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花吐き病×ルールシェア「この部屋で、咲いた花」 ~i×f~
Side深澤
朝5時、まだ外は薄暗い。窓の向こうに霞む街の明かりをぼんやり見つめながら、俺はキッチンの電気をつけた。
昨日の台本がテーブルの上に広がってる。帰ってきたのは深夜1時過ぎだったはずなのに、今日も朝から撮影だ。
それでも、嫌じゃない。むしろ、幸せだって思う。
ふと、十代、二十代の頃の自分が脳裏をよぎる。
真冬のリハーサル室。まだデビューなんて言葉は遠すぎて、いつまでたっても“次”が見えなかった日々。
「いつかきっと」と信じながらも、心のどこかで「俺はこのまま終わるのかも」と思っていた。
そんな曖昧な時間を、何年も生きてきた。
今は違う。
こんなに慌ただしくて、まともに寝る時間もなくて、それでも俺の名前を呼んでくれる人がいて、俺が誰かの役に立ってる実感がある。
それが、こんなにも温かいことなんだと、ようやくわかった気がする。
湯気の立つコーヒーに口をつけながら、小さく息を吐いた。
――あの頃の俺に、言ってやりたい。
「大丈夫。ちゃんと笑えてるよ」って。
携帯のアラームがまた鳴った。
今日も、走り続ける日が始まる。
――――――スタジオのドアを開けた瞬間、すでにわいわいと声が飛び交っていた。
メイクルームにはみんなの私服姿が散らばっていて、まだ本番前のゆるい空気が流れてる。
「おっはよ〜! ふっかさん、顔むくんでね?」
真っ先にそう言ってきたのは、ラフなスウェット姿のラウール。
「いや、朝5時から起きてたらそりゃむくむよ。てか、誰よりもお前のテンションがむくんでない?」
「意味わかんない~」って、すぐに佐久間が間に入って笑いながらツッコむ。
その声に引っ張られるように、舘さんが静かに微笑んで、「深澤の言葉選び、たまに天才的なんだよね」とか言い出して、向井が「それ褒めてるん?いじってるん?」ってすかさず反応。
誰かが笑えば、すぐに誰かがつっこむ。
冗談が冗談のまま流れていく、心地よい“日常”。
その輪の中で、照は少し離れた場所で衣装の確認をしていた。
でも、耳はちゃんとこっちに向いていて、俺らの会話に小さく口元を緩めている。
「お前ら、朝からうるさいな〜」なんて言いながらも、優しい目でみんなを見ていて、
その視線は、どこか家族みたいで。
なんだかんだ、こうして笑ってる照を見てると落ち着くんだよな。
長い下積みを一緒に歩いてきた時間があるから、言葉にしなくても通じる何かがあって。
不器用なくせに、人一倍まわりを見て、気づいて、でも出しゃばらずに支えてくれてる。
「照、今日の髪型めっちゃ似合ってるじゃん」
俺がふいにそう言うと、照はちょっと照れたように視線をそらして、
「ふざけんなよ、そういうの急に言うなよ」って、言いながら笑った。
声は低いのに、なんか…安心するんだよな。
笑い声と柔らかい空気に包まれて、ふと、心の奥で思った。
──こんな日々が、ずっと続けばいいのに。
それはただの願望じゃなくて、祈りにも近かった。
喉の奥に、まだ名前のつかない不安がひとしずく、落ちた気がした。
――――――――――
グループの撮影が終わった午後。
俺はいつものようにロケバスで帰って、ぐったりと玄関のドアを開けた。
まだ日は落ちきっていないのに、部屋の中はやけに静かで、どこか物寂しかった。
靴を脱いで、ソファに荷物を放り投げようとした瞬間、
「深澤さん…いらっしゃいますか?」
外から突然、男の声がした。
「……え?」
インターホンではない。
玄関ドアのすぐ外で、直接声をかけられるのは滅多にない。
警戒しながらドアを開けると、そこにはスーツ姿の大家さんが立っていた。
「ああ、ちょうどよかった。何度か連絡したんですけどね。更新のお返事、いただけなかったので…」
淡々とした口調が、逆に胸に突き刺さった。
「次の方、すでに決まりまして。月末には明け渡しということでお願いします。」
──え?
