大きな物見塔には、見張りが三人残っていた。普段は四名で各方角を見張っている。
王城の塔よりもさらに一段高く、完全に全方位を見渡せる高閣。屋根が一回り小さいのは、雨避けの役割よりも直上の確認を優先したためだろう。
そこは、イザたち四人が増えても手狭さを感じないほどに、自由のきく広さがあった。
イザはその開放的な見晴らしに、少し心が動いた。
一段高い台地にある王城に建てたものであるから、大きく広がる王都さえ完全に一望出来たのだ。
さらには王都を囲う塀の、さらに向こうまで。森の広がる地平や、その狭間から僅かに見える平原の地平は、傾きかけた太陽によって赤らんだ光の境界を彩っている。
「これが、王城からの本当の眺めなんだ」
感慨として漏れたイザのつぶやきは、突風でかき消え誰にも聞こえなかったが。
上空から降りてくる風が、彼女のプラチナブロンドを巻き上げている。
その舞い続ける髪を手で押さえたせいで、纏っただけの白い布が捲れて大きなスリットを生んだ。白い足と腰だけではなく、へその上までが露わになった。
一緒に登った伝令や政務役の後ろから、ムメイが即座に反応して布を掴んだ。そのお陰で、柔肌を見張りにも晒したのは一瞬だけであったが。
「今さら気にしないのに。ムメイは優しいのね」
「お前がその調子だから、俺はずっとお目付け役を降りられん」
「あら、任期なんてないわよ?」
「そうだったか?」
「最初からそう決まってたじゃない」
「なるほど?」
情景による戯れか、イザはそこらに居る無邪気な少女のように見えた。
常に顔を見せないムメイは、それでも優しく微笑んでいるように見えた。
強く吹く風が、彼女の憎悪をひと時の間だけ、払ってくれたのかもしれない。
その二人に引き込まれそうだった他の者たちは、しかし、風が凪いだ瞬間に我に返った。
「イザ様! あれに見えるのが反乱の軍勢です。先ほどと位置が変わっておりませんので、おそらく今日の進軍はあそこまででしょう!」
その必死の声に、イザの瞳からまた、光が消えた。
そこにはいつもの昏い影が落ちている。
「あれって、やっぱり反乱なの? これまで考えなかったわけじゃないけど」
確認を欲しがるイザに、ムメイが説明を足した。
「掲げている旗は二つ。公爵家の一つと、そして北西の辺境伯のもの。辺境領に嫁いだ公爵の娘が居たはずだ。夫婦して、私兵で打って出たようだ」
「さすがは諜報員ね」
見張りも伝令も、政務担当も、魔族はこの王国について詳しくない。
諜報というものが不要だった強い力は、他種族を治めるには不向きだった。もしくは、もっと絶大な力を示さなくてはならない。
それを理解するには、さらに時間を要するのだろう。
ゆえにムメイという存在は、必要不可欠のものだった。
「反乱であるのは間違いない。イザ、どうする?」
「……数は、どの程度だと思う? 報告通りくらい?」
「直近の情報通りなら、多くて五万」
「結構居るわね。辺境伯って、そんなに私兵持ってるんだ」
「辺境ならでは、だろうな。市民が半分、兵士みたいなもんだ。誰もが土地を守るために戦う」
「あぁ、そういう……」
つまり、存亡をかけて王都奪還を目指して来ているということだ。
イザはそれを理解して、数秒考えた。
「ということは。あれを全滅させれば、あっちからの反乱はもう二度と起きないのね」
「そうなるが、他国に道を開けるに等しいぞ」
「どうせ、全軍でこちらに来ているんだもの。乗じて何かしてくるのは、変わらないわ」
「それもそうだ」
イザとムメイの会話の意図に、政務担当が噛みついた。
「さらに戦禍を拡大するというのか! いくら魔族とて、大陸全土を巻き込む余力はないぞ!」
金髪碧眼の彼は、とんでもない事態になっていることに、ようやく気が付いたのだった。
しかし、それを止める術が何もないことにも。
ただ今は、イザを責めることで己の動悸をどうにか抑えるしかなかった。
大陸全土……いや、人間の全てを敵にした戦争が、始まってしまったのだと。
「今さら過ぎない? 私が魔王として、この王国を落とした時点でそうなっているの。いいえ、人間が私を敵に回した時点で、すでにこうなると決まっていたわ」
