせいで背中に柔らかいものが当たっている。昂る気持ちを落ち着けようと深呼吸をすると、ニヤニヤと笑う硝子さんと目が合う。
「気持ちは分かるが我慢、な?」
「………」
言われなくても分かってるんだけど。さすがに病人を押し倒そうとは思わない。たぶん。…彼女が煽るようなことをしなければ。
語尾にハートが付いてそうなほど甘い声で俺の名前を呼ぶ彼女を背負い、悶々としながら彼女の部屋へと向かう。部屋に入り、ベッドの上に座らせて硝子さんに貰った熱冷まシートを額に貼ってあげると、「つめたい、きもちいい…」と言ってふにゃりと笑う彼女。普段しない笑い方なだけになかなかクるものがある。
(これ、耐えられるかな……)
この数十分後に、俺はこれがまだマシであったと知ることになる。
✻
自分がジャージのままだったことに気が付き、急いで更衣室にある制服を取りに行く。部屋に戻ると、俺に言われた通りに部屋着に着替えた彼女が、クッションを抱いてベッドの上にちょこんと座っていた。
「とげくん、おかえり」
「……しゃけ」
あまりの可愛さにニヤけそうになるのを何とか堪えながら、制服を床に置く。チラリと時計を確認すると正午を少し過ぎた頃。彼女にお腹は空いていないか、何か食べれそうか聞くと、「ん」と小さく頷かれる。キッチンを借りて玉子がゆを作る。すると、もう少しで完成というところで不意に後ろからぎゅっと抱きつかれる。
「たか、な…?」
「…ひとりやだ」
そう呟くと、俺の背中にグリグリと頭を押し付けてくる彼女。俺の彼女がこんなにも可愛い。それに熱が出ると甘えたになるタイプなのか。いいこと知ったな。
もう出来たことを伝え、鍋を持って部屋に戻る。俺の服の裾を掴みながら付いてくる彼女はまるで幼い子供のようだった。ローテーブルに鍋を置き、その前に彼女を座らせる。レンゲで少なめに粥を掬い、少し冷ましてから口元に運ぶと「あ」と小さく口を開けて食べる彼女。食べさせるのは初めてじゃないけど、なんか、これは。
(餌付けみたい…)
もぐもぐと食べる姿が可愛い。あと彼女に食べさせるのがちょっとだけ楽しい。半分ほど食べたところでもう十分だと首を横に振る彼女。じゃあ次はこっち、と水の入ったコップと硝子さんから渡された風邪薬を渡すが、やんわりと拒絶される。
「くすりにがい、から…やだ」
「おかか。いくら、すじこ」
「うぅ〜……」
以前、風邪を引いた悟も似たようなことを言っていたなぁと思い出す。甘党の人は薬が苦手なのだろうか。でも、飲まないと治るものも治らない。ここは心を鬼にして飲んでもらわねば。
「いくら」
「やだ」
「おかか。いくら」
「…やだ」
「い・く・ら」
「……とげくんのいじわる」
ほんのりと頬を赤く染め、涙目で上目遣いをしながらこっちを見てもダメです。可愛いけどダメです。あとそれ風邪引いてない時にやって。
頭を撫でながら「ほら」と薬を差し出すと、渋々口に入れ水を飲む。ごくん、と飲み込んだ後に「にがい…」と呟きながら舌を出す彼女。キスしたくなるのでやめろください。こっちはめちゃくちゃ我慢してるんだからな。しかし、そんな俺の気持ちなどお構い無しに、彼女は俺の足の上に跨り抱きついてくる。所謂、対面座位というやつ。そして彼女はこてん、と首を傾げながらこう言った。
「にがいのやだからちゅーして?」
「!?」
「だめ?」
「……しゃ、…………………………おかか」
(あっっっっぶな!!!オッケーしかけた!!!!)
熱のせいとは言え、赤い顔で蕩けた目をしながらそういうこと言うの良くないと思うんだけど。本当はしたいですけど!でもしたら絶対に歯止めが利かなくなるのでダメです!頑張って耐えた俺すごい偉い。誰か褒めて。
……なんて考えて油断していたのがいけなかった。彼女は良いこと思いついたと言わんばかりに楽しげな表情で俺のネックウォーマーを下げると、何の躊躇いもなく唇にキスしてきた。おいちょっと待て。
「高菜ァ!!!!」
✻
「えへへ、ちゅーしちゃったぁ〜」
そう言って、口元を押えながらクスクスと笑う彼女。せっかく我慢してるのに何してくれてるんだ。俺の理性がぶっ壊れたらどうするの。
「高菜」
「え〜、ばかじゃないもん」
「おかか、高菜。すじこ」
「ん〜…もっかいちゅーしたらねる!」
「おかか!!!!」
病人が何言ってるんだ。これで俺が風邪引いたら後で「ごめん」って謝ってくるくせに。そろそろ寝て、と言うも嫌だと駄々をこねる彼女。暫くそうしていると、彼女は不意に俺の首筋に顔を埋め、ちゅ、と軽くキスをしてくる。そして。
「……ん」
「ッ!?明太子!?!?」
「ん〜、むずかしい……」
首筋に軽く痛みが走る。あの、もしかしてキスマーク付けようとしてる?ねぇ待って、マジで待ってこれ以上は本当にヤバいから待って。彼女の肩を叩き、それだけはダメだと伝えるも全く止める気配は無く。これだけはやりたくなかったが仕方ない。彼女が悪い。
「 寝 ろ 」
耳元で囁くようにそう言うと、糸が切れたように彼女の身体から力が抜け、すぅすぅと寝息が聞こえ始める。あっっっぶな!理性ぶっ壊れる五秒前だったんだけど。
眠る彼女を抱きかかえベッドに寝かせる。そういえば彼女の寝顔を見るのは初めてだ、と彼女の寝顔を見つめる。普段じっと見つめるとすぐ赤くなって顔逸らされるから、こうやってじっくり見れないんだよなぁ。やっぱり可愛いなぁ、と思いながら頭を撫でていると、無意識なのか、もっと撫でて欲しそうに擦り寄ってくる彼女。
(可愛い……)
思わず写真を撮ってしまったが、さっき色々やられたわけだしこれくらいは許されるだろう。
スヤスヤと気持ち良さそうに眠る彼女を見ていると、だんだんと眠気に襲われる。少しくらいならいいか、とベッドに頭を乗せて目を閉じる。ほんの数秒ほどで、俺の意識は微睡みの中へと沈んでいった。
目を覚ますと、見覚えのある天井が目に入る。身体を起こすと、今いるのが自分の部屋だと気付く。朝に比べて頭痛も治まっている。確か、保健室に行って少しだけ休んでて、その後は棘くんが部屋に運んでくれて。そして付きっきりで看病してくれていた。やっぱり棘くん優しいなぁ。
手を少し動かすと、何かに当たる。そちらを見ると、すぅすぅと寝息を立てて眠る棘くんがいた。優しく頭を撫でると、「…ん」と少し掠れた声を出して目を覚ます。わぁ、なぁに今の声えっちじゃん。少し寝惚けているのか、ぽーっとした表情で私を見る棘くんに、付きっきりで看病してくれたことについてお礼を言う。
「棘くん、ありがとね」
「…ん、ツナマヨ」
良かった、と言ってふにゃりと笑う棘くん。何だその笑い方。初めて見るんだけど可愛すぎない?寝起き棘くんの破壊力ヤッバ。
頭を撫でていると、もっと撫でて!と言う猫のように擦り寄ってくる。ん”っ、可愛い……。満足したのか、棘くんはバッと顔を上げて私を見る。
「ツナツナ、こんぶ?」
「体温計ならそこの棚に入ってるよ」
手渡された体温計で熱を測ると、三十七度二分。保健室で測った時は確か、三十八度六分って言われてた気がする。これなら明日は普通に授業出れそうだな。棘くんのおかげだね、と言おうと彼の方を見ると、首筋に薄らと蚊に刺されのように赤くなっている箇所があるのを見つける。おん?
「棘くん、首どしたの?蚊に刺され?…ってこの時期に蚊いるのか?」
「………………こんぶ、ツナマヨ」
「えっ、」
『これ、君にやられたんだけど』
少し顔を赤らめながらそう言う棘くんの言葉で、彼に看病してもらっている間にやらかしたことを思い出す。えっ、待って、あの、え。嘘でしょ、は?え?
薬が苦いからと口直しとして棘くんにキスして?もう一回したいと言ったら拒否られたから拗ねてキスマーク付けようとして?マジで何してんの?は????
「うっ…………わ……。恥ずかしすぎるでしょコレ…」
ついこの間、キスされただけで顔真っ赤にしてた女が何してるんだ。熱のせいで頭がおかしくなっていたとはいえ、これはちょっと。しかもおまけに甘えてた記憶があるんだけど。誰だよお前。私か、私だわ。
「ツナマヨ♡」
「忘れろぉぉぉぉぉぉお!!!!!!」
「おかか♡」
「もうやだ二度と熱出さない…」
頭を抱えて項垂れていると、棘くんが私の腰を撫でながら耳元に唇を寄せて囁く。
「高菜、すじこ。ツナマヨ♡」
底知れないほどの熱を帯びた目でそう言う棘くんは、今までで一番、「男」の顔をしていた。
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