テラーノベル
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遠く、波の音が聴こえる。
目を開ければ、古びた天井。壁板の隙間から入ってくる風は塩の臭いがした。
ガラリと音を立てて戸が開かれる。
「おっ、起きてたか」
戸口を見遣ると、そこに立つ少年がニカリと笑った。
「おはよう、チヒロ。具合はどうだ?」
チヒロは筵から身を起こす。
「おはよう、ハクリ。大丈夫、今日は調子が良さそうだ」
「そっか、なら良かった」
ハクリは笑顔で頷くと、「これ朝飯」と言って千鉱に椀を渡した。椀の中には粟の粥があり、その上に焼き魚の切り身が少し乗せられている。
「ありがとう、いつもすまない」
「いいって。俺がお前と一緒に飯食いたかっただけなんだから」
そう言ってチヒロの向かいに座ると、ハクリはもう一つ持ってきていた椀の中身を箸で口に掻きこむ。チヒロも箸を取り、椀に口をつけた。
「そういえば、知ってるか?」
不意にハクリが手を止め、チヒロの方を向いて続ける。
「最近、琵琶法師を名乗る怪しい奴がこの辺をうろついているらしいぜ。少し前に近くの村にも来たらしい。誰かを探しているとか」
ハクリはチヒロをジッと見つめた。
「チヒロ、何か思い出したりは……」
「……ごめん」
チヒロが少し俯いて言うと、ハクリは慌てたように手を振る。
「あっ、その、全然良いんだ!俺こそごめん、無神経に訊いちゃって」
眉を下げて謝り、ハクリはしょぼくれたように肩を落とした。
「ただ、その琵琶法師が、もしかしたらうちの村にも来るかもしれないだろう?だから、ちょっと心配で」
「心配?」
チヒロが訊き返すと、ハクリは我に返ったようにハッとした表情をし、口籠る。
「あ、いや、その……ええと、ううんと……何というか、その……」
「その?」
不思議そうにチヒロが首を傾けると、ハクリは頬を赤くして小さく口を開いた。
「もしお前が、その琵琶法師に連れていかれたら……会えなくなっちゃうから」
「おーい、ハクリー!先に行くぞー!」
開いたままだった戸の先で、浜辺に向かって少年達が駆けていく姿が見える。その一人がこちらに振り向いて呼びかけた。
「待って!俺も行く!……んぐ、ちっ、チヒロ、じゃあ、また後でっ!」
大袈裟なくらい慌てた様子で椀の中身を全て掻き込み食べ終えると、ハクリも浜辺へと向かって走っていく。
「あ、うん……ありがとう、ハクリ」
チヒロはまだ中身の残る椀を持って座ったまま、それを見送った。
空は青く快晴。天には日が昇り、日の光を受けた海原はきらきらと輝いている。波は小さく静かで、白い浜に行ったり来たりを繰り返し、濡れた跡を残す。
そこは穏やかな村であった。海沿いにある、そこらによくあるような、漁で生計を立てる小さな漁村。海側以外の三方を山に囲まれ、隔絶されてはいたが、時折周囲の村との行き来もあった。
チヒロは、そこに流れ着いた子供だった。
しこたま水を飲んでいたが、すぐに息を吹き返し、目立った傷もなかったという。ただ、記憶を失くしていた。
意識を取り戻した時には、チヒロという己の名前以外、どこにいたのか、何をしていたのか、生い立ちも何も覚えていなかった。
意識を取り戻したばかりの頃のチヒロは碌に動くことも出来なかったが、村人達は優しく、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。お陰で、今では近場なら出歩ける程度にまで回復している。
(それでも、厄介をかけているのは変わらない)
部屋の隅に置いてあった、編みかけの漁網を広げる。村に拾われ、ある程度動けるように回復してから、チヒロは村人に何か仕事を手伝いたいと申し入れた。そうして教えてもらったのが、漁網の制作だ。漁には参加できない千鉱の、この村で役立てる精一杯の仕事。教わった村人から、『覚えが早いな、上手いもんだ』と褒められたのは、素直に嬉しかった。
漁網を編みながら、物思いにふける。
(俺は、どうしたら良いのだろう)
