言葉に詰まったイルネスが、ぐっと拳を握り締めて俯く。手は震えていて、ヒルデガルドは彼女の背中に優しく触れた。
「そろそろ休もう。今日はもう疲れたから」
ヒルデガルドの言葉を皮きりにして、ヤマヒメが立ち上がって身を反らして伸びをする。「では、わちきは用があるんでね。寝床はノキマルに案内してもらいな」と言い残し、彼女は都のどこかへ行ってしまった。
「おお、主君様はもう行ってしまわれましたか。俺もあとで行かなければ……ささ、お話されている間に部屋の用意をさせて頂きましたので、こちらへ。布団が敷いてありますので、あとはごゆるりと」
急ぐようにノキマルも、案内を終えたらすぐにヤマヒメのあとを追いかける。残された二人は、言葉を交わすこともなく、しんと静まり返った。
「こうして下に敷いてあるのは、なんとなく不思議だな。ベッドで眠るのが普通だと思っていたが。少し新鮮で面白いじゃないか」
「……そうじゃのう」
すっかり意気消沈している姿に言葉が出てこない。仕方なく布団の上に座ってどうしたものかと考えあぐねていると、イルネスはぽつりと言葉を紡ぐ。
「分かっておったんじゃ、あやつの魔力を感じた瞬間に、儂を蘇らせたのは奴であることには……。だが何も言わなんだ。奴も、儂も。目的さえ分からぬし、問い詰めたところで答えてくれる気はしなかったからのう」
アバドンが理由もなく行動をすることはない。彼にとっては何かしらの利益があったから蘇らせたのは間違いなかったが、その理由がどこまで考えても分からなかった。とにかく、自分は生き返ったのだから、それで構わないと思った。
だが、今はとにかく怖かった。自分の心臓が常に鷲掴みにされているようで、いつ消え去ってもおかしくない存在なのだ、と。
「儂を蘇らせたということは、殺すのもまた容易いじゃろう。いや、それとも、時限式に殺す術でも掛けているやもしれぬ。そう思うと、ぬしや他の者と過ごすときが大切に想えて仕方ない。情けない話じゃが、魔王ともあろう者が、こんなにも生きることにしがみつくことになるとは考えもしておらんくての」
イルネスが俯いて肩を震わせる。
「儂は戦いの最中で死ぬのは恐ろしくない。しかし、ただ死を待つことは死ぬより恐ろしい。あの者が考えることがさっぱり読めぬおかげで、強気に振舞う以外に何もできぬのが、こんなにも苦しいとは思わなかった」
もぞもぞと彼女は布団の中に潜り、丸まって被り込む。
「……イルネス。そんなに怖がらなくて大丈夫さ、奴はわざわざ自分の手を必要以上に汚すような奴じゃない。少なくとも、そういうやり方を好む奴じゃない」
性格上、アバドンは基本的に、退屈しない限りは傍観者の姿勢を崩さない。自ら手を下すとしても、ディオナのように彼の機嫌を損ねるほどでなければ興味も示さず、放っておくだろう。ヒルデガルドはそうして『自らの力量不足で絶望している者』を彼がより強く好んでいるのを理解している。
「奴は君が力を取り戻す可能性も分かっているはずだ。このホウジョウという国を選び、死にかけの私たちがどう足掻くかをどこかで眺めているに違いない。だから大丈夫。最後まで私と共に足掻こう。そして、力を取り戻そう」
もそっと布団の中からイルネスが顔を出す。今にも泣きだしそうな目をしながら、彼女は目を合わせずに、消え入りそうな声で。
「そうじゃな。儂も臆病になったものじゃ」
「弱さを知ったからだよ。それは良い事だと私は思うが」
ただ強いばかりでは見えてこなかったものが見え、知らなかったことを知り、結果的にイルネスは魔物の最上位種でありながら『優しさ』と呼ばれる感情を芽生えさせ、何かを大切にすることを覚えた。知性ある生物として進化した。
ヒルデガルドは、彼女をそう捉えていた。
「正直、色々と記憶が欠け落ちてはいるが、ひとつハッキリと言えることがあるとしたら、君はもう魔王なんかではなく、私たちの仲間だ。もし奴が君を片手間で殺すんじゃないかと不安なら、生き残る方法を共に考えよう」
黙って聞いていたイルネスが、今度はうってかわって「チッ」と大きな舌打ちをして布団の中にまた潜り込んで枕を抱き、彼女に背を向けた。
「ぬしの、そういう誰にでも優しいところが嫌いじゃ」
「好かれたいわけじゃないからな」
「分かっておる。だから嫌いなんじゃ。なんかムカつく」
ヒルデガルドも布団の中に入り、ごろんと横になって天井を仰ぎ見る。しばらくの沈黙があってから、二人はついぞ耐え切れなくなって、けらけらと笑いだす。
かつては世界の命運を賭けて争った者同士が、いつの間にか数奇な縁で行動を共にし、悩みを打ち明け、軽口も叩き合う、その不思議な空気を面白がった。
「ぬしのおかげで、儂の考えていたことが些細に思えてきたわ」
「役に立てたようで何よりだ」
「フッ……。そりゃあ、儂も負けるわけじゃな」
ごろん、と彼女はヒルデガルドへ向き直り──。
「ありがとう。儂には似合わぬ言い方やもしれんが、今は心底、ぬしのことが好きじゃ。どうかこれからもよろしく頼む」
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