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研究室には、顕微鏡の微かなピント音と、壁際の時計の針が刻む音しかなかった。
夜の冷気がほんの少し入り込んで、書類の端を揺らす。
ツナっちはデータ整理のために机に向かっていたはずなのに、視線は自然と隣に吸い寄せられていた。
くられは顕微鏡を覗き込んだまま、微動だにしない。
整った横顔がランプの明かりを受けて、睫毛の影を机に落とす。
癖のある髪がふわりと揺れ、その先端がガラス皿の光を反射した。
その瞬間、ツナっちの心臓が不意に跳ねた。
(……綺麗だな)
その考えが浮かんだのか、溢れたのか、自分でもわからなかった。
ただ、胸の奥が熱くなる。
今まで何度もこの距離で見てきたのに――どうして今日はこんなに近く感じるんだろう。
指先が、わずかに動く。
理性の声がかすかに遅れて届く。
(ダメだろ、触っちゃ――)
でも、その思考の途中で、ツナっちはもう手を伸ばしていた。
ほんの少しだけ、くられの髪に触れた。
それは驚くほど柔らかくて、光の粒をそのまま触れたみたいだった。
指の間をすり抜けていく感触が、まるで時間までも緩めていく。
触れたのは一瞬のはずなのに、心臓の音だけが延々と響いていた。
(……こんなに、温かいんだ)
気づけば、もう一度触れていた。
さっきより長く、指先で髪の束をなぞる。
ふわり、ふわり。
その柔らかさに息を呑んで、ツナっちは小さく息を漏らした。
何度も繰り返してはいけないとわかっているのに、どうしても離せなかった。
「……ツナっち?」
低く落ち着いた声が、空気を震わせた。
くられが顔を上げ、こちらを見る。
その目に、驚きと少しの戸惑いが浮かんでいた。
ツナっちは一瞬で我に返る。
「――あ、す、すみませんっ!」
慌てて手を引っ込めると、椅子が小さく軋んだ。
顔が熱い。呼吸も浅い。どう言い訳しても、この鼓動は隠せない。
くられは少し首を傾げ、何も言わずに再び顕微鏡へ目を戻した。
ただ、指先に残る感触が消えない。
柔らかくて、あたたかくて。
光を閉じ込めたようなその髪が、まだそこにある気がした。
ツナっちは資料をめくるふりをしながら、こっそり息を吐いた。
(綺麗だったな……)
そして――困惑した先生の横顔が、どうしようもなく愛しく見えて、胸の奥がまたきゅっと鳴った。