言葉の意味を一瞬で理解できなかった。
目の前が、じわっと暗くなる感覚。
「……更新、え……?」
「お手元にお知らせ届いてるはずです。何度か催促の書類も…では、よろしくお願いしますね」
丁寧に頭を下げて去っていく大家さん。
その背中を追いかける余裕もなく、俺はドアをゆっくり閉めた。
静まり返った部屋。
時計の針の音だけが、やけに耳に響く。
「……郵便……」
呟くように言って、ようやく体が動いた。
玄関脇の棚。ロケ弁や台本に紛れて、ずっと「後で見る」って言い訳してきた郵便物の山。
それを手当たり次第に引っかき回す。
広告、ファンクラブの案内、公共料金の通知……その奥に、
くしゃっと折れた一通の封筒があった。
――更新のお知らせ。
震える手で中身を引き出す。
しっかりと記された「更新期限:今月10日」の文字。
もう過ぎてる。
何日も前に、過ぎてる。
ドン、と何かが胸の奥に落ちた。
深く、重く。
「……うそ、でしょ……」
頭の中が真っ白になる。
この部屋、この空気、この場所で過ごした日々が、まるごと手のひらからこぼれ落ちていく感覚。
気づいたら、ソファの端に腰を落としていた。
カレンダーの上に置きっぱなしの、昨日の台本が揺れていた。
笑って、走って、毎日がめまぐるしく過ぎていく中で、
大事なものを、ひとつ、見落としていた。
「どうしよう……」
その声すら、自分のものじゃないみたいだった。
―――――――――――
「……家、なくなった」
ぽつりと口にした言葉に、瞬間、空気が止まった。
いつものように集合して、収録前のメイク中。
各自が衣装に着替えたり、台本を読み込んだり、スマホをいじったりしてる控室。
その真ん中で、俺は鏡越しに呟いた。
「え? なに? また冗談?」
康二が軽く笑いながらこっちを見る。
「今のはボケ?拾っていいやつ?捨てるやつ?」
佐久間がツッコんでくる。
「いや、マジ。……冗談じゃなくて、ほんとに、家なくなった」
言った瞬間、鏡越しに映る自分の顔が笑えてないことに気づいた。
口角が上がらない。目も、どこか虚ろだった。
「え、なに?どういうこと?」
舘さんがゆっくりと身を起こす。
「追い出されたってこと?ふっかさん、やらかした?笑」
ラウールが悪戯っぽく笑いながら言うけど、俺はうまく返せなかった。
「あのさ……契約更新、忘れてたんだよ。完全に。大家さん来てさ、次もう入る人決まったって言われて……。月末までに出てってくれって」
「マジかよ……」
誰かの声がかすかに漏れる。
「とりあえず、ホテルとか行けば?」
康二が気を遣ったように口を開く。
軽い調子を保ちつつも、明らかに目が真剣になってる。
「ホテルか〜……うん、まあ選択肢としてはそれしかないんだけど……」
言いながら、自然と肩が落ちた。
「でも、次の部屋探すまでずっとホテルってなったら、出費えぐいじゃん?長引いたら何十万って飛ぶでしょ。引っ越し代もあるし……しかもこの忙しさで部屋探しとか、現実味なくて……」
口に出せば出すほど、現実が重くのしかかる。
頭では冷静でいようとしてるのに、心が全然追いついてこない。
「自分でもね、うっすら気づいてたの。やばいかもって。でも、連日ロケ入ってて、帰ってきたらもうクタクタで……郵便も溜まってて、後回しにしちゃって……気づいたら、期限切れてた」
「……」
誰も、すぐに何も言わなかった。
その沈黙が、あったかくて、少しだけ苦しかった。
「家ってさ、当たり前じゃないんだなって、今さら思ったわ。帰る場所があるって、めちゃくちゃありがたいことだったんだなって……思い知らされた感じ」
乾いた笑い声を無理に漏らしたけど、それは全然笑いにならなかった。
喉の奥がきゅっと締まって、花を吐いてしまいそうな感覚すらあった。