今は使われていない小屋に村人の好意で住まわせてもらっていた。このまま村に居ついても、ここの村人達なら嫌な顔をせず歓迎してくれるだろう。
だが、それで良いのかと、頭の隅で何かが騒めく。何も覚えていないのに、覚えていない何かに焦燥を煽られる。
「俺は……」
「チヒローっ!!」
大きな声で名を呼ばれ、びくりと肩を震わせて振り返ると、ハクリがまた戸口に立っていた。
「変な魚が獲れた!!」
「なに……変な、魚?」
「ほら、こっち!」
急かすハクリに連れられてチヒロが浜に向かうと、村人が何かを囲むように集まっている。
「なんじゃあ、こりゃあ……気味の悪い」
「まるで人の顔みたい」
人だかりの隙間から見えたのは、砂浜に広げられた魚網。
そこに、その魚はいた。
それは村人が呟いた通り、人の顔をもった、大きな魚だった。全長は七つになる子供くらいはあるだろうか。鱗があり、背鰭や尾鰭、鰓もある。他の部位は全て魚でしかないのに、その頭にあたる部分が、人の顔の形をしていた。その眼は魚のものとは違い、人のもののような瞼が半分下りている。鼻のような突起物があり、他のところは鱗で覆われているのに、その顔のような部分だけは人の皮膚のような滑らかさであった。
「なに、これ……」
何とも言えぬ不気味さに、チヒロは思わず後退る。
「わかんねぇ。大人達が引き網漁してたら、網の中に混ざっていたらしい」
ハクリが困った表情をして言った。
「あんなにでかくて食えるところありそうなのに、あの顔のせいで不味そうなのが、勿体ないよなぁ」
(……気にするの、そこなのか)
呆れると共に感心する。食糧確保は村の死活問題だ。ハクリの方が、そういう意味では現実的かつ建設的な感想かもしれない。
「どうする、こいつ」
「とりあえず、村長のところに運ぶか」
大人達の話し合いで、人面魚は一先ず村長のところに持っていき、意見を仰ぐことになった。
「チヒロは一緒に行かないのか?」
「いや、いい。俺は戻るよ」
未だ本調子ではない体は、あまり長くは出歩けない。既に少し眩暈がしていた。
「あっ、ごめん……肩に掴まるか?」
「いや、大丈夫だ。そこまでじゃない。一人で戻れるよ」
ハクリに軽く手を振って、小屋に戻る。戸を閉めるとそこに凭れ掛かり、ずるずるとそのまま座り込んだ。
(どうして、俺の体は、こんなにも……)
強まる眩暈に、軽い吐き気を感じる。
嫌気がした。
浜に流されてきたのを救われてから、もう半年が過ぎていた。溺れたとはいえ、外傷はなく、手足に異常も見られない。なのにどうしてか、体力の回復が遅かった。しばらく寝込んで筋肉も落ちていただろうし、体を動かしていればそのうち体力もつくかと思われたが、それも芳しくなかった。体を少し動かすだけで、眩暈を起こすのだ。血が足りていないのだろうと、村人達から精の付く食事を食べさせてもらったりもしたが、それでも改善は乏しかった。
(いつまでもこれじゃあ、村に迷惑ばかりかけてしまう)
眩暈が治まるのを待ち、何とか立ち上がったところで、背中越しに戸が開かれる音を聞く。
「お前が千鉱か」
「え?」
突然の呼びかけに振り向こうとして、眩暈から立ち直ったばかりの体がふらついた。体勢を崩し、倒れると思ったところで腕を掴まれる。
「え、うわっ」
掴まれた腕を引き寄せられたと思ったら、体が浮き上げられる感覚。気がつくと、チヒロは何者かに体を抱え上げられていた。
「なっ」
「大人しくしていろ」
混乱したまま、自分を抱える相手の顔を見上げる。
見覚えのない男だった。痣なのか墨を入れたのか、目の近くに線と点が刻まれている。
「降ろすぞ」
「え、あ……はい」
壁際に寄せてあった筵まで運ばれ、その上に降ろされた。座位を取ると、その正面に男も座る。
「……あの」
訳が分からないが、自分がふらついたせいで、正体不明の男の世話になってしまった。だが、自身も借り物の小屋とはいえ、いきなり勝手に入ってきた男に今更ながら警戒し、チヒロは身を固める。
抱きかかえられて中まで運ばれておいて、本当に今更だが。
「体調が悪いのなら、横になると良い」
