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第五話 君の名前を呼ぶ練習
忘却駅の地下にある記録室には、窓がなかった。
天井まで届く本棚が壁という壁を埋め尽くし、通路の奥には、どこまでも続いているように見える暗闇が広がっている。
天井から吊るされたランプは、風もないのに時折かすかに揺れ、そのたびに本の背表紙へ落ちる光が形を変えた。そこに並ぶ名前は、どれも誰かの人生の一部であり、誰かが忘れたものの残骸だった。
その一角にある小さな机に腰を下ろし、あっきぃの記録をもう一度開いていた。
最後のページには、つい先ほど浮かび上がったばかりの文章が残っている。
『俺は、きっと、もう一度、ぷりっつさんを好きになるから』
何度読んでも、その一文だけは、どうしても目を逸らせなかった。
自分を忘れてしまうかもしれない。
名前も、顔も、一緒に過ごした時間も、全部なくなってしまうかもしれない。
それでも、あっきぃは、いつかもう一度、自分を好きになると書いていた。
それは約束だったのだろうか。
それとも、そうであってほしいという、ただの願いだったのだろうか。
わからない
ただ、あっきぃが自分のことを完全に忘れてしまう未来を想像すると、胸の奥がひどく冷たくなった。
あっきぃに忘れられることが怖いのではない。
いや、もちろん、怖い
何年もかけて探し続けて、ようやく見つけた相手が、自分を見ても何の感情も抱いてくれなかったら。その目に懐かしさも、嬉しさも、悲しささえも浮かばなかったら。
きっと、耐えられない。
けれど、それ以上に怖いのは、あっきぃ自身が、あっきぃの大切なものをすべて失ってしまうことだった。
自分を好きだったことさえ、忘れてしまう。
あの店で笑ったことも、くだらないことで喧嘩したことも、7年後も一緒にいようと約束したことも、何ひとつ覚えていない。
あっきぃの中から、自分と過ごした時間が消えてしまう。
それは、まるで、二人が一緒に生きてきた年月そのものが、最初から存在しなかったことになるようで。
「……そんなもん、認められるかいな」
記録の本を閉じた。
誰かに聞かせるための言葉ではなかった。
自分がこれから進むために、どうしても口にしなければならない言葉だった。
あっきぃが忘れてしまったのなら、もう一度教えればいい。
自分がどんな人間なのか。
あっきぃがどんな人間だったのか。
二人がどんなふうに出会い、どんなふうに笑い、どれほど大切な時間を過ごしてきたのか。
何度でも、最初から伝えればいい。
もし、あっきぃが自分を好きだったことまで忘れてしまったのなら。
もう一度、好きになってもらえるように、これからの時間を重ねていけばいい。
7年という時間を、取り戻すことはできない。
けれど、これから先の時間まで、失ってしまう必要はないはずだった。
「……待っとれ、あっきぃ」
今度は、さっきよりもハッキリと声に出した。
「何回でも教えたるから。お前が忘れたこと、俺が全部覚えとるから」
そして、記録室の扉へ向かおうとした、そのとき。
「お客様」
背後から、駅員の老人の声がした。
振り返ると、老人はランタンを片手に、棚のあいだに立っていた。
「……なんや、まだ何かあるんか」
「その記録を、お持ちになるおつもりですか」
「せやけど」
「それは、持ち出すことのできない記録でございます」
その言葉に眉を寄せた。
「……は?」
「記録は、この駅に保管されるものです。お持ち出しになれば、その方の記憶を、さらに失わせることになるかもしれません」
「……どういうことやねん」
老人は、ランタンを持つ手を少し下げた。
「この本には、その方が忘れてしまった記憶だけでなく、まだ忘れていない記憶も記されております。こちらに残された記録を持ち出せば、向こう側に残っている記憶まで、こちらへ引き寄せてしまうことがあるのです」
本を抱く腕に力を込める。
あっきぃが、まだ何かを覚えている。
その記憶を、自分が奪ってしまうかもしれない。
そう考えると、すぐには何も言えなかった。
「……ほな、どうしたらええねん」
