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いつの間にか描く者は集中力を欠き、まるで夢現に兆しを授かる預言者のような視線を目の前の画板に投げかけている。完成間近の絵を不確かな眼差しで眺めながら、しかし心には何も映されていない。そして突如雷に打たれるように天啓に魂を撃ち抜かれ、白昼夢から墜落したグラベールーの意識は王家に与えられた工房へと戻ってくる。
あらゆる種類の樹木から切り出された画板の香りと黄金にも比する高級な絵の具の匂いを嗅いで、死蝋の画家グラベールーは落ち着きを取り戻す。
長い生――という表現が正しいのかも分からないが――を生きてきて、これほど頻繁に天啓を授かることはなかった。グラベールーは絵画に関する魔術の知識を学ぶことなく得ることができる魔性の存在だった。それらの知識がどこから来るのか、なぜグラベールーが授かるのかは分からない。真実を求めて多くの予言者や神官と対話し、多くの答えを受け取ったがどれも納得できるものではなかった。
意識の虚ろとなる瞬間が、しかしグラベールーには待ち遠しいものだった。新たな知識を得ることは画家としての喜びでもあるし、絶え間なく命令のままに動き続ける体が、この時ばかりは休息を得られるからだ。肉体の疲れなど知らないグラベールーだが、長い年月の絵画の生産で魂は疲弊している。
魔性の画家、グラベールーはいつの間にか取り落とした絵筆を拾い、再び画板と向き合う。
『聖蓮の孤絶』。遠国の新興宗教団体から依頼された聞いたこともない題材の絵だ。王侯貴族の依頼に優先して描くことを命じられた。それほど王国にとっては実入りが良い依頼なのだ。
罪深い女によって独房に産み落とされた赤子が、しかし母の負債を肩代わりし、小さな窓から与えられる施しと教えでもって生き抜き、刑期を全うしたその日に往生したという逸話だ。
グラベールーは聞いたこともない信仰の聞いたこともない聖者の聞いたこともない奇跡的殉教に基づく悲劇的説話を絵画にすることに初めは可笑しみを感じたが、どこか自身の立場、状況に通ずるものを感じてのめり込んだ。生まれてから死ぬまでの孤独ほどではない上に、絵を描くこと自体は喜び以外の何物でもないが、己の能力を他者に利用され続ける在り方にグラベールーは辟易するばかりだった。ただ生産され、表現ではない虚ろな絵ですら美しく、それ故に愛することができなかった。
王侯貴族に命じられるまま、権力者の権威の表明に利用される絵を描き続ける。神代から数える貴き血筋を表す絵、事業を偉業に変換する絵、ただただ高価な絵。美の追求とは程遠い。魂を傾けなくとも良い絵が生まれ出る己の才能を呪う。そしてたとえこの魂が束縛されていなくとも、宮廷画家とはそういうものなのだ、と己を慰める。
何度目かの溜息をついた時、扉を叩く音が聞こえ、グラベールーは背を向けていた扉の方を振り返る。絵を描く邪魔をされることなど滅多にない。そのような権限を持つ者も少ない。グラベールーは少しだけ、新しい絵の具を受け取った時と同じくらいには高揚する。
そこに立っていたのは王族の警護と王国の治安を司る最高責任者、将軍剣による贖いだった。自身もまた古い血筋に連なる大貴族であり、実質的に王族に次ぐ地位のある家系の当主だ。厳めしい意匠ながら汚れ一つない光沢のある軍装。白の混じった髪に、重く垂れる眦。艶めく靴に赤い刺繍の靴下。しみのある乾いた肌。煌びやかな宝石に飾られた剣と鞘。
幾多の戦を駆け抜けた英雄カーグスの肖像画をグラベールーは二度描いたことがある。一度目は一人で、二度目は家族の揃った絵だった。どちらもカーグスが当主になったばかりの若い頃の話だが。
「君の全ての仕事に優先する話がある。来たまえ」とカーグスは冷たい声色でグラベールーに命じる。
カーグスの視線は絵の具がついたらしい己の指に向けられていた。