「え……いや……大丈夫です」
いきなり現れた見知らぬ人間と二人きりの状態で、更にその目と鼻の先で寝転がれるほど図太い神経は持っていない。
「ならば、改めて訊くが。お前が千鉱か?」
男は現れた時の問いを繰り返した。
「あの……なんで俺の名を」
「村長に聞いた。浜で拾われたらしいな」
男が続ける。
「体が弱いとか」
「……」
「だから、これを持ってきた」
男が懐から包みを取り出した。男が法衣を身に纏っていることに、そこでようやく気付く。しかし男の頭には黒々とした髪が生えており、剃髪をしていなかった。
男が差し出す包みに視線をやった後、受け取らず男の顔に目を戻し、チヒロは意を決して口を開く。
「その前に、聞いておきたいのですが」
「なんだ?」
「貴方は、誰ですか」
包みが何なのかとか、どうしてここを訪れたのかとか、そういう話以前に、そもそもチヒロは男の名前さえ聞いていなかった。怪しすぎて、何であれ受け取れる訳がない。
「ああ、そういえば名乗っていなかったな。俺は幽といい、僧として諸国行脚をしている」
「法師様……」
頭髪に目をやるチヒロの様子に気づき、「ああ」と幽が自身の髪に手を伸ばす。
「この髪は、日差し除けだ。笠も持っているが、海沿いは風が強く、飛ばされてしまうからな」
「旅の法師様が、どうしてこちらに?」
「探しものがあったんだ。この村にも、その一環で立ち寄った」
「……探しものが、あった?」
過去形に引っ掛かり、チヒロは呟いた。その言い方では、まるでもう、それが見つかったかのように聞こえる。
まるでこの村で、見つかってしまったかのように。
チヒロの顔を眺め、幽は微笑んだ。
「まあ、それより、こちらが先だ」
受け取れと、改めて幽は包みを差し出す。
「これは……?」
「開けてみろ」
今度こそ手渡され、言われた通り包みを開けてみると、中には何かの切り身が入っていた。
「魚、ですか?」
「ああ。お前は拾われてから時が過ぎても中々回復せず、体が弱ったままだと村長に聞いてな。その身は、滋養がある。だから持ってきた」
その切り身は透けるような白さをしていた。村で出される魚では見たこともないくらい、輝くように。
「これは、何の魚ですか?」
訊ねると、幽は目を細め、口元で薄く笑う。
「……何だと思う?」
「……」
暑くもないのに、背筋を汗が伝う。嫌な予感がした。これを受け取るべきではないと、頭の隅で何かが騒めく。
「……俺みたいな者には、勿体のない品です。お返しします」
そう言って切り身を包み直し、返そうとすると、男が言った。
「残念だ」
そして腰を上げたかと思うと、千鉱の方に身を寄せて。
「っ!?」
その手から切り身を取り上げ、千鉱の口の中に押し込んだ。
「ふ、うっ、ぐ……お、え……っ」
口の中いっぱいに詰め込まれ、大きすぎるそれが喉の奥にひっかかる。反射的にえずいて異物を吐き出した。喉を抑えて噎せこんでいると、その横に落ちた、吐き出されたものを幽が拾う。
「仕方のない奴だ」
そう言うと、チヒロが吐き出した切り身を躊躇いなく口に含んだ。そしてその一部を噛み千切り、未だ喘ぐチヒロの頭を鷲掴む。力づくで無理矢理上向かせ、チヒロの唇に自分のものを押し付けた。
「ん、っぐ、っ!?」
口腔内へ押し入ってくるものに塞がれ、息も出来ず涙が目尻を滲ませる。抵抗しようとするも、いつの間にか、チヒロの体は筵の上に背中から押し倒され、腕も足も相手の体で抑え込まれていた。
「ぐ、ぅ……んぅ」
苦しさに、思わず口の中に押し込まれたものを呑み込む。合わさったままの幽の唇が笑みを作ったのが動きで分かった。
「……っは、あ、っはあ……っ」
ようやく口を解放され、チヒロは荒く呼吸を繰り返す。
「呑み込んだか」
上に覆い被さったまま、幽はチヒロの頬に触れた。
「これで、お前は……」
戸が激しい音を立てて開かれる。
「ッチ、先越されたか!」
突然荒々しく入ってきた新たな闖入者にチヒロが目を白黒させていると、幽が身を離し、立ち上がった。
「そうだな、もう遅い」
乱入してきた男が床に落ちたものを見る。