そんなときだった。
少し離れたところで黙って話を聞いていた岩本が、静かに口を開いた。
「……ふっか」
俺が顔を上げると、照はまっすぐに俺を見ていた。
その視線は驚くほどまっすぐで、温度があった。
「……うち、空き部屋あるよ」
その一言に、一瞬だけ時が止まった気がした。
「……え? まじ? いいの? 照?」
思わず声が裏返る。
重かった胸がふっと軽くなって、反射的に身を乗り出していた。
照はちょっとあきれたように、でもどこか優しい目で俺を見て、
「なんだよ。さっきまであんなに落ち込んでたから“いいよ”って言ったのに、もう回復かよ」
「いや、そりゃするよ!だって住む場所なくなるかもって思ってたのに、急に神の声きたら元気にもなるわ!」
「神って……」
照は小さく吹き出して、髪をかきあげる。
「まあ、空いてる部屋あるし、生活リズムも大体合ってるし。問題ないっしょ」
「え、ほんとに? 本気で? 冗談じゃなく?」
「おう。これで問題解決じゃん」
にこりともしない、いつもの照の言い方なのに、
そこにはちゃんとした“安心”が詰まっていた。
「うわ〜……なんか、ごめん。照ってそういうとこ、ほんとイケメンだよね……」
「そういうの急に言うな、気持ち悪い」
「ひどいな!? いや、でもマジで助かる……ありがとう、ほんとに」
少しずつ、肩の力が抜けていく。
さっきまで、目の前がぐにゃぐにゃに揺れていたのに、
今は、ピントが戻ってきたみたいに、景色がはっきり見える。
部屋のあちこちで、また日常が動き始めていた。
台本に目を落とす宮舘、スマホでストーリー撮ってる向井、後ろでふざけあう佐久間とラウール。
その真ん中で、照が静かに立っていて、俺の肩に言葉を投げてくれた。
──この人がいてくれて、よかった。
少しだけ、胸の奥に咲きかけていたあの苦しさが、そっと引いていくのを感じた。
――――――――――――
照の車がマンション前に止まったのは、午前9時を少し過ぎた頃だった。
昨日までのドタバタが嘘みたいに、空は高く晴れていて、風も穏やか。
この時期にしては珍しく、ちょっとだけ春の名残があるような、そんな朝だった。
「おーっす」
車から降りてきた照は、トレーニング用の動きやすい服に身を包み、いつもよりラフな雰囲気だった。
それだけでなんだか、こそばゆくてちょっと笑ってしまう。
「おっ、よろしくお願いします〜! 照先輩~。いやほんと助かるよ」
段ボールをひとつ抱えて玄関先に出ると、照がさっと手を差し出して受け取ってくれた。
「……てかさ、重っ。何入ってんの、これ」
「へへ、ファンからもらった手紙とか、写真とか……思い出が詰まってるやつ」
「なるほど。じゃあ丁寧に運ぶしかないな」
言葉の端っこに、照の優しさが見える。
何気ない一言なのに、じんとくる。
部屋の中は、昨日の夜中にとりあえず詰め込んだ段ボールだらけ。
照と一緒に、積み上げられた箱をひとつずつ運び出す。
「照~、いつでも俺、ダンベルにしていいからな~?」
「いや、家なら普通にダンベルあるから、そっち使うわ」
即答で返されて思わず笑った。
この絶妙な距離感、ほんと心地いい。
「それにしてもさ、ふっか……ブランド品多いな」
途中、照が開けかけの段ボールをのぞき込みながら呟く。
中には財布やら、香水やら、高そうな小物がゴロゴロ。
「あー……確かに。でももう着てない服とかもあるし、これを機に断捨離とかもありかもな~」
「それ。それ絶対やったほうがいい。俺、手伝うわ。捨てる基準めっちゃ厳しくするけど」
「なに、なんかしそう……。全部“いらない”とか言いそうじゃん」
「ふっかの私生活、乱れてそうだからな」
「なんだよソレ〜!ちゃんと掃除もしてたし、洗濯も溜め込まずにやってたもん!」
