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『退社』
一日が終わり、ホワイトボードに書いた。
――どうしよう。まだ|紡生《つむぎ》さんたちに、『|Lorelei《ローレライ》』の|麻王《あさお》|悠世《ゆうせい》から言われた言葉を伝えてない。
店舗前で会ったことも言えず、どう伝えたらいいか迷っていた。
先輩たちを前にして――
『このままだと成長できず、ただのカジュアルブランドとして終わる』
『これで満足しているのかと思うと、残念だ』
なんて、言えるわけがない。
――どんな不遜な後輩よ!
ホワイトボードに、ごんっとおでこをぶつけた。
――でも、麻王悠世なら、はっきり言うよね。
余裕があって、自信たっぷりで、王様みたいな人。
店舗から戻ってから、ずっと私はウダウダしている。
先輩たちは旅の疲れだと思ったらしく、優しさなのか嫌がらせなのか、紡生さんは私の机に、マムシドリンクを置いていった。
しかも、ドヤ顔で。
――マムシの絵が生々しくて、飲むに飲めない。パッケージデザインをもう少し気にしてほしい。
疲れていると思ってくれたおかげで、いつもより口数が少なくても追求されなかった。
それだけが救い。
私は先輩たちの傷つく顔を見たくない。
――|恩未《めぐみ》さんにだけ、相談するとか?
「生地のサンプル届いた?」
「まだです」
「確認して!」
「はい。すみません」
でも、忙しそうだ。
どうしたら、いいのだろう。
「お先に失礼します」
「|琉永《るな》ちゃん、お疲れさま~!」
「暗いから気をつけて帰ってね」
ぺこりと会釈をし、事務所を出る。
――結局、誰にも言えなかった。
事務所のガラス窓に書いてある『|Fill《フィル》』の文字を見つめた。
――私にもっと知識とセンスがあれば、言われた言葉の意味がわかったはずなのに。
明日、紡生さんと恩未さんが揃っている場所で、今日のことを言おうと決めた。
私一人の胸のうちに抱えておくべき言葉じゃない――そう思った瞬間、背後から声をかけられた。
「|琉永《るな》さん。行き違いにならなくてよかった」
「|乾井《いぬい》さん……」
「|啓雅《けいが》でいい。一応、婚約者だ。名字で呼びあうのはおかしいだろう?」
――『一応』って。わかってるけど、好きでもない相手と形だけの結婚をして、この人は満足なの?
自分のいいなりになる妻がほしいのだから、きっと満足なのだろう。
私にはわからない感覚だけど……
「なにかご用ですか?」
「覚えてないのか? この間、見合いの席で言っただろう? 次は二人でと言ったはずだ」
「でも、予定とか……。私、働いていますし」
「は? 働いてる? この小さいデザイン事務所で働いているからって、なんだんだ?」
啓雅さんは口元に手をやり、笑いをこらえる仕草をする。
「どう考えても、君が俺に合わせるに決まってるだろ」
「そんな! 横暴です!」
「君を買ったのは誰だ?」
暗闇に低い声が落ちる。
足がぐらぐら揺れて、倒れそうになった。
「誰だ?」
啓雅さんは私の口から言わせて、誰の持ち主なのか、はっきりさせようというのである。
「啓雅さんです……」
「そうだ。さっさと行くぞ。時間が無駄になる」
道にタクシーを待たせてあり、行き先も言わない。
けれど、私は逆らえず、タクシーに乗るしかなかった。
「ホテルのフランス料理を予約してある」
それだけ言うと、あとは知らん顔をしてスマホをいじっている。
会話は一切なく、気まずい空気が流れた。
気まずく思っているのは、私だけで、啓雅さんはなにも思っていないのかもしれない。
そのうち、仕事の電話をし、私の存在は空気同然。
タクシーの中は、啓雅さんが電話相手と話す声だけが響いていた。
タクシーがホテルに到着すると、私の服装がカジュアルすぎたのか、顔をしかめられた。
啓雅さんが私を連れてきたのはいわゆる高級ホテルだったから、外からホテルにやってくるお客さんもきちんとした服装をしている。