「……それ、食わせたんか」
「ああ」
幽が短く返した途端、部屋の中に殺気が満ちた。
「お前……っ」
乱入者の男が一歩足を踏み出す。幽は、ふう、と小さく息を吐いた。
「今日はここまでのようだな」
そう呟くと、チヒロを流し目で見る。
「また」
瞬間、外から怒号がした。
「な……に……」
一体何が起こっているのか、何一つ分からない。チヒロが呆然としていると、音に釣られ外を振り返っていた乱入者の男が顔を戻し、また舌打つ。
「逃げやがった」
幽は、部屋の中から忽然と姿を消していた。
「ここにおってもしゃあない、行くで」
「……?」
困惑したまま固まっていると、手を掴んで引かれる。
「……あの、貴方は……?」
我に返り、チヒロは自分の手を引いて歩き出そうとする男に訊ねた。
「……ああ、そうやったな……はじめましてから、やったな」
困ったように、男は笑う。
「時間ないし、とりあえず名前だけ名乗っとくわ。俺は柴や。よろしくな……チヒロ」
どうして名前を知っているのか、どうして自分を連れ出そうとするのか、疑問は尽きることなくあった。だがチヒロは何も聞かず、口を閉じる。前を向いたその横顔が、どうしてだか悲しそうに見えて、何も言えなくなったのだ。
手を引かれ、小屋の外に出る。
「……なん、で……」
そこに広がる村の光景は、一変していた。
穏やかだが、子供達が遊ぶ声や、それを窘める親の声がよく聞こえてきた集落からは、代わりのように、泣き叫ぶ声や怒声、建物が燃えて崩れ落ちる音が響き渡っている。
村は燃えていた。ごうごうと唸りを上げる火柱から、火の粉が飛ぶ。家財が燃える臭いに交じって、肉が焼け焦げるような臭いがした。火を消そうと躍起になって水をかけていた村人に火が燃え移り、地面に転がってのた打ち回る。子供を抱えた母親らしき煤だらけの人が、海の方へ向かっていくのが見えたが、途中で倒れ込んだ。
「……助けなきゃ」
親子の方に走り出そうとすると、握られたままの手を引かれて足踏む。
「なにをっ」
「君が行ってもどうにもならん。助けなら、他の奴が行った」
振り返ると、母子の元に村人らしき男が既にいて、母親を担ぎ、子供の手を引いて海に向かっていた。
「それよりも、早よここを離れなあかん」
「……なんで」
「チヒロっ!!」
声の方を見ると、ハクリがこちらに走り寄ってくる。
「っ良かった、無事だったか!」
「ハクリ……これは、一体何が」
「俺にも分からない。ただ、村長のところに行ったら、法衣を着た男がいて、法師様かなって思っていたら、村長が死んでいて……っ」
ハクリが息を詰まらせ、言葉を切った。
「法衣を着た、男……?」
呆然と繰り返す。
「ああ」
少しの間、息を整えてからハクリは続けた。
「驚いていたら、さっきの人面魚を持っていた大人達が、そいつに殺されて、人面魚を奪われた。それから、村が……」
「すまんが、もう時間がない」
それまで黙っていた柴がハクリの話を遮る。チヒロの肩を掴んで引き寄せ、空いた手で印のようなものを結んだ。
「……チヒロ?誰だ、そいつ」
「柴さん、何を」
「話とる暇も今はないんや、すまんな」
柴が言った瞬間、世界が歪む。
「っチヒロ!!」
ハクリの叫ぶ声が遠退いていく。まるで空間が歪んで引き伸ばされたかのように。歪んで捻じれて、今自分が立っているのか、どこが上なのかも分からなくなる。耳鳴りがした。
視界が真っ暗になる。
「……っハクリ!」
自分の叫ぶ声で意識が晴れた。さっきは暗闇の中にいた気がしたのに、今は眩しい。
「おっ、起きたんか」
柴が膝を付き、チヒロの顔を覗き込んだ。
「……柴さん?」
「ん、柴さんや。どっか痛いとこない?」
頭はぼんやりしていたが、体には特に不調を感じなかったので、首を振る。柴はホッとしたように息を吐いた。その傍らには、何故か琵琶が置かれている。
「本にすまんな、無理矢理連れてったりして。急に術も使ったし、驚いたやろ」
言われて思い出す。先程起こったことを。
「あの……さっき、何をしたんですか」
「んー、あれな。ちょっと術を使って、ちょちょいと移動した」