言い合いながらも、作業の手は止まらない。
二人で荷物を運び、笑いながら箱を積み上げ、
ふとしたときに目が合って、なんとなく微笑む。
ひとつ運び終えるたびに、照が「よし、あといくつ?」って声をかけてくれる。
それが、なんだか子どもの頃の夏休みみたいに、楽しくて。
小さなことを笑って話せるこの感じが、どこか懐かしくて、
思わず「なんか修学旅行みたいじゃない?」って言ったら、
照は苦笑いしながら「それは違うな」って即答してた。
でも――
あの絶望の夜からまだ数日なのに、
今、俺はこうして笑ってる。
照がいてくれるだけで、こんなにも世界が柔らかくなるなんて。
新しい生活はまだ始まったばかり。
だけどすでに、ここにしかない安心感があった。
―――――段ボールを積み終えたあと、照とふたりで車に乗り込み、そのまま午後の収録現場へ向かった。
助手席でぼんやり流れる景色を見ながら、「あ、俺いまほんとに引っ越したんだな」って、やっと実感が追いついてきた。
現場ではいつものように、わちゃわちゃと明るい空気の中で進んだ撮影。
でも、カットがかかって小さな休憩に入った瞬間、照が隣でぽつりと告げた。
「このあと、筋肉番組の打ち合わせあるから、俺ちょっと別行動になるわ」
「あ~あれか、がんばれ照先生」
「お前はちゃんと家帰って休めよ。無理すんなよ」
照は軽く笑いながらも、真っ直ぐ目を見てそう言ってくれた。
それがなんだか妙に嬉しくて、「うん」と素直に頷いた。
それから数時間後。
夕暮れがにじむ時間帯に、俺ひとりで照の家に戻った。
照のいない部屋は、驚くほど静かだった。
昼間あれだけ笑い声で溢れていたのが嘘みたいに、空気が落ち着いてる。
ソファに荷物を置きながら、ふとキッチンの方を見た。
きちんと整えられた調理台。吊るされた鍋。きれいに並んだ調味料。
──ちょっと、作ってみるか。
正直、自炊なんてまともにやったことない。
一人暮らしのときはコンビニ弁当か、出前かウーバーばっかだったし、
たまに食材を買っても、袋のまま冷蔵庫で眠らせてしまってた。
でも、今は違う。
“お世話になってる”って気持ちが、背中を押した。
「とりあえず、炒め物……とか?」
冷蔵庫を開けると、整理された中に、野菜と鶏むね肉。
ありがたいことに、もう切ってあるネギまであった。
エプロンを探してみたら、引き出しに入っていたシンプルな黒のエプロン。
それをそっと首にかけて、呼吸を整える。
包丁を握る手は、少し汗ばんでいた。
ネギを炒めるだけなのに、なぜか緊張する。
「……ネギってこんなすぐ焦げるんだっけ?」
じゅうっと油のはねる音が大きく感じる。
フライパンの中でネギが色づいていくのを見つめながら、火加減を迷う。
鶏肉を入れてみたけど、タイミングが合ってるのか不安で、何度も照の顔が浮かぶ。
「たんぱく質とってこ」とか言いながら、楽しそうに作ってたな、あの人。
味付けは……照の家にあるからといって、使い慣れてるわけじゃない。
塩、醤油、みりん、あと砂糖?……分量がわからなくて、スマホで「鶏肉 ネギ 炒め物 簡単」で調べた。
火を止めて、できた料理は、見た目はまあまあ。
焦げ目もついてて、それなりに「料理」っぽい。
それでも、達成感はあった。
自分の手で、誰かのために作るって、こんなに緊張して、でもあたたかいものなんだ。
照、喜んでくれるかな。
そんなことを思いながら、鍋の蓋をして、テーブルの上にそっと置いた。
――――――ふと思い出してスマホを開いた。
共有しているグループのスケジュールLINE。
今日の照の打ち合わせは、だいたい19時半には終わるはずだった。
「そろそろ帰ってくるかな……」