私の服装はフレアスカートにTシャツ、ジャケット、スニーカーというカジュアルな服装で、せめて靴だけでも履き替えられていたら、違っていかもしれない。
フレンチレストランでも、目立っていてジロジロ見られてしまった。
私が恥ずかしく思っていても、啓雅さんはまったく気にしていない。
むしろ、服装にこだわりがないのか、彼のスーツもどちらかといえば、カジュアルだし、時計も靴も有名ブランドに似せた偽物を使っている。
「ご予約していた|乾井《いぬい》様ですね。どうぞこちらへ」
案内されて席に着くと、啓雅さんはワインを頼んだ。
メニューは決まっているらしく、メニューブックはドリンクだけで、私はオレンジジュースを注文する。
啓雅さんと楽しくお酒を飲む気分には、どうしてもなれなかったからである。
――警戒してるというのもあるけど。今日は私となにを話すつもりなんだろう。
「結婚式の会場は、こっちが決める。それから、新婚旅行だが、知り合いに頼んである。パスポートはあるな?」
「ま、待ってください。もう結婚式の話ですか?」
「パスポートは?」
「あ、あります」
――怖い。お見合いの時より、威圧的だし、私を物扱いして、なにも話を聞いてくれない。
啓雅さんが怖くて、テーブルの下の手が震えていた。
「デザイナーの仕事は大変だろう。特に個人の事務所は、給料も安いし、福利厚生もしっかりしていない」
「やりがいはあります」
「シーズンが終われば、すぐゴミになる」
「ゴミって……」
私が大事にしているものすべてを否定する啓雅さんに、怒りで声が震えた。
「次々と新しいものが出てくる。そうすると、前シーズンのものは着なくなる。そして、廃棄処分だ」
「そうかもしれませんが、人は原始時代から同じ服を着ていますか? 百年前の服装と今の服装が同じものですか? 新しいものを作って、未来でそれを見た人がまた新しいものを考えるんです」
強い口調で言った私を啓雅さんは気に入らないというように見た。
「おとなしいのかと思っていたが、そうでもないようだ」
気に入らないのなら、婚約を取り止めてくださいと言いかけた言葉を飲み込んだ。
なぜなら―――
「その生意気な態度を改めてもらわないと困る。こっちは|清中《きよなか》繊維に金を貸してやっている立場だぞ」
「取引の契約だけじゃなくて、父は借金までしているんですか!?」
「なんだ。知らなかったのか? それだけじゃない。君の妹の入院費も払ってやっているんだ。少しは感謝の気持ちを見せたらどうなんだ」
――|千歳《ちとせ》の入院費まで?
ぐらりと視界が揺れた。
父は私にそんなこと一言もいっていなかった。
千歳の分は父のお金でしっかりやる――そんな話ではなかったの?
「妹の入院費を啓雅さんが払っているんですか?」
「そうだ。君の継母に頼まれてね。自分の娘ではないから、払いたくないのだろう。その気持ちはわかる。けど、君にとっては妹だ」
黙った私を見て、啓雅さんは満足そうに微笑んだ。
前菜が運ばれ、ご機嫌でフォークを手にする。
海老のテリーヌと野菜のソースが彩りよく、食欲をそそるはずなのに、私はまったく食欲がわかず、手を出せなかった。
「逆らう女は嫌いなんだよ。君がものわかりのいい女で助かった。せいぜい『いい妻』でいてくれ」
――逃げられない。
いつから、父と継母はたくらんでいたのか、どうやっても私が逃げられないようにされていた。
「俺の『いい妻』になるには、外見も大事だ。君はお見合いの時のような服が似合う。これからはもっと上品で落ち着いた服を着てくれ」
お見合いで着ていたのは『|Lorelei《ローレライ》』の服――今日、私が着ているのは、すべて『|Fill《フィル》』の服だった。
それがスーツであったとしても同じで、素材を考えたり、サイズ感を大きめにしたりと考えている。
「安い服でも、それなりに見える服はあるだろう?」
――なにも知らないくせに!
言い返そうとした私の前に、啓雅さんは紙を置いた。
「これはなんですか?」
「契約書だ」
「契約書!?」
結婚届けとは違う。
そこに書いてあったのは、私が婚約を破棄した場合の慰謝料だった。
清中