「ちょちょいと……」
全く分からない。
「……いや、それよりも、村は」
ようやく動き出した頭に、村の惨状が浮かぶ。衝動的に立ち上がろうとするも柴に肩を抑えられ、また足に力も入らず、へたり込んだ。
「村が、村の皆は……ハクリは」
「落ち着け。今、君は動ける状態じゃない。それに、例え動けたとしても、村に君を戻す訳にはいかない」
「どうして……っ」
顔を上げて詰め寄ろうとするも、それだけの動きで体がふらつく。倒れそうになるチヒロの体を柴が支えた。
「無理せんと休んでくれ、頼むから」
懇願するように柴が言う。
(村があんなことになっている時に、俺は、なんで)
自力では座っていることもままならない自分の体がもどかしくて、チヒロは唇を嚙み締めた。
「……なら、せめて教えてください」
柴の肩にしがみつき、その眼を覗き込み、問う。
「村に、何が起きたのか。あの男は、誰なのか」
焦る気持ちを抑え込み、感情を押し殺してチヒロは言った。
「どうして、貴方は俺を村から遠ざけるのか……せめて、訳を教えてください」
合わさったチヒロの眼に少したじろいだように息を吞む。そして考える素振りをした後、柴は頷いた。
「……ええよ、話したる。だけど、その代わりといってはなんやが、君は横になり。本当なら今すぐ休むべきなんやが、その様子だと無理やろうし、せめて体だけでも安静にして欲しい」
「……わかりました」
チヒロは素直に頷いて返す。
正直に言うと、どの道、体を支えられていても、座っていることさえもう辛くなっていた。柴が支えていなければ、直ぐにでも倒れ込んで地面に臥していただろう。正確には、地面ではなく筵の上にだが。現在チヒロ達がどこにいるのかは未だチヒロには分からない。見たところ、どこかの林の中ではあるものの、チヒロの体の下には筵が敷かれていた。意識を失っていたらしいチヒロを寝かせるのに、柴が地面に敷いたのだろう。名前以外、相変わらず何者かも分からない男ではあったが、話をした感じでは、悪い人ではなさそうだとチヒロは思った。思いたかったと言った方が正しいのかもしれないが。
どちらにせよ、法衣の男が家に押しかけてきてからずっと、自身を取り巻く状況が目まぐるしく変わりすぎて、もう何が何だか分からなくなっていた。もうチヒロには、目の前にいる柴と名乗る男に頼り、情報を得るしか術が残されていなかった。語られる内容が、事実であろうと法螺話であろうとも。
柴は筵の上にチヒロの体を寝かせ、大人しく聴く姿勢を見せるチヒロを眺める。息を吐くと、柴は話し始めた。
「まず、君に納得して話を聞いてもらうために、君が何であの村にいてはならんのかってところから説明するけど……良いな?」
「はい」
「君があそこにおる訳にはいかん理由、それはな、端的に言えば、あの村を更に脅かすことになりかねんからや」
柴の言葉に、チヒロは目を瞬かせる。
「……俺がいると、どうして村を脅かすことになるんですか」
「あの男が、また現れる可能性があるからや」
あの男。ハクリが言っていた。村長を殺し、村人を殺し、恐らくは村をめちゃくちゃにした男。
「……なんで」
「あの男が探していたのは、君やから」
「……俺を?」
確かに、あの男は何かを探していたとは言っていた。だが、しかし。
「どうして、あいつが俺なんかを探していたって話になるんですか。そもそも、俺はあの男とは今日が初対面だったのに」
会ったこともない相手に、探される理由が分からない。そこまで考えて、チヒロはあることに思い至った。
「あ……もしかして、俺が、記憶をなくす前に……?」
村に流されてくる前に出会っていたのだとしたら、以前の記憶を失くしているチヒロの感覚的には初めましてであっても、相手にとってはそうではなかったのかもしれない。
だがしかし、柴は違う違うと手を振る。
「君が海で流される前にあの男と会っている可能性はなくはないが、そこは重要じゃない。あの男が追っているのは、今世に限ったことではなく、君の魂そのものやから」
「……は?」
(魂……?)