グラベールーには従う謂れも魔術的拘束力もない。問答無用が許されるのは王族だけだ。
「ここで聞きます」とグラベールーは率直に返す。
まるで月に何度かやって来て文句を垂れながら掃除を行う召使いたちのようにカーグスは部屋を見渡す。依頼主を待つ絵ではなく、床に散らかった画材や絵の具に目を向けている。
「君に見せなければいけないものがあるのだ。許可は得ている。君を動かすためだけに陛下にご足労願うわけにはいかない。分かったなら急げ」
グラベールーは筆を置き、独房の中に差す一筋の光を見つめ、立ち上がる。この囚人の前で贅沢を言うのははばかれた。それに一時的にでも絵から離れられることが有難い。
城下町の一角、普段は人通りの多い交差点が今は封鎖されていた。警吏たちが厳めしい表情で辺りを睨みつけ、人々は気にすることなく野次馬している。その視線の先、石畳に、通り一杯を使って絵が描かれていた。
一目見た途端、グラベールーの心象そのものが塗り替えられたような気分になった。風景画のようだが抽象的だ。絹糸のような細雨の降る薄暗い墓地の湿った泥の臭い、垂れこめた雲の隙間から月光の注ぐ冷たい輝き、何人かの人群れの囁き声と啜り泣き。写実性の一切ない、細かな線の連なりと重なりが絵を成立させている。眺めていると、その場にいるようではなく、その場そのものになってしまったかのような、心を覆いつくす絵だった。
「一体何なのですか? これは」とグラベールーは視界の外にいるカーグスに問う。
「落書きだ」
「落書き?」グラベールーは思わず反射的に繰り返し、カーグスの問いかけるような視線から逃れるべく再び悲しみの積もる墓地へと戻る。
落書きと言い表すなど不適切だと思えるほどグラベールーの心は美に酔っていた。だが、勝手に公共物に描かれているのだから落書きなのだろう、と心情に反するも無理矢理に納得する。
野次馬たちも警吏の規制の外から絵に心を奪われているのだ。警吏たちによる聞き込みも行われているが、野次馬たちは絵を見るのに忙しいという様子だ。
「何か思うところはあるかね?」と将軍カーグスに尋ねられる。
今になって将軍がわざわざ落書きに対処している事態の異常さにも気づく。言葉とは裏腹にただの落書きだと思っていないということだ。
「思うところばかりですが」
「具体的に」
「と言われましても」
グラベールーは改めて少し物理的に精神的に距離をとって落書きを眺める。が、絵から離れても是非描き手に会いたいとか、絵画や芸術に関して語り合いたいとか、そういうことを考えてしまう。何とか振り払って、絵を客観的に眺めても、とんでもない量と種類の絵の具だとか、どのような筆を使ったのだろうかとか、描く前に砂埃を払ったのだろうなとか、考えてしまう。
「不自然な点をあげるとすれば使われた絵の具以外の絵の具の匂いがしますね」
「匂いをたどれないのか?」
「犬じゃないんですから」
カーグスは納得できない様子で目を顰める。
その眼差しでグラベールーは察する。自分も疑われているのだ、と。
「言っておきますが私じゃないですよ」とグラベールーは率直に返す。「自由に絵を描くなんて、考えたこともありません」
「……分かっている。そのような隙はなかったと、裏は取れている。遠隔地に絵を描く魔術など無いならば、だが」
「そんな魔術は知りませんよ」
そんな魔術は存在しないという意味だ。
「もう戻っていいぞ」とカーグスに許されてもグラベールーはその場で絵を眺め続けた。
「これを描いた人を見つけてどうするんですか? できれば私のように召し抱えることを提案します。これだけの絵が描けるんです。正しい芸術の世界へと引き込むべきでしょう」
「絵のことなど知らんが、私からは沙汰次第だとしか言えん」