「記録を、こちらへ戻してください」
「それで、あいつは帰ってこられるんか」
「……」
「なあ」
なかなか帰ってこない返事に、少しだけ言葉が強くなる。
「俺は、あいつを探しに来たんや。ここで本読んで、泣いて、はい終わり、なんてできるわけないやろ」
老人は、じっとぷりっつを見つめた。
「……その方に会いたいのですね」
「当たり前やろ」
「たとえ、その方が、あなたのことを覚えていなくても?」
「……」
「たとえ、その方が、あなたに会いたくないとおっしゃっても?」
言葉を失った。
あっきぃが、自分を覚えていない。
それだけでも、十分に苦しい。
けれど、あっきぃが自分を見て、知らない人だと言ったら。
もう会いたくないと、はっきり拒絶したら。
そのとき、自分はどうするのだろう。
7年間、探し続けた。
忘れられないまま、何度も夢を見て、何度も名前を呼んで、何度も、もう一度会えたらと願った。
その願いが叶った瞬間に、相手から拒絶される。
そんな未来を、考えたことがなかったわけではない。
ただ、考えるたびに、途中でやめていた。
あっきぃが自分を嫌いになるはずがない、と。
そんなことを、勝手に信じていた。
けれど、今のあっきぃは、七年前のあっきぃではない。
記憶を失って、知らない場所で生きている。
自分のことを覚えていないのなら、自分に対して、何の感情も持っていないかもしれない。
それどころか、突然現れた見知らぬ人間を、怖いと思うかもしれない。
なんとか自分を落ち着けようと、ゆっくりと息を吐いた。
「……それでも、会いたい」
声は、震えていた。
「俺のこと覚えとらんでもええ。嫌いや言われたら……そら、めっちゃ傷つくやろうけど」
少しだけ、笑った。
「でも、あいつがちゃんと生きとるんやったら。それだけでも、俺は……」
言葉が、続かなかった。
生きていてほしい。
それが、いちばんだった。
自分のことを好きでいてくれなくてもいい。
自分のことを覚えていなくてもいい。
ただ、あっきぃが、どこかで生きていてくれたら。
笑っていてくれたら。
毎朝起きて、何かを食べて、眠って、時々、くだらないことで笑っていてくれたら。
それだけでよかった。
そう思えるくらいには、七年間、苦しかった。
老人は、しばらく黙っていた。
そして、やがて、ゆっくりと道を譲った。
「……では、記録は、こちらへお預けください」
腕の中の本を見つめる。
あっきぃの文字。
あっきぃの気持ち。
あっきぃが、自分に伝えたかったこと。
それを、手放すのは怖かった。
けれど、この本を持っていくことで、あっきぃが何かを失ってしまうのなら。
そんなことは、望んでいなかった。
「……わかった」
仕方なく本を机の上へ戻した。
最後に、もう一度だけ、表紙を撫でた。
「……またな」
まるで、あっきぃに別れを告げるように。
そして、顔を上げた。
「ほな、次はどこへ行けばええ?」
老人は、ランタンを掲げた。
「……あなたが探すべきものは、記憶ではございません」
「……何やと?」
「その方が、忘れてしまったとしても、なお残っているもの。それを、お探しください」
記憶ではないもの。
忘れてしまっても、残っているもの。
そんなものが、本当にあるのだろうか。
老人は、静かに言った。
「人の心は、時に、記憶よりも深いところで、誰かを覚えているものでございます」
その言葉を聞いた瞬間、ぷりっつは、あの夜のことを思い出した。
あっきぃがいなくなった夜。
誰もいない駅のホームで、青いマフラーを抱きしめたとき。
あのマフラーは、まだ、微かに温かかった。
まるで、ついさっきまで、あっきぃがそこにいたかのように。
「……そうか」
「俺、まだ、探せるんやな」
「はい」
老人は、頷いた。
「あなたが、忘れない限り」
ぷりっつは、歩き出した。
今度こそ、あっきぃを見つけるために。
*
同じ頃。
あっきぃは、見知らぬ部屋のベッドで、目を覚ました。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
窓の外では、鳥が鳴いていた。
どこかの家から、朝食を作る音が聞こえる。