困惑を露わにするチヒロの顔を見て柴は、「どこから話したらいいものか」と悩むように言った。
「そうやな……ひとつ、昔話をしようか」
どこか遠く、何かを思い出すように宙を見つめ、柴は語り出す。
ある昔話を。
昔々、あるところに、一人の僧侶がいた。その僧侶は聡明で、弁が立つため説法も達者であり、門徒からは敬われ、その僧侶がいた寺でも重宝されていた。
ある時、その僧侶は一人の稚児と出会った。その稚児は寺の近くの村に住んでおり、時折お布施の品を持って、寺に参りに来ていた。僧侶は何が琴線に触れたのか、その稚児に執着するようになった。ついには稚児を村に返さず、寺に留め置き、自身の傍に侍らそうとした。稚児はその異様な執着に怯え、寺の他の者も、稚児を村に返してやるよう説いたが、その僧侶は意に返さなかった。それどころか煩わしがり、遂には稚児をその僧侶から匿おうとした者達を寺ごと焼いてしまった。
稚児は命からがら寺から逃げ出した。僧侶は稚児を追いかけた。稚児が村に逃げ込むと、その村の人間を悉く殺し尽くし、家を焼いた。それでも稚児に逃げられると、稚児の足で辿り着けるであろう、近隣の村々をも焼き払った。
村を焼かれ、山も焼かれ、逃げられる場所を奪われた稚児は、海に辿り着いた。そして、逃げれば逃げるだけ周囲を巻き込むことに苛まれ、巻き込んだ自分自身を疎み、全てを儚んで、稚児は海に入水した。
稚児が海に身を投げたことを知った僧侶は舟を出し、周辺の浜も全て探したが、稚児の亡骸も見つけることは出来なかった。
そうして、その僧侶は天狗道に堕ちた。魔となった今も、その稚児を探して徘徊しているという。
「その魔となった僧侶が、あの男や」
柴はそう締め括った。
(……何を言っているんだろう、この人は)
一瞬、自分のことを子供だからと馬鹿にして、あからさまな作り話をされているのかと思ったが、柴と眼が合い、チヒロはその考えを改める。
その眼はふざけているようにも、嘘をついているようにも見えなかった。
「信じられんでも仕方ない。荒唐無稽な作り話にしか聞こえんからな。やけど、俺が知っている話の概要はこうやから、正直に話したつもりや」
頭を搔きながら、柴はチヒロの表情を窺うように見る。チヒロはどう返したら良いのか分からず、悩んだ。
「……あまり、すぐには信じられそうにはないです」
「やろうな」
「……ただ、俺には貴方が嘘を言っているようにも見えない」
本当にこの答えが正しいのかは分からない。逡巡し、それでも他はないように思えて、チヒロは口を開いた。
「だから俺は、貴方を信じようと思う」
「……俺を?会ったばかりの、赤の他人やで?」
信じると言ったチヒロをではなく、何故か自分自身を嗤うように顔を歪めた柴の眼を見つめ、チヒロは頷く。
「俺は、貴方は信じられると思った。だから、信じます」
「……そうか」
片手で顔を覆い隠して、「敵わないな」と柴は小さく呟いた。
「……それで、あの、話の続きなんですが」
チヒロが元の話を促す。
「おお、すまん。どこまで話したっけ」
「ええと、確か、あの幽とかいう男が、魔に堕ちた僧侶だってところまでです」
「幽……ああ、そんな名前やったっけ、あいつ。忘れとったわ」
あまり興味なさそうに柴が言った。
「まあ、そう、その幽が天狗道に堕ちた僧侶で、君を追ってるって話や」
そこに話が戻り、チヒロは嫌な帰結に気づいて顔を僅かに強張らせる。
「……その話の流れだと、その僧侶……幽が追いかけていた稚児というのが、俺の前世ってことになるんですが」
「前世というか、前々前々前世というか……まあ、ずっとや」
「……ずっと?」
更に嫌な予感が高まった。
「ずっとや。始まりは、もう何代前かも忘れるくらい前で、それからずっと。稚児の魂が転生する度に、あの男はそれを追い求め、逃げ場をなくすために周囲を焼き払い、逃げられてはまた次の転生先まで追いかけることを続けている。もう何度も何度もそれを繰り返している」