湯気の立つフライパンを見つめながら、小さく独りごとをこぼした、その瞬間。
「ただいまー」
玄関のドアが開く音。
照の、ちょっと低めの、でもどこか安心する声。
俺は思わず、ぴょこんと立ち上がって玄関の方へ顔を出す。
「おかえり〜!ちょうどいいタイミング!ごはん、できてるぞ!」
「……え?」
ブーツを脱ぎながら、照が一瞬きょとんとした顔をした。
まるで、自分の家の冷蔵庫が勝手に動き出したくらいの驚き方。
「え、ふっかが? 料理?……したの?」
「したの!」
俺は胸を張ってキッチンを指差す。
「見てみなよ、ちゃんと一汁一炒め!……いや、炒め物しかないけど」
照は上着を脱ぎながら、キッチンに目をやる。
テーブルの上に置かれた湯気の立つ皿、取り皿、箸。
ちゃんと照の分も並べてある。
「……わあ、すごいな。……なんか、見た目は想像よりちゃんとしてる」
「おい、想像どんだけハードル低かったんだよ!」
「いや、悪い意味じゃなくて……まじで、やればできんじゃん」
照は少し笑いながら洗面所のほうへ向かっていく。
「とりあえず手ぇ洗ってくる」
その背中を見ながら、なんだかくすぐったいような、嬉しいような気持ちになる。
キッチンの空気には、まだほんのり炒めたネギと鶏肉の香りが残っていた。
数分後、照が戻ってきてテーブルにつくと、
箸を手に取ってから少しだけ間を置いて、俺の顔を見た。
「じゃあ……いただきます」
「どーぞどーぞ、自信作です」
照は箸で鶏肉をひと切れつまみ、ぱくりと口に運んだ。
もぐもぐ、もぐもぐ。
ゆっくり噛んで、味わっているらしい。
その間、俺はなんだか緊張して視線が泳ぐ。
「……まぁ……美味しいの部類、かな」
「は? なんで“かな”なの?」
「いや、悪くないよ。ちゃんと味もしてるし、食感もいいし」
「だからそれ素直に“おいしい”って言いなさいよ」
照は少し肩をすくめて、照れくさそうに笑った。
「おいしい、です。ふっか、料理、ちゃんとできてた」
「ふっふっふ。見直したろ?」
「うん、まあ……思ってたより、ずっと」
「おい、それって今までどんだけ期待されてなかったんだよ」
「……それにしても、こうやって帰ってきて誰かがごはん作って待っててくれるの、変な感じ」
「俺も初めてだよ、こんなちゃんとした夕飯つくったの。でもなんか、こういうの、いいなって」
二人で並んで座って、同じ皿をつつきながら、
照明の下で笑い合う時間が、じわじわと胸に染み込んでくる。
静かだけどあたたかい。
騒がしくないのに、心が満ちていく。
この空間ごと、守りたいと思った。
──こんな日々が、少しでも長く続けばいいのに。
胸の奥で、またそっと願いが芽吹いた。
――――――――――
控え室の空気が、どこかいつもより明るかった。
今日は久々に、全員が揃っての収録。
リハーサルを終えて、それぞれ衣装のままソファや椅子に腰掛け、待ち時間におのおのくつろいでいる。
雑談が飛び交い、笑いが絶えない。
誰かがスマホで撮った動画を見せれば、すぐさま「それ保存させて!」と騒ぎになる。
こういう時間が、俺は昔から好きだった。
何気ないのに、ずっと残っていくような瞬間。
そんな中、向かいに座っていた康二が、ふいに声をかけてきた。
「ふっかさん、照兄の部屋住んで、どうなん?快適?」
ニヤリと笑って、ちょっと茶化すような口調。
他のメンバーも自然と会話に耳を傾ける。
「んー? まあ……順調かな」
俺は肩をすくめて答えた。
正直、順調どころじゃない。あまりにも快適すぎて、自分でも驚いてるくらいだ。
「そっか、ほんなら……新しい物件探しは進んでるん?」
その何気ないひとことに、心臓が一瞬だけ、ぴくりと跳ねた。
「……え?」
思わず素っ頓狂な声が漏れる。
会話の流れが止まり、周りが一瞬こちらを見る。