遠くを走る車の音。
近所の人が交わす、何でもない挨拶。
そんな、ごく普通の朝だった。
ゆっくりと起き上がった。
そして、枕元に置かれたノートを手に取った。
昨夜、自分が書いたものだった。
『僕の名前は、あっきぃ。』
その下に、自分のことを思い出すためのメモが続いている。
好きな食べ物。
好きな場所。
大切な人。
どれも、答えは空白だった。
しばらく、その空白を見つめていた。
何かを書き足したい。
けれど、何を書けばいいのかわからない。
自分がどんな人間だったのか。
誰と一緒にいたのか。
どんなことを大切にしていたのか。
何ひとつ、思い出せなかった。
それなのに。
どうして、こんなにも寂しいのだろう。
ノートを閉じた。
そして、胸元に手を当てた。
そこには、何もない。
ペンダントも、写真も、誰かからもらったものも。
ただ、胸の奥に、ぽっかりと穴が開いているような感覚だけがあった。
大切なものを失くしてしまった。
それだけは、わかる。
けれど、何を失くしたのかが、わからない。
誰を失くしたのかも。
どこへ置いてきてしまったのかも。
考えるように、しばらく目を閉じた。
すると、また、あの夢が蘇った。
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
自分の手を握っている。
そして、泣いている。
顔は見えない。
けれど、その人の声を聞くと、胸が痛くなる。
どうして、そんなに泣いているのだろう。
どうして、自分の名前を呼ぶのだろう。
どうして、自分は、その声を聞くだけで、泣きたくなるのだろう。
「……誰なの」
小さく呟く。
「……俺、あなたのこと、知ってるの?」
返事はなかった。
当たり前だった。
夢の中の誰かが、現実に答えてくれるはずなどない。
それでももう一度、目を閉じた。
そして、胸の奥から浮かび上がってきた名前を、そっと口にした。
「……ぷりっつ」
言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。
慌てて目元を拭った。
どうして泣いているのか、わからなかった。
その名前が誰のものなのかも。
自分が、どうしてその人のことを思い出せないのかも。
何ひとつ、わからなかった。
けれど。
その名前を口にしたときだけ、胸の奥にあった空白が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。
「……変なの」
涙を拭いながら笑った。
そして、ノートを開いた。
空白だったページの1番下に、小さな文字を書き足す。
『忘れられない名前がある。』
その下に、もう一度。
『ぷりっつさん。』
書き終えたあと、その文字を指先でそっとなぞった。
どうしても、消したくなかった。
理由はわからない。
でも、この名前だけは、忘れてはいけない気がした。
まるで、誰かと交わした大切な約束のように。
*
忘却駅では、その朝、ひとつの引き出しが開いた。
誰も触れていないはずなのに、古い木製の引き出しが、音もなく滑り出したのだ。
中には、小さな紙片が入っていた。
そこには、あっきぃの文字で、こう書かれていた。
『ぷりっつさんの名前を、忘れませんように。』
その紙片の文字が、ゆっくりと薄れていく。
けれど、最後の文字だけは、どうしても消えなかった。
「ぷりっつ」
まるで、まだ誰かが、その名前を呼び続けているかのように。
@ きみ以外なんて選ばないよ
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コメント
1件
もう…7話、めちゃくちゃ泣きました。 ぷりっつが記録を手放すところ、あっきぃがノートに「ぷりっつさん」って書き足すところ、どっちも涙腺にきました。 記憶じゃなくても心が覚えている、って駅員の言葉がすごく効いてます。 あっきぃが名前を口にした瞬間に泣くのも、「忘れられない名前がある」って書くのも、忘れてしまってもなお繋がっていることが伝わってきて切なくて温かかったです。 次が待ち遠しいです。