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その日の空は、春らしく霞んでいた。 光希は朝の支度をしながら、鏡に映る自分をじっと見つめた。
長いまつげ、柔らかく揺れる髪、少し寝ぼけたような瞳。
どこから見ても女の子。
けれど、心のどこかではまだ「これは自分じゃない」と思っていた。
「……おはよう、莉月」
ダイニングから顔を出すと、エプロン姿の莉月がトーストを焼いていた。
「おう、おはよう光希。――あ、ごめん、優希」
「どっちでもいいよ」
そう言いながら、光希は笑った。
けれどその笑みの奥で、少しだけ胸が痛んだ。
登校途中。
里奈と並んで歩く道にも、ようやく慣れてきた。
「光希ちゃん、昨日のドラマ見た? めっちゃキュンだったよね!」
「う、うん……見た見た」
嘘だった。
でも、話を合わせることも少しずつ上手くなってきた。
ふと前を見ると、蒼が校門の前で立っていた。
彼の視線が、一瞬だけ光希に向く。
――何かを探るような目。
胸の奥に冷たいものが走る。
放課後。
教室に残った光希は、窓際の席でノートを閉じた。
そのとき、背後から声がする。
「光希」
蒼だった。
「なに?」
「白川と……昔から知り合いなんだろ?」
「うん、いとこ」
「……本当に?」
その一言に、空気が変わった。
光希は息をのむ。
けれど、すぐに笑顔を作った。
「なにそれ、どういう意味?」
「いや……別に。ただ、なんか気になるだけ」
蒼はそれだけ言って、鞄を持って教室を出ていった。
光希はしばらく動けなかった。
(やっぱり、勘づかれてる……?)
帰り道、いつもより沈んだ表情で歩く光希に、莉月が気づいた。
「どうした? なんかあったのか?」
「……蒼に、変なこと聞かれた」
「変なこと?」
「“本当にいとこなのか”って」
「……そっか」
莉月はしばらく考え、ぽつりと呟いた。
「無理して笑わなくていいぞ」
「笑ってないよ」
「いや、してる。俺には分かる」
光希は立ち止まった。
春の風が髪を揺らし、スカートを掠めていく。
「……怖いんだ。ばれたら全部終わる気がして」
「大丈夫だ。俺が全部守る」
その言葉は優しくて、まっすぐで。
けれどどこか、距離を感じさせる響きだった。
その夜。
ベランダで月を見上げながら、光希は自分の胸に手を当てた。
(この身体にも、だんだん慣れてきた。
声も、歩き方も、仕草も。
なのに……なんで、こんなに息苦しいんだろう)
背後から足音がして、莉月がカーディガンを持ってきた。
「寒いだろ」
「……ありがとう」
二人の距離は、すぐそば。
けれど触れようとすれば、何かが邪魔をする。
“男”と“女”になってしまった境界線。
それが確かに、そこにあった。
「なぁ莉月」
「ん?」
「もし、もう戻れなかったら……どうする?」
「……そしたら、“光希”として生きていけばいい」
「簡単に言うね」
「簡単じゃねぇよ。でも、俺はお前がどんな姿でも、お前のままだと思ってる」
光希は息を詰めて、莉月を見つめた。
夜風の中で、胸の奥が静かに震えた。