ほとんど予想通りの答えだが、この描き手を牢に閉じ込めるにしても、処刑するにしても許されがたい大きな損失だ。グラベールーはこの絵の向こうにいるまだ見ぬ仲間に会いたくなっている。そして単純にグラベールーの仕事が半分になる可能性にも期待していた。もちろん全て引き受けてくれるなら大助かりだ。
「なぜわざわざ我が家に?」書斎で出迎えたカーグスの元へグラベールーは進み出る。そして携えた一枚の羊皮紙を手渡した。カーグスは一通り目を通して感慨無さそうに呟く。「陛下を説得したのか。落書きの一時保存と下手人の命の保証か。……ただし宮廷画家となることが条件、と。もしも断ったなら恩赦は無し。公共物汚損の罪で裁かれるわけか」
「仮に断られたとしても、失うのは国家にとって大損だと私は思いますけどね。あ、それとこれが一番大事なことですが、私も捜索します」
「随分と嬉しそうだな」カーグスの言う通り、グラベールーの借り物の顔が喜びを表現している。「陛下が許すとは」
「意外と口も上手いんですよ、私」
カーグスは腑に落ちない様子でグラベールーに問う。
「それほどのものなのか?」
グラベールーにとっては信じがたい台詞だ。
「それほどのものですよ。あれからいくつか見ましたが、いえ、鑑賞しましたが、どれもこれも名高い画聖に劣らない傑作ばかりです。あの絵を見て、貴方のような感想を言える人を私は他に知りません」
絵画など神殿の壁画や天井画くらいでしか縁のない市井の人々ですら感動し、語り合い、市中は感想で持ち切りだ。
「見てないからな」とカーグスは呟いた。
「はあ?」
「娯楽で飢えは凌げん。渇きは潤わん。敵は討てん」
だからといって現場にまで赴いて視界にすら入れないなど考えられないことだ。呆れた堅物を前にして、呆れた堅物を前にしているかのような態度を取らないよう、グラベールーは一礼して暇を告げる。
「とはいえ」とグラベールーの去り際にカーグスは呟く。「首輪付きの方がはるかにましではある」
グラベールーは書斎を出ると、敷地の端にあるもう一つの邸宅へと真っすぐに赴く。そこは物々しい軍人が行き交う本宅とは別に、体の弱かったカーグスの妻のために建てられた住居だ。視線除けの木立の向こうにその屋敷はある。
裏口へと回り、召使いの一人を買収して開かせておいた扉から無断で中へと入る。廊下を見ただけでも新居の如く生活感に欠け、人の気配がなく静かだが、行くべき場所は匂いで分かる。グラベールーは迷うことなくある一室の前へとやって来て扉を開いた。
そこは森の際だった。半分は地平線が真っすぐに伸びる野原で、空は青々として広がり、眩しい太陽が燦々と陽光を降らせ、爽やかな風が吹き抜けて野花を揺らす。もう一方は密に木々の生える森林だ。木の陰には幽かな存在が隠れており、森の奥からは神秘的な視線を感じる。日の当たる手前と陰る奥の対比が見事にその温もりと冷ややかさを表しており、じっと見つめていると足元のおぼつかないような不安を感じた。床にも壁にも天井にも描かれており、広間がまるごと絵になっている。やはり写実性のない絵だが、錯視を利用しているのかどこから見ても臨場感がある。
その野原の真ん中で一人の男が、カーグスの息子血を捧げる男が食事を摂っていた。小さな机に銀食器を並べ、庶民的な乾いた麺麭と具の少ない汁物の前で、大きな体で小さな椅子に座っている。
「よく来たな」ヴルツォンは手を止めて顔を上げる。
「私が来ることを予見していたのですか?」
「まあ、そうだな。宮廷画家グラベールー。他の誰かがここへたどり着けるとは思っていなかった」
思いもよらぬ事態にグラベールーは扉の傍に留まる。驚かしてやろうと企んでいたのに、驚かされてしまった。
「それで、何の用だ?」
分からないはずがないが、しかしグラベールーは素直に用意していた問いで返す。
「落書き事件についてお尋ねしたく、勝手ながら訪問させていただきました」
「父上は知っているのか?」