「えって……まさか、忘れてたん?」
康二の目がじっと俺を見つめる。驚きというより、呆れと笑いがまじったような表情で。
「あー……あぁ……うん、まあ、ちょっとだけ……」
曖昧な笑みを浮かべながら視線を落とす。
手元に置いたペットボトルのラベルを無意味に撫でながら、心の中では言い訳を必死に探していた。
照の家。
広くて静かで、なにより一緒にいる時間が落ち着く。
生活リズムも合ってて、何もかもが心地いい。
──だから、探してなかったんだ。
意識的に後回しにしたわけじゃない。ただ、居心地が良すぎた。
照の部屋は、仮住まい。
気づけば心がすっかり馴染んでいて、
“次の部屋を探す”という本来の目的が、霞んでいた。
──ずっと、このままでもいい。
……いや、そんなことは、言えるわけがない。
――――――――――
「さあ、ここからはロケVTRをご覧ください〜!」
MCの明るい声がスタジオに響き渡り、照明が少し落とされた。
スタジオの隅にある大型モニターが点灯し、軽快なBGMと共に照の姿が映し出される。
「あー、これこの前のロケのやつじゃん」
誰かがそう言って笑う。
俺も、つられて笑った……ふりをした。
画面の中の照は、いつも通りだった。
柔らかな笑顔でカメラを見て、隣には今をときめく若手女優。
二人並んで商店街を歩いたり、服を選び合ったり、
ときおり肩が触れそうなくらいの距離で、楽しげに笑い合っている。
「すごいお似合い〜」
「照、めっちゃ楽しそうじゃん!」
スタジオにいる誰もが、冗談交じりの声で盛り上がる。
ほんのり浮かれた空気、笑いの混じる声、明るい照明。
でも、俺の中だけ、違っていた。
胸の奥で、何かがきゅうっと縮こまる。
画面の中で自然に微笑む照を見ていると、
まるで自分の知らない“照”がそこにいるみたいで、
その距離が、どうしようもなく寂しかった。
今、あの人は誰かの隣で、
俺じゃない誰かと同じ景色を見て、
同じ温度で笑ってる。
ただのロケだ。
ただの仕事だ。
わかってる。
そんなの、百も承知してるのに。
なぜか、喉の奥がつかえるように苦しくて、
笑ってるフリをしながら、指先に力が入りすぎていた。
膝の上で組んだ手が、じっとりと汗ばんでいる。
──ああ、俺、こんなふうに照のこと見てたんだ。
今さら自覚する。
ただの“居候”のはずだったのに、
いつの間にか、照の隣が当たり前みたいになってて、
“それを誰かに奪われる”という想像だけで、こんなにも胸が痛い。
照の笑顔。
その笑顔に引き寄せられるように笑う女優。
スタジオの明かりが落ちてるのをいいことに、
俺は瞬きを一度多くして、目頭をそっとぬぐった。
──こんな気持ち、なかったことにしたかったのに。
ズキズキと疼き出した心の奥。
―――――――――――
玄関のドアを開けると、部屋の中はしんと静まり返っていた。
電気もついていない。照は、まだ打ち合わせから戻っていないらしい。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって、小さく声を落とす。
返事はない。
当たり前のことなのに、少しだけ胸がざわついた。
ソファの端に荷物を置いて、そのまま無言で腰を下ろす。
リビングのテーブルには、朝飲みかけのコーヒーカップがそのまま残っていた。
照のものだ。
今日の収録現場。
モニターの中の照は、いつも通りだった。
優しくて、気配り上手で、場の空気を読むことができて。
隣にいた女優さんと肩を並べて、笑い合っていた。
あれはただのロケ、ただの演出、ただの仕事――
そんなこと、何度も自分に言い聞かせた。
でも、心はどうしても追いついてくれなかった。
「……なんで、あんなに、しんどかったんだろうな」
