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「えっ……どうしてこれが……」
「慎一が、いつかあなたの大切なものを売ってお金にする日が来ると思っていたから、こういうものを買い取ってくれる業者に連絡を入れておいたの。劇団やっているとね、顔が広くなるのよ」
信じられなかった。
もう2度と戻ってこないと思っていた。
「だから、もしも万が一、慎一がこれを売りに来たら、一旦買い取って、また私に買い戻させて欲しいってお願いしておいたの」
「そんな……わ、私のために……ありがとうございます……う、ううっ……」
涙が止まらない。こんなに優しい施しを、私は今まで受けたことがなかった。
ぽろぽろと涙を流す私を慰めるように、お義姉さんは背中をそっと撫でてくれた。「辛かったね。ご苦労様」
恥ずかしながら私は声を上げて泣いてしまった。
お義姉さんの優しさが温かすぎて……。
しばらく泣いた後、私はお義姉さんに促されて、マカロンをひとつ食べた。
甘さが喉の奥のしゃくりあげを少し溶かしてくれた。ラズベリーの味がした。こんなに丁寧に作られたものを、こんなにぐしゃぐしゃの顔で食べるのは申し訳ない気もしたけれど、不思議と、今はそれでもいい気がした。
「落ち着いた?」
「……はい。みっともないところを見せてしまってすみません」
「いいのよ。ここはそういう場所だから」
お義姉さんが、温かい紅茶をそっとカップに注いでくれた。
私は段ボールの中に手を入れた。
父が買ってくれたパレット。使い込んで、絵の具が幾重にも重なって、随分汚れてしまったものだけど……指先でそっと触れると、また涙がにじんだ。
お父さん。
心の中で呼びかけた。言葉はそれだけでよかった。それだけで、胸の奥に眠っていた記憶が、静かに目を覚ます気がした。絵の具の匂いに混じって、父の仕事部屋の空気が蘇った。休日の朝、私が隣で落書きをしていると、父が「美輪は筋がいい」とだけ言って、また自分のキャンバスに向き直った。褒め上手ではなかったけれど、あの横顔は、確かに笑っていた。
「……大切にしてたんだね、そのパレット」
お義姉さんが静かに言った。
「父の形見なんです。絵描きで、私に絵を教えてくれた人でした。でも私を育てるために、絵を諦めたんです」
「じゃあ、もう手放したりしないように、大事にしなきゃね」
「はい。もう絶対に手放しません! 私が守ります!!」
「ん。いい顔」
お義姉さんが笑った。私も笑った。
昼下がりのマカロン店内は、昼の光を浴びてキラキラと輝いていた。
※
あれから数ヶ月後。
新しい部屋の窓から、心地いい風が吹き込んできた。
机の上には、お義姉さんが守ってくれた、お父さんの形見となった、彼が買ってくれた古い画材道具。
使い込まれた筆を手に取ると、自然と指先に力が戻ってくるのが分かった。もう、あの時のように震えたりはしない。
ピコン♪
スマホが鳴った。
『美輪ちゃん、今夜のマカロン作戦会議(ただの女子会)、オーナーが新作の試食させてくれるって☆』
ユカリさんからのメッセージに、私は小さく笑って『楽しみにしています』と返した。
あの地獄のような家を出て、私は私の人生を、自分の手で調理し直している。
デザインの仕事も軌道に乗り始め、何より、自分の力で稼いだお金で食べるご飯は、どんな高級ディナーよりも美味しかった。
風の噂で、慎一が再就職もできず、実家で毎日お義母さんに罵られながら文字通り泥水をすすっていると聞いたけれど。
もう、どうでもいい。
私の心には、あのクズの居場所は1ミリもない。
そう言えば、静稀が相談あるって言ってたっけ。近々会う予定でいるけれど。
もし彼女が悩んでいるなら――夫に酷いことをされているなら、マカロンを紹介してあげよう。
私は真っ白なキャンバスに向き直り、パレットの上で絵の具を混ぜ合わせた。
気持ちの持ちようで、どんな色にだってなれる。どんな味にだって変えていけるし、どんな絵だって描けるから。
そのことを、静稀に教えてあげたい。
見上げた空が眩しく輝いていて、自分の未来を照らしてくれていることを――
-完-
#アラスター
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コメント
2件
嬉しい感想をありがとうございました。今回企画で出した短編を自分で小説にしたものですが、書いていて楽しかったです。シリーズ化されたらぜひまた応援してください✨
最後までワクワクしながら読ませていただきました!ぜひシリーズ化して欲しい作品です✨😊