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第十三話 それはまるで
朝の礼拝堂は、まだ空気が冷たかった。
石の床に落ちる光も薄く、世界が静かに息を潜めている時間。
その静寂の中に、見慣れた後ろ姿があった。
ウラシェル。
祭壇の前に膝をつき、静かに祈りを捧げている。
背筋は伸び、俯いた横顔は穏やかで、まるで絵画の中の聖人のようだった。
少しだけ悪戯心が湧く。
あんなに真剣な顔をしているのだもの。後ろから声をかけたら、少しは驚くかしら。
足音を忍ばせ、そろり、そろりと近づく。
そのときだった。
祈りの形に組まれた手に、朝の光が差した。
──赤い。
一瞬、何が見えているのか分からなかった。
指先。手の甲。細かな傷がいくつも走っている。
新しいものも、薄く治りかけたものも混じっていて、白い肌に痛々しく浮かび上がっていた。
ところどころに血が滲んでいる。
息が止まる。
「ウラシェル」
思わず声が出た。
彼の肩がびくりと震え、ゆっくりと振り返る。
「……アディポセラ様おはよう、ございます……」
いつもと変わらない声。けれど私は、もう手から目が離せなかった。
「その手は、どうしたのです」
「……問題ありません」
またその言葉。
「問題ない、で済ませてよいものではありません」
思っていたより強い声が出た。自分でも少し驚く。
私は彼の手首をそっと取り、立たせた。
「部屋へ戻ります。手当てをしなければ」
「しかし、礼拝が──」
「神様も、怪我を放っておくことはお望みになりません」
半ば言い聞かせるように告げると、彼はそれ以上逆らわなかった。
部屋に戻り、侍女に薬と布を持ってこさせる。
傷のひとつひとつは深くない。けれど数が多すぎた。
どうしてこんなことに気づかなかったのだろう。
毎日顔を合わせていたのに。
「少し、染みますよ」
そう言って手当てをしながら、胸の奥がじくじくと痛んだ。
この人は、痛いとも言わない。
苦しいとも言わない。
ただ静かに、何もない顔をして立っている。
もしかして、自分で傷をつけたのかもしれない。
自分のことが嫌で嫌で、体に傷をつけていくことで心の傷は癒えると思って。
それほどに精神が追い込まれているのかもしれない。
処置を終えたあと、私は小さな箱を棚から取り出した。
中には、柔らかな革の手袋が一組。
「これは、私が昔使っていたものです」
差し出すと、ウラシェルの視線がわずかに揺れた。
「傷が治るまで、これを使いなさい。これ以上、手を傷つけないように」
彼は少しだけためらってから、手袋を受け取る。
「……ありがとうございます」
手袋に包まれた指先は、少し動きにくそうだった。けれど、むき出しの傷を見るよりずっと安心する。
「怪我には気をつけましょう」
まるで幼い子に言い聞かせるような言葉が、自然と口をついて出た。
「お勉強しましょう」
パン屋へ出かけてからというもの、ばたばたしていて時間が取れていなかった。
机に書物を広げる。
今日選んだのは、他国の神々の物語。
「異教の話ではありますが、教訓として学ぶ価値はあります」
ウラシェルは静かに頷き、本を手に取った。
私が読み方を教えてあげ、彼が低く落ち着いた声で、文章を読み上げていく。
イカロスは、クレタ島の迷宮から脱出するため、父ダイダロスが作った翼を装着した。
このような内容だった気がする。
胸の奥がふっと熱くなった。
父が子に翼を与える話。
閉じ込められた場所から、外へ出るための手段を授ける話。
それはまるで。
私がダイダロスのように。
ウラシェルがイカロスのように。
この人は、長い間、暗い場所に閉じ込められていた。
自由に生きる術も、正しい道も知らずに。
だから私は、翼を作ってあげなければならない。
知識という翼を。
礼儀という翼を。
正しさという翼を。
でも同時に、教えなければならない。
海面に近づきすぎてはいけないことを。
太陽に近づきすぎてはいけないことを。
低すぎれば羽を重くしてしまうことを。
高く飛びすぎれば、身を滅ぼすことを。
自由とは、ただ好きにすることではないのだから。
「……続きを」
「ああ、ごめんなさい。考えごとをしていました」
微笑むと、彼は再び視線を本へ落とす。
その横顔は相変わらず静かで、何を思っているのか分からない。
けれど私は、確信していた。
大丈夫。
この人はきっと、正しく飛べるようになる。
私が、ちゃんと翼の使い方を教えてあげれば。