「……」
言葉にならない。そんな男に執着を向けられているのが自分であるとは、思いたくも信じたくもなかった。
「だから、君はもう、村に戻るべきじゃあないんや」
頭がぐるぐると回る。話をする間、横になっていて本当に良かったのかもしれない。そうでなかったら、きっと、気が遠くなって倒れてしまっていただろうから。
「……じゃあ、村があんな風になったのは……村長や、村の人達が殺されたりしたのは、俺が村にいたせい……?」
全部、自分があの村に居座っていたせいで。
「そうやけど、違う。君が悪いのと違う。悪いのは、全部あの男や。君はただ、あの男から被害を受け取るだけや」
宥めるように柴が言った。
「話はここまでや。今日は色々ありすぎて、もう限界やろう。寝とき」
目の上を大きな掌が覆ってきて、思わず目を瞑ると、温かな手の感触が瞼に触れる。
「……柴さん」
「大丈夫やから」
柔らかくも強い口調で、被せるように柴は言った。
「今度こそ、俺が守るから」
(……こんど、こそ……?)
どういう意味なのか問いたくても、体が重くて口を動かすこともままならない。意識も遠のきだしたチヒロには、それに抗うことも出来ず、誘われるままに眠りについた。
眠るチヒロを見つめながら、柴は思いを巡らせる。
チヒロがいた村の小屋の床に落ちていた、魚の切り身のようなもの。
チヒロは、人魚を食べさせられてしまった。
(もう、海には逃げられない)
だが、元より海に逃げるというのは入水するということだ。海神に身を捧げ、魂を守ってもらう代わりに、命を落とすことを意味する。それを救いと呼ぶことを、柴はしたくなかった。
(……いっそ、最後の手段がなくなって良かったのかもな)
背水の陣に追い込まれたことで、逆に見えてくる新たな道もあるかもしれない。
それを行ったのがあの男というのが憎々しく業腹の限りだが。
何度も繰り返された、あの男とこの子の“鬼ごっこ”。
あの男は笑いながら、何度も何度も千鉱から全てを奪い、絶望させ、海に身を投げるまでに追い詰めた。千鉱は何度も何度も奪われ続け、精神を摩耗させ、巻き込んだ周囲への強い罪悪感に苛まれ、追い詰められた末に海に身を投げた。あまりに繰り返される魂の逃亡劇に、疲労が蓄積するように、千鉱の魂そのものまでが擦り減り始め、転生後の肉体にまで影響が出始めている。
もう、終わりにしてやりたかった。何度もそう思った。だが何も出来ず、ただ、海に散った千鉱の魂を回収し、次の転生まで守り続けた。もう何度も。
(今度こそ、終わらせる)
あの男と千鉱の縁を、今度こそ断ち切って、千鉱をこの袋小路のような状況から解放する。
深く眠るチヒロを見つめながら、柴は己の拳を強く握りしめた。
もう何度繰り返しただろうか。何度取り逃がし続けただろうか。
あの稚児は――千鉱は、火の届かない海へと入水し、海神に身を捧げた。そうして、幽の手に、その亡骸も魂も届かないようにした。
ならばと、幽も誓った。
「どこへいこうとも、どのような姿になろうとも、必ずお前を見つけ出そう。六道輪廻、悉く浚い、お前に会いにいこう」
何度生まれ変わろうとも、その魂を手に入れるまで。
天狗に堕ちた身を存分に使い、そうして何度も繰り返し追い詰めた。その度に千鉱は海へと身を投げ、逃げ果せ続けた。
だがそれも、今世で終わる。
「お前は、人魚の肉を食った」
人魚の肉を食ったものは呪われ、海に拒まれる。歳を重ねても老いず、死んで逃げることもままならない。
幽は笑う。満たされたような笑顔で、歌うように言った。
「もう、逃げることは許さない」
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