「この訪問を? 貴方が犯人であることを? どちらも知りません。ご安心ください」
少なくともカーグスは共犯者ではないらしい。
「そうか。何か飲むか? 適当に掛けてくれ」
掛けてくれと言われても、と周囲を見渡すと確かに他にも家具があった。描かれているのは床、壁、天井だけではなかったのだ。
グラベールーは勧められるままに適当に野原の一部だと思っていた椅子に座る。
「俺を捕まえに来たわけではなさそうだ」ヴルツォンは食事を再開する。「会うのは何度目だったかな?」
「二度目です。将軍と二人の小さな御兄弟」
「ああ、あの絵。そうか。お前の作だったのか。それで、何の用だ?」
「是非、貴方に絵画を御教授させていただきたく」
「へえ、教える側からやって来るとは、有難い申し出、なのだろうな。おそらく知っての通り、これは独学だ。多少は母上に手解きを受けたのだが、弟に比べれば落書きだな。しかし、なぜ?」
しかしヴルツォンの母も弟も病によって亡くなっている。元から体が弱かったことも調べがついている。
「理由は二つ。一つは私自身、貴方と貴方の才能を尊敬してのこと。貴方の画家としての未来を望んでいます。一つは貴方自身と御父上の危難を避けるべく。拒否した上で捕まれば相応の報いを受け、将軍家は没落するでしょう」
「ん? どうしてお前に絵画を教わるだけで報いを避けられるんだ?」
「失礼しました。正確には私と同じく宮廷画家になるための教えです。正当で、善良な芸術の世界です」
そうして王侯貴族の依頼を受け、絵を描き続ける。腕が四本になれば、ただひと時ながらグラベールーに余裕が生まれ、己の表現を追求できる。
「そうか。御免蒙るよ」
「選択の余地がありますでしょうか?」
「お前が俺を脅せるのか? 俺の才能が失われてもいいのか?」
進退窮まる事態にグラベールーは歯噛みする。
「二度と描けなくなるかもしれませんよ?」
「それは困るが。正当で善良な絵? 二度と描けないのと同じだ。俺は美を追求したいんだ」
「最も美を追求できる場ですよ」少なくとも死する定めの人間には休息の時間が与えられるだろう。「絵の他には何もできないと言っても良いくらいです」
「だがこの絵はどうだ? 罪深い落書きとやらはどうだ? 二度と出来ないだろう。誰だって最初はここから始まるはずだ」
「そして誰もが初めは未熟です」グラベールーは少しだけ言い淀む。「善きもの、正しきものに美が内在しており、見出せるようになるのです」
ヴルツォンは大いに笑う。「ならば俺の絵を追おうとは思わないはずだ。お前がここに来た事自体がその証明だ。真も善もどちらも人間のいる所にしかないが、美はそうじゃない。美は遍在している」
「そんなことはありません。いずれも我々が見出すものです。そうでなければ存在しないも同然です」
「宮廷画家ならばそうかもしれない。普通の宮廷画家ならばな。お前が一番知っているはずだ。お前の非人間的な制作活動は噂になっているぞ。そのままでいいのか?」
グラベールーは怯まない。「良くないからこうしてやって来たんです」
長々と問答を繰り返すも決着はつかなかった。汁物の湯気も消え去った。
「何にせよ、描きたいものを描けないのは御免だ」グラベールーの反論をヴルツォンは封じる。「いや、多少の時間では駄目なんだ。一生かけて向き合っても間に合うかどうか分からない。そういう仕事を俺はしている」
「落書きの果てに、何か大望があるのですか?」
「よく見ろ。宮廷画家君」
ヴルツォンは広間全体を指し示すように腕を広げる。つまりこの野原と森の絵を見ろということだ。
何度見ても美しい。そして常に新しい発見がある。踏みつけざるを得ないことが心を痛める。ふと床に何かを見つけ、グラベールーは跪いて目を凝らす。描いているというよりも書いている。それはただ塗られているのではなく、幾何学的な配列が施されている。模様、というよりは無数の文様で構成されている。文字ではないが、間違いなく意味が宿っている。
