「落ち着いて。大丈夫。……大丈夫だから」
暁人さんはトントンと私の背中を叩き、耳元で優しく「大丈夫」を繰り返す。
どれぐらい経っただろうか。
嗚咽が小さくなった頃、暁人さんは慈愛の籠もった目で見つめ、私の頬にキスをしてきた。
「……駄目……」
慰めてくれているのは分かるけれど、駄目だ。
私は弱々しく言い、彼の胸板を押し返す。
「俺の事が嫌いになった?」
そう尋ねられ、私は首を左右に振る。
「どうして泣いてたんだ? 仕事で嫌な事があった? それともお父さんの事を思い出した? 元彼の事?」
彼は何も気づいていない。
(けどそれでいい。尾行した事は知られたくないし、私が真実を知っている事にも気づいてほしくない)
惚れた弱みなのか、私はどうしても彼を〝悪人〟と思いたくなかった。
暁人さんが私を助けたのは、気に入っている蕎麦屋の娘で、ちょっと興味を持ったから。
恋人ごっこをしたのは、二億円の肩代わりに〝つまみ食い〟をしても正当化できる理由がほしかったから。
本物の恋人のように優しく接したのは、動物を拾った時のように情が沸いたから。
私は心の中でそう理由をつけ、必死に理想の〝暁人さん〟を守った。
「……一つ、お願いがあります」
「何でも言ってくれ」
「恋人契約を解消したいです。住まいもこのマンションから出て、別の場所に家を借ります。お金は必ず返しますから、家政婦の件はなかった事にしてください」
そう言うと、暁人さんはスッと真顔になった。
「どうして?」
代わりに彼から感じるのは、戸惑いと不安、微かな怒りだ。
私は暁人さんから目を逸らして答える。
「……やっぱり、お金を返すならお金で、が一番いいと思います」
「俺に抱かれるのは嫌か?」
暁人さんは私の両肩を掴み、うなるように低い声で尋ねてくる。
「……そうじゃないんです」
知っている事をすべてぶちまけてしまいたい。
それができれば、こんな問答をする事もないだろう。
けれど私は、守りたいもののために、言わない選択をした。
「じゃあ、どうして出て行く必要がある?」
彼はひたと私を見据えて尋ねる。
その眼差しから、納得できる返事を聞くまで、絶対に離さない意志の強さが窺えた。
なぜ、このマンションを出て行く必要があるのか。
その問いに、私は的確な答えを出せずにいた。
私がグルグルと考えている間も、暁人さんは少し心の揺れも見逃さないと言わんばかりに見つめてくる。
(駄目だ。下手な事を言えば余計に疑われる。このマンションに不満なんてないし、出勤するのに便利だから出て行く必要もない。暁人さんに抱かれる事を拒絶する理由……)
必死に考えて一杯一杯になった私は、ポロッと本音を零してしまった。
「…………好きになっちゃうから」
その言葉を聞いた瞬間、肩を掴む暁人さんの手が緩んだ。
虚を突かれた表情をした彼は、あれだけ険しかった目も驚きに見開いている。
(よし、この手でいこう)
暁人さんの事が好きなのは本当だから、本音を混ぜれば真実味のある理由になる。
「じゃあ、好きになって」
「えっ?」
けれど、まさかそう言われると思わず、私は思わず声を上げて彼を見た。
(……なんて顔をしてるの……)
暁人さんは微かに頬を紅潮させ、心底嬉しそうに微笑んでいた。
まるで、長年想っていた人と両想いになったような顔だ。
呆気にとられていると、暁人さんは顔を傾けてキスをしてくる。
「ん……っ、ん、だ、だから……っ」
ハッとして彼の肩を押し返すけれど、ギューッと抱きしめられてしまった。
「嬉しい……」
心の底から……という声で言われ、訳が分からない。
(だって、暁人さんには奥さんがいるんでしょう?)
言いたいのに言えないのが、もどかしくて堪らない。
「芳乃、後悔させないから、俺を好きになってくれ」
「……どうして……」
――本当にあなたが何を考えているのか、分からない。
――私だってあなたが好き。
――でも人として不誠実な事は絶対にしちゃいけないと思っているから、涙を呑んでここを出ようとしているのに。
コメント
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好き💕言えたね〜これで誤解が解けたら良いなぁ〜暁人さん、信じてるからね〜❣️って私に信じられてもですね笑