照は学生の頃からずっと一緒だった。
夢を追いかけて、舞台袖で肩を並べて、同じ壁にぶつかって、
何度も励まし合って、何度も笑って、
そうやってここまで来た。
ずっと“仲間”で、“同志”で、“信頼する相手”だったはずなのに。
一緒に住み始めてから、何かが変わった。
照が朝、黙って淹れてくれたコーヒー。
帰ってきたときの「おかえり」の声。
何も言わなくても、そっと出してくれる水。
自分では見落としていたような、あたたかさの粒を
毎日の生活の中でいくつも拾ってしまっている。
「……楽しかったんだ、俺」
それが、ただの感謝じゃないことに気づく。
誰かと住むって、こういうことなんだと、少し遅れて知ってしまった。
「だから、あんな……親しそうにしてるの、見たくなかったんだよな」
自分の声が、ソファのクッションに吸い込まれていく。
そのとき、突然、喉の奥がぐっと締めつけられた。
「……っ」
息が詰まる。
胃の奥から、何かが逆流するような感覚。
頭がふわっと遠くなり、慌てて手で口元を押さえた。
そして、次の瞬間。
かすかに湿った音を立てて、指の隙間から花びらがこぼれ落ちた。
白くて、薄くて、儚い。
その小さな花弁が、ゆっくりと膝の上に落ちるのを、
俺はただ呆然と見ていた。
「……っ……な、に、これ……」
声が震える。
喉の奥がまだ詰まっていて、息を吸うたびに花の香りが微かに鼻を刺した。
やさしいはずの香りなのに、どうしてこんなに胸が苦しいんだろう。
体を折り曲げるようにして、落ちた花びらを両手でそっとすくう。
柔らかくて、でもしっかりと“現実”の手触りがあった。
──幻覚じゃない。
手のひらの上に確かに存在する、その花が、
俺の体の中から出てきたという事実が、
少しずつ、でも確実に現実味を帯びてくる。
「やばい……なにこれ……病気? なんの……?」
思考がまとまらないまま、ポケットからスマホを取り出して検索画面を開く。
指が震えて、うまく入力できない。
それでもなんとか打ち込んだ文字は、
「花 吐く 原因」
検索ボタンを押した瞬間、いくつもの見出しが並んだ。
“花吐き病(はなはきびょう)とは?”
“恋の病が生む謎の症状”
“心に秘めた想いが、身体を蝕む”
その中のひとつを開くと、目に飛び込んできたのは、こう書かれていた。
花吐き病とは、伝えられない恋心が原因で、喉の奥から花を吐いてしまう病。
片想い、叶わぬ恋、嫉妬や孤独といった感情が蓄積されることで発症することがある。
吐き出す花には感情の色が反映されると言われ、白い花は“嫉妬”の象徴とされている。
「……嫉妬……?」
口の中でその言葉を繰り返す。
途端に、背筋がひやりと冷えた。
あの映像。
女優さんと並ぶ照の笑顔。
隣にいるのが“俺じゃなかった”というだけで、
どうしようもなく胸が痛くなった。
ただの仕事だって、何度も言い聞かせたのに。
言葉では押さえられなかったこの感情。
それが、“嫉妬”――
「そんな、バカな……」
でも、全部が繋がってしまう。
居心地のよすぎた照の家。
毎日の何気ない優しさ。
どんどん知っていく“今まで知らなかった照”。
それが積もって、あふれて、
そして、花になった。
喉の奥に、まだ何かが残っている気がして、そっと唾を飲み込む。
ほんのり花の香りが鼻に抜けて、思わず目を閉じた。
──俺、照のこと、そんなふうに思ってたのか。
ようやく認めかけたその想いが、
自分でも怖いくらい重くて、苦しくて、
でも、もう知らなかったふりはできなかった。
手のひらの白い花が、
“この気持ちは、本物だ”と、静かに語っている気がした。
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