イザの瞳は、ただ昏いだけではなかった。
傾きを強めた日の光が、その深淵の少しを照らして見せたものは、大きな渦だった。
漆黒が大渦を巻き、全てを呑み込まんとしている。
金髪碧眼の彼は、真横でそれが見えてしまった。
この者は、もはや常軌を逸している。
これを魔王として受け入れた時点で、魔族の命運は決してしまったのだ。
絶望に向かい、全てを滅ぼすのだ。
我ら魔族を巻き込んで、この者の憎悪を晴らすための戦争を、これから永遠に繰り返すことになる。
そこまでを詠み取り、彼は膝から崩れ落ちた。
「イザ……お前は、止まるつもりなど無いのか」
その言葉は、渾身を振り絞って強く吐き出した。
これが届くならば、僅かな希望が持てると信じて。
「……さすがに、気が付いてしまったのね」
「貴様……!」
「最後まで、付き合ってもらうわよ? その代わり、相応の力があることを見せてあげる」
そう静かに告げる彼女を見上げて、彼は希望を捨てた。
イザは、憎悪に呑まれても美しいまま、微塵も顔が歪んでいない。
むしろ神色(しんしょく)自若(じじゃく)の様は、どこか神々しさまでも感じさせる。さらに手の届かない、峻(しゅん)嶺(れい)に咲く神の花のように。
そしてそのイザが、物見塔の端まで歩み出て手をかざした。
手で押さえていた髪がまた、風で巻き上がる。
「生中な力に溺れ頼るバカほど、容易いものはないわね。そこに居ると教えてくれるなんて、とっても可愛いわ」
イザは機嫌よく奏でるようにそう言うと、もう一言最後に、吐き捨てた。
「呆れるほどに」
反乱軍を冷たく睨み据えるその双眸は、底の無い深海よりも昏い。
生きる糧の全てを奪われ、絶望と怨念だけで心臓を動かし続けるイザにとって、何万人を殺そうとも何も感じない。
それが同族の人間であろうと、仇成す者全てを許さない。
ただ、敵に向けてその力を揮い続けることだけが、己の存在を感じられるのだった。
「魔王が私であると、伝えたはずよ。静かにしていれば、何もしないと伝えたはずよ。私を討とうとする愚かな人間たち……いいえ、姿が人というだけ。虫けら以下の知能で、理解できないのね」
まるでそれが詠唱であるかのように、辺り一帯から魔力がイザに集束してゆく。
「私の裁きの炎は、とても熱いわよ」
物見塔に居る全員が、イザの凄まじい魔力に怯えていた。
何にも動じないムメイでさえ、その一歩を退いたほどに。
「顕現せよ――炎神より放たれし極熱の槍(アグニスアストラ)」
イザは静かに発した。
そこに居る誰もが、その魔力量とあまりに相反する穏やかな声に、恐怖を覚えてイザを見た。
絶世の美女。それがそこに立っているという現実をどうにも受け入れられないのは、畏怖のせいだろうか。
そして、彼女の放ったそれは、誰も知らない極炎の魔法だった。
魔導の本家と言える魔族さえ誰も知らぬ、未知の力であった。
――はるか天空より
――その空さえをも穿つように
――大気を引き裂く轟音さえ置き去りにした、超音速の槍。
目にした誰もが、そう語り継いだ。
それが極熱の火炎であることなど、撃った本人にしか分からなかっただろう。
もしくは光としてなら、誰もが認識した。
先ず、強大な光の帯がその地を中心として降りた。神々しい何かを予感させるほどの、青い光の渦。
その直後に、大気も空も、その一帯の全てを引き裂いたかのような稲光と轟雷が鳴り響いた。
まさしく神の裁きが、そこに落ちたのだと誰もが恐れた。
王都にて目撃した全ての者は、恐れのあまりに立ち尽くすことしか出来ず、その光と音によって、目と耳の機能をしばらく失った。
続いて吹き荒れる熱風が周囲の森を焼いて尚且つ、抗うこともさせずに吹き飛ばした。
それらが木っ端微塵になる暇もなく、燃え尽きる程の極炎。
しかし、その雷の嵐も熱風も、ただの余波にすぎない。
その中心に居た五万を超える人間は、熱線とも光ともつかない神の炎で消し飛んだ。
痛みを感じる間があっただろうか。
熱に苦しむひと時があっただろうか。
人の理解を超えたその光の帯に包まれ、ただ消滅した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!