「魔術、なのですか? これは」とグラベールーは尋ねる。
「おそらくな。これは弟の遺した絵だ。あるいは遺書のようなものじゃないか、とも考えていた。病弱な弟がこの部屋に閉じこもって描いた絵だ。空想だけではこうはいかないはずだ。描き方もそうだが、どのような魔術かも皆目見当がつかん。そもそも完成しているのかも分からない」
「いえ、未完成ですよ、これは」
「どうして分かる」
分からないからだ。この絵画が魔術ならば学ぶことなく得られる。そのような特権的存在であることをグラベールーは自覚している。しかし分からない。この魔術が完成しなければ宇宙か運命か超越的存在は共有を許可してくれない。
グラベールーは覚悟を決める。自身について教えることは弱点を晒すことと同じだ。知っている人間は少ない方が良い。今のところ、王とその長子だけが全てを知っており、限られた賢者が秘密の一部を分け与えられている。王に次ぐ大貴族にその秘密の全てを明かすことは政治的趨勢を傾きかねない。描く者が少なからず危険な魔術を保有しているからだ。
しかしグラベールーもまたこの広間の秘密を解き明かしたかった。これほどの大規模な絵画も魔術も知らなかった。
「少し時間をください」
ヴルツォンを引き込むにしても見逃すにしても少し考える必要がありそうだ。
ヴルツォンは怪訝な表情になるが、肯定するように頷く。「俺の方に時間があるのか知らないがな」
グラベールーはもう一度だけ広間の絵画を目に焼き付け、別れを告げる。扉を開くと廊下の向こうにカーグスがいた。死蝋の体が強張り、言い訳を考えながらグラベールーは将軍の元に近づいていく。
「奴に何の用だ?」
「ヴルツォン様というより、奥方様の遺された絵を拝見いたしたく参上しました」
「奴が人を上がらせるとはな。しかしあの広間にあるのは我が妻ではなく、次男の遺した絵だろう?」
「そうなのですか? てっきり……」と誤魔化す。
「見たことはないがな。私も人の子だ」初めてカーグスと目が合ったような気がした。その瞳は潤いを帯びている。「失った妻や息子を思って悔い続けるわけにもいかない」
少なくとも将軍が犯人を見つける日は来なさそうだ。
ある夜更けのこと。たった一本の筆を持ち、ヴルツォンは神殿の屋根の上に佇んで、夜景を眺めていた。街は静まり返り、孤独を知る獣が寄り添うように星明かりだけが都を照らしている。
「置き土産にしては上出来だな」
ヴルツォンの見渡す都を埋め尽くすのは天の星に勝るとも劣らない銀河だ。通りに家屋の壁に屋根に夜天に引けを取らない数の星々が輝いている。一つ一つの星々が生き生きと瞬いているように感じられ、今にも流れ星が過ぎ去っていきそうな迫力がある。直ぐ間近でみるとさらに細かな図形や文様で構成されており、遥か高みから見下ろすことができたなら合言葉になっている。
「たった一晩でこれほどの大作を描けようとはな。あんたの魔法様様だ」
ヴルツォンはちらりと手の甲を見る。そこには猫の描かれた札が貼ってある。
「こんなもの序の口でなくてはなりません」ヴルツォンの口が答える。「弟君が目指していたのはまだ遥か高みですよ」
「殊勝なことで。初めての共作にしては良い出来だろう。本当に良いのか?」
「もう何度も話し合ったじゃないですか」
「正当で善良な芸術に悔いは無いのか」と堅物の息子にからかわれる。
「ええ、閉じ籠っているのは飽きましたから。言い包めるはずが、言い包められたことも悔いていません」
「根に持ってはいそうだな」
「ともかく意見は一致したのですから良しとしましょう。貴方こそ心残りはありませんか?」
「あるさ。父上を嫌っていたわけじゃないんだ。だが、俺は俺の人生を始めなくてはならない」
「全てはここから始まります」
「ああ、落書きから始めよう」
それが二人の合言葉だった。