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のろのろと身を起こし、辺りを見る。
まずは自分が臥していた事に驚いたが、どうにも周辺の景色が妙だ。
さっきまで、広い運河を望む段丘の近くにいた筈なのに。
今はどういう訳か、公園の中心部、並木通りのベンチに寝そべっている。
もちろん、西端からここまで、自分の足で移動した覚えはない。
「わたし、寝て……? いや、意識……、飛んでた?」
「や、そうじゃ無え」
私が問うと、史さんは場都が悪そうに顔を背けた。
このヒトの、こんな表情は初めて見た。
まるで、悪戯を見咎められた子供のような。
それでもきちんと説明を加えてくれる辺り、彼の性分が滲んでいるようだった。
その説明に納得がいくかどうか、それはまた別の話ではあるが。
「幻覚ってぇのか、そういうのを専門に扱う神さんが居てな、欧州《ギリシャ》のほうに」
「幻覚………。 それを、見てた?」
それよりも気になる語意はあったが、考えを巡らせようにも、頭が働かない。
「……お前さん、どこまで覚えてる?」
「え? 覚えて……。 公園に着いて、運河のトコで人影を見て………。 あれ?」
どうにも記憶が曖昧だ。
起き掛けの軽い混乱とは違う。 何かがすっぽりと抜け落ちているような。
「思い出せねぇんなら止めとけ。 無理に思い出すこっちゃ無え」
「……ギリシャっていうのは?」
「あ? あぁ、パーシテアー」
パーシテアーというと、ギリシャ神話に登場する女神の名前だったか。
頭は混乱しているが、それがまるで他人事のように感じられる程度には、心の方は落ち着いている。
なるほどそういう事かと納得した。
彼女が司る権能は、幻覚の他に“寛ぎ”。 安らかな眠りを補佐する役割があった筈だ。
「呼んだの? その神さまを」
「いんや? 行って頼んできた」
「え? どこへ?」
「ギリシャくんだりまで」
ちょっと言ってる意味が分からないが、冗談の類でないことだけは解る。
そもそも、彼には神足通があるので、距離のあれこれを問うのは野暮だろう。
「なんでそんな………」
「日本にゃ居ねえからな。 幻覚幻術を専門にする神ぁ」
「え……?」
これに、思いがけずふゆさんと束帯姿の少女──、愈女ちゃんが反応した。
「それは誠でしょうか?」と、身を乗り出して問う。 どちらも真剣な表情だ。
「お? おぉ。 なんだ? 何かあんのかね?」
「いえ………」
「だいたい、知ってんだろ? お前さん方も」
「いえ……、そうですね。 あなたが仰るのなら、そうなのでしょうね」
これも、一つのお国柄と言えるだろうか。
権能ひとつを見ても、海外の神々は直線的な傾向にあって、それそのものに特化した神が多いような気がする。
対して、わが国の神々は、どちらかと言えば曲線的。 角を立てず、他との折り合いを優先する神が主流だ。
「私に、幻覚を見せた………?」
少しずつ、頭がまわり始めた。
状況の整理こそ覚束ないが、自分が置かれた状況の方は、何となく理解できた。
「悪いな。 許せとは言わねえが──」
「ほのっちが……?」
「………………」
彼は応じず、苦虫を噛み潰したような表情をした。
間違いない。 これを仕組んだのは友人で、きっかけは恐らく、大社で交わした不可解なやり取りの中にあるのではないか。
『私たち、お友達ですよね?』
何だろう。 胸騒ぎがする。
そういえば、彼女の姿が見当たらない。
「ほのっちは──」
「止めとけ」
史さんがピシャリと言った。
まるで言霊にでも縛られたように、たちまち身体が言うことを聞かなくなった。
「元はと言やぁ、巻き込んじまった俺らが言うのもアレだがな……」
いつになく険しい表情。 こちらに向けた感情というよりは、まるで胸の痛みを我慢しているような。
「“こっち”に深いも浅いも無えんだぜ?」
途端に、心臓が嫌な跳ね方をした。
やっぱり、このヒトには筒抜けだ。
「でも、それは………」
どこまでが安全で、どこからが危険か。
それを把握しようと努めるのは、あくまでこれから先も、この友人たちと一緒にいるための方策で。
「山ってのはな? 一歩でも入っちまえば、そこはもう獣の領分だ」
“たとえ、手前のすぐ後ろに舗装された道があろうとな”と、彼は付け加えた。
言い得て妙だ。 山を異界と表した昔人の情趣が、よく偲ばれる。
そこに人間たちのルールは通用しない。
「まだ町が見えてんなら、ここいらで引き返した方がいいんじゃねえか?」
なにも言い返せなかった。
彼が神さまだからとか、そんな月並な理由からじゃない。
その言葉が正論すぎて、反論する余地がなかったのだ。
「なんだそれ……?」
ところが、これに真っ向から食って掛かる者がいた。
「兄やん、そんなダセぇこと言う奴だったんかよ!」
今にも掴み掛かりそうな勢いで、幸介が彼に詰め寄った。
日頃から、どこか史さんに憧れのようなものを抱いている風な、この幼なじみのことだ。
拒絶された。あるいは、頭ごなしに絶縁を言い渡された気がして、ついカッとなってしまったのだろう。
「バカたれ! カッコつけてテメェら護れんなら──」
「見損ないました……!」
今度はもう片方の幼なじみが、声高に言った。
細い肩は震え、今にも泣き出しそうな表情だ。
「穂葉が誰と付き合おうと、お父さんが口出しするようなことじゃないでしょ!?」
それはその通りだが、どこか論点がズレて聞こえるのは、実に彼女らしいと思う。
いや、あながちそうとも言い切れないのか。
わが子の交友関係にまで口を出すのは、さすがに親バカが過ぎる。
「バカ野郎! んな話してんじゃ無えや! 俺はお前らを──」
「バカって言った! またバカって言ったよ!?」
「謝れや兄やん!」
なんだこれ?
もう何が何だか、しっちゃかめっちゃかな様相だ。
完全に蚊帳の外に置かれたふゆさんと愈女ちゃんにいたっては、先頃からポカンとして、一向に動じない。
思わず吹き出した私は、気を改めて深呼吸をひとつ。 胸の澱を吐き出す心持ちで、大きく吐いた。
「ほのっちは何処?」
この問いに、史さんもまた大きな嘆息を加えた後、観念したように顎先でクイと示した。
運河の方角だ。
「よっしゃ行くぜ千妃!」
幸介が少年のように駆け出した。
「千妃ちゃん!」
珠衣が私の手を取って駆け出した。
それに合わせて、走る。走る。
友達の元へ。
「ガキンチョども! ケツは俺が持ってやらぁ!」
後方から、大将の威勢の良い声が、なかばヤケクソ気味に放たれた。