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<前回までのあらすじ>
藤澤は、若井と元貴の共依存を薄めさせようと元貴に近づく。連絡先を交換し、ご飯に行ったりと、少しずつ仲良くなってきた二人。
藤澤のアドバイスに素直に従って行動する元貴に、心を乱される若井。今回も 元貴は、藤澤の誘導により、若井に楽をさせるために身の回りのことを少しずつやり始めるようになった。
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玄関の鍵が回る金属音が、静かな廊下に小さく響いた。
大学からの帰り道、疲れた足取りでマンションの廊下を歩いていた若井は、ドアを開けた瞬間に鼻腔をくすぐった香りに足を止めた。
香ばしいガーリックとトマトの匂い。いつもならあるはずのない、温もりのある匂いで満ちていた。
靴を脱ぎ、リビングへ足を踏み入れると、元貴がキッチンとテーブルの間を落ち着かない様子で行き来していた。
「…あ、おかえり」
若井の姿に気づくやいなや、元貴はヘラっと笑って、肩を強張らせながら、湯気の立つ深皿をテーブルの上にそっと置いた。
「え、なにこれ」
目を丸くして、テーブルの上に載せられたものを見つめる。綺麗に盛り付けられたパスタ。その上には、市販のソースがかかっている。玄関を開けた時の匂いは、これだったのだ。
「茹でただけだけどね」
元貴は少し照れくさそうにしつつも、誇らしげに胸を張った。
「え…自分で作ったの?」
「うん、でもソースとかもレンチンするだけのやつだし、全然」
「自分でスーパー行ったの…?一人で?」
「……行った」
元貴は少し頬を赤らめ、視線を泳がせた。
涼ちゃんとの約束がない時は外出すらしない、あの元貴が。どういう風の吹き回しか、一人で外に出て、買い物をして、料理を作って待っていた。
「えー……すごい……すごいね……」
口からは感嘆の言葉が漏れる。本心から「すごい」と思う気持ちは確かにある。元貴が成長していること、前に進もうとしていることに対する純粋な喜び。だが、それと同じくらい強烈な疑問と、底知れない不気味さで胸騒ぎがする。
ふと、この前の話す練習をしている記憶が鮮明な映像となって蘇る。藤澤の顔が、影のように脳裏に揺らめいた。
(また涼ちゃんが何か吹き込んだのかな。いらないことしないでほしいな)
喜び、困惑、そして沸き立つような恐怖。
ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情に耐えかね、若井は思わず視線を落とし、俯いた。
「……わかい」
急に沈黙した若井を前に、元貴が不安そうに眉を寄せる。フリフリと小さく振られた手が視界に入る。
若井がハッと息を飲んで顔を上げると、そこには今にも泣き出しそうな、怯えた表情を浮かべる元貴がいた。
「……おれ、またダメなことしちゃった…?」
手話が力なく揺れる。その悲しげな瞳を見て、若井は自分の失態に気づき、慌てて首を横に振った。
「ちがう、違うよ。嬉しい、ありがとね。ありがと、ほんとに」
眉を八の字にして、キュッと口元を結びながら瞳を潤ませている元貴。その痛々しいほど純粋な姿に、胸が強く締め付けられる。藤澤への疑心も、元貴が自分から離れていく恐怖も、全てを塗りつぶすように、元貴の華奢な体を強く抱きしめた。
「、ぅ」
突然の抱擁に、元貴の喉から小さく、可愛らしい声が漏れた。
元貴の背中に手を回し、その体温を確かめるように指先に力を込める。どれだけ涼ちゃんが邪魔をしようとしても、今この瞬間、この腕の中にいるのは自分だけの元貴だ。
しばらくの間、二人の鼓動だけが重なり合う静寂が流れた。若井はゆっくりと腕の力を緩め、元貴の体を離した。
「…食べよっか。せっかく作ってくれたのに冷めちゃう」
若井が優しく微笑みかけると、元貴も安心したように目を細め、席についた。
それから、元貴は今日あった出来事を次々に話し始めた。
スーパーへ足を踏み入れた時に、やっぱり帰ろうかと思ったほど緊張したこと。商品を探している最中、周囲から自分が浮いていないだろうかという不安だったこと。お会計で、小銭を数えるのに時間がかかって迷惑をかけていないか怖くなったこと。若井の好きなアイスクリームを見つけたけれど、必要なものを買うのに精一杯で買えなかったこと。今度は若井と一緒にスーパーへ行ってみたいということ。
あふれ出る言葉を必死に形にする元貴の手は、羽ばたく鳥のように忙しなく動いていた。
若井はそんな元貴の様子に時折「そっか」「頑張ったね」と言葉を挟みながら、静かに話を聞いていた。かつては考えられないほど、穏やかで温かな時間が二人の間を流れていた。
しかし、一通り話し終えて満足した元貴が、不意にその手を止めた。
「…ねぇ今度さ、涼ちゃんを家に呼んでもいい?」
急なぶっ込みに、若井の手話をする手がピタリと止まる。
元貴は少し上目遣いになり、顔色を伺うようにじっと見つめていた。胸の奥で渦巻く動揺を悟られないよう、必死に平静を装う。
「なんで?突然…」
「そうかな」
「え、うん…」
「だって、おれと若井は仲良しでしょ?」
「うん」
「おれと、涼ちゃんも仲良し」
「…うん」
「若井と涼ちゃんも…仲良しだよね?」
「……うん」
「だから、三人でお喋りしたくて。若井が入院した時以来、あんまりなかったから」
「…なるほどね」
元貴の前では、表面上だけでも仲の良い友人同士でありたかった。
確かに、涼ちゃんは良い奴だ。
以前二人で焼肉に行った時も、自分と元貴の関係性を否定せず、受け入れてくれた過去がある。しかし最近の藤澤はどうにも元貴に近づきすぎているように見えた。個人的に気に食わないアドバイスを元貴に吹き込んでいる節があり、若井自身、最近は藤澤との連絡をあえて控えめにしていた。
目の前で期待に満ちた瞳を向けてくる元貴を前に、若井は喉の奥に苦いものを飲み込む。
「うーん…」
若井はフォークを皿の縁にカチャリと当て、視線を彷徨わせた。元貴は畳みかけるように指先を動かす。
「…若井はさ、涼ちゃんが嫌い?」
「え…?」
またしても予期せぬ球を投げ込まれ、思考が一瞬フリーズした。
「だって…おれが声で話そうとした時もなんか怒ってたし。今もなんか乗り気じゃないし」
「それはさぁー……」
痛いところを突かれ、若井は顔を引きつらせながら苦笑いを浮かべた。
「…二人は仲良しだよね? 二人で焼肉行ったって時も、帰ってきてからニコニコしてたもんね?」
「うん、そうね…」
「…ねぇ、おれに内緒にしてることある?」
「ないよ。一個もない」
ため息をつきながら、ゆっくりと首を振る。
内緒にしていることなんてない。ただ、元貴が自分から離れて自立しようとすることに対して、なぜ胸の奥がこんなにもドロドロとモヤつくのか、若井自身にも理由が分からなかった。無意識に指先でテーブルの端をカリカリと引っ掻く。
「じゃあ三人で話せるじゃん。おれ、みんなで仲良しがいい」
無邪気な幼さを持った発言に、若井の胸の奥で苛立ちがふっと頭をもたげた。大人になれば人間関係に色んな距離感や事情ができることくらい、普通は分かるだろう。元貴の、時折見せるこの鋭いのか鈍いのか分からない純粋さは昔からのものだったが、こういう局面では正直、少し厄介だと感じてしまう。
「普通にさ、二人ずつ仲良しなら良くない?」
「三人で話したいの!それも明後日がいい!」
「明後日!?急だな」
「涼ちゃんも大丈夫って言ってた!」
「…え!?もう話通してるの?」
「うん!楽しみって言ってた!」
元貴は少し頬を膨らませ、駄々をこねる子供のように腕を軽く振った。
「えぇー…まじか」
すっかり冷めてしまったパスタを最後の一口まで平らげると、若井は喉の引っかかりを流し込むようにコップの水を一気に口に含んだ。
「まあ、もう伝えてるなら仕方ないね。わかったよ」
元貴が次の手話を繰り出す前に、若井は逃げるように立ち上がり、皿を手に取ってキッチンへと向かった。背後ろに感じる元貴の視線が、どこか重く肌にまとわりついていた。
蛇口をひねり、勢いよく流れ出る水の中に手を差し出した。冷たい水が指先を叩く感覚に身を委ねながら、心の中で言葉を吐き捨てる。
(なんで三人なんだよ、しかも俺に言わずに勝手に約束取り付けてるし。そういうとこ元貴あるわ…ほんとやだ…)
洗剤をスポンジに含ませながら、必死に苛立ちを抑える。
藤澤と会うこと自体を嫌がっているわけではない。焼肉に行った時だって普通に楽しかったし、元貴のことを理解してくれる数少ない友人だと思っている。
けれど、今の状況で三人で顔を合わせたらどうなるか。
元貴はきっと、藤澤の前で誇らしげに「自分で買い物したんだ」「話す練習もしてるんだ」と伝えるだろう。そして藤澤は、あの優しい笑顔で元貴を甘やかすように褒めちぎり、元貴はそれに満面の笑みで応える。
その光景を想像しただけで、若井の胸の奥で黒いものが蠢いた。 二人の間に自分が入る余地がないような、あるいは、自分が二人を閉じ込めていた悪者のように思えてしまうような、言いようのない疎外感。自分がこれまで元貴に注いできた時間も感情も、すべてが上書きされていくような恐怖だった。
スポンジを握る手にぐっと力が入る。
「……っ」
ふと振り返ると、元貴がキッチンの入口に佇んでいた。
テーブルから食器をまとめて持ってきてくれたらしい。差し出すタイミングを計りかねているのか、両手で重ねたコップを大事そうに抱えて、おどおどと若井を見つめていた。
その姿は、先ほど「三人で話したい!」と主張していた時とはまるで別人のように小さく、頼りない。
若井はすぐに表情を和らげた。
「ありがと。置いといて」
元貴はホッとしたように表情を緩めると、そっとシンクの脇にコップを置いた。そして、すぐには立ち去らず、若井にくっつき、 エプロンの裾を指先でじっと弄り始める。
「……元貴?」
若井の口から、掠れた音が漏れる。
「どうしたの」
小さい子に話しかけるように、心配そうに顔を覗き込む。元貴は少し言いづらそうにしながらも、ゆっくり手を動かした。
「…若井がいやなら、やめる。涼ちゃんにも言っとく」
元貴だってバカではない。若井が話を無理やり終わらせて逃げたことも、自分が何か若井の琴線に触れる余計なことを言ったことも察しているの。ただ、その理由が分からないから、こうして怯えることしかできない。
(怒ってないよ)
そう手話で答えるべきだった。いつもなら、すぐに元貴の欲しがる言葉を与えて、安心させてあげていたはずだ。
けれど、今の若井にはそれができなかった。
元貴が自分に気を遣っていること、自分の一挙一動に怯えていること。その怯えすらも、元貴が自分に囚われている証拠のように思えてしまい、心のどこかで奇妙な安堵感を覚えてしまっていたからだ。
「大丈夫。…ちょっと疲れてるだけ」
若井は敢えて手話を添えず、口の形だけでゆっくりとそう告げた。元貴が自分の口元を必死に読み取ろうと、真剣な眼差しを向けてくる。その全神経を自分に集中させている瞬間だけが、若井の歪んだ心を穏やかにした。
「ほんと?」
元貴が確認するように手を動かす。
「ほんと。だからそんな顔しないで」
若井はそう小さく呟くと、逃げるように洗い物に戻った。元貴はまだ何か言いたげの様子だったが、しばらく経つと諦めたようにリビングに戻っていくのが分かった。
コメント
14件
すごい好きです。待ってました。 表現力とか好きです 次もゆっくり待ってます
更新ありがとうございます。依存ってそう簡単に無くなるものじゃないから、一見ひろぱの方が依存が強いように見えるけど、もっくんもまだ実は依存してたりするのかなって思いました!もっくんと涼ちゃんの行動により、名前のない感情を募らせていく中、ひろぱがこれからどう動いていくのか楽しみです!

ん〜〜 生々しい 水がシンクを打つ音 食器のカチャカチャした音 それらが嫌〜に耳につくような(この空間において耳につくのもそれにじわじわ蝕まれるのもwさんだけなわけですが…)描写が痺れます 最高です、、、🙇♀️
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白猫
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#mtp
ひより
82,728
#若井滉斗
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