テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
遅くなった仕事の帰り道。 いつものようにコンビニに立ち寄り、ビールと夕飯を買った。
いつもなら空を見上げることなんてない。 けれど、この夜は何故か月の光が綺麗に見える。 それが少し嬉しくて、俺はやや上機嫌で家路を急いだ。
普段ならタクシーを拾う時間だが、何故かこの夜は、歩きたかった。
近所の、視界が開けた公園。 昼間は子供たちが遊んでいたのだろう、忘れ去られたスコップが砂場に刺さったまま、銀色に光っている。
その光景を横目に歩いていると、ある「異質」が目に入ってきた。
一人の女性が、公園の真ん中に立っていた。
「こんな時間に……?」
時刻は深夜1時。 住宅街の明かりも消え、遠くを走るトラックの音が微かに聞こえるだけの、無音の空間。
その誰もいない場所で、彼女は歌っていた。
白い服、短い髪。
彼女の歌は、まるで俺にメッセージを送り届けるかのようだった。 目をつむり、天を仰ぎ。 緩やかに、しなやかに。
その美しさに、俺の足は止まった。 しばらく眺めていると、女性がこちらに気がついた。
「まずい!」
気まずさに足早に去ろうとしたが、女性の声が届いた。
「あの、見ていってください。それがいいんです」
女性の目は、今宵の月光を吸い込んで、強く輝いていた。 俺はその光に射抜かれ、近くのベンチに座った。
彼女は、静寂の中、再び歌い始めた。
天に手を伸ばし、足はしなやかに地を払う。 音楽なんて、もちろん鳴っていない。 なのに、俺の耳の奥には、楽器の音が聞こえてきた。
今まで聞いたこともないような調べが、体中を駆け巡る。
……ふと気づくと、歌は終わっていた。 彼女が、こちらに向かって歩いてくる。
「あの」
「はい」 俺は少しおどけながら、返事をした。
「意味が無いと思いましたか?」
「……はい? どういうことです?」
「言葉のままですよ」
彼女は少し嬉そうに、笑みを浮かべた。 訳もわからぬ俺をよそに、彼女は勝手に話し始める。
「私が歌っていたのを見たのは、あなたが初めてです」 「いいえ。私が歌っていることを、きちんと『見てくれた』のが、あなたです」
彼女はベンチにふわっと座ると、俺の目を見つめた。
「もし、これが恋の話なら。ここから奇妙な出会いの恋愛が始まるはずですが。このシナリオを描いている人は、そうじゃないみたいなんですよね」
俺は、きょとんとして彼女を見つめた。
「わからないでしょう。実は私も、わからないのですよ。だから公園で歌ってたら、何か答えが見つかるんじゃないかと思って」
彼女はふふっ、と笑みをこぼす。
「私、馴染めなかったんです。日の光の世界に」
彼女は、俺のスーツとネクタイを静かに見つめた。
「あなたはきっと、日の光の中に住んでいる人なのですね。私はその世界を……いえ、日の光の住人になることを、私自身が拒絶してしまったんです。今は、ですけどね」
「なるほど。だから、月光の中で歌っていたわけだ」
「そうです。まさにそういう感覚に。そうしたら、あなたが来た。誰にも言ってないのに、あなたが。たまたまかもしれないけれど、始めて三日目で」
彼女は、手の平を空へと向けた。
「意外と悪くないものですよね。こういうのも」
俺は、不思議な感覚に包めていた。 彼女の言葉のすべてを理解できたわけじゃない。 けれど、月光に導かれて、俺は今、この公園で彼女と話をしている。
「あの……」
俺は、知らずに口走っていた。
「なんですか?」
「もしよかったら、あなたの名前を教えてもらえませんか?」
彼女は悩んだふりをしていたが、しばらくすると、最高の笑顔になった。
「私の名前は、一ノ瀬香花(いちのせ・こうか)。いい名前でしょ?」
「・・・・ええ。今度は一味変えられそうですね」
僕は事務所に連絡を入れた。
「プロデューサー、花ではなく、月光を見つけてきました。それも特別な香りがする月光です」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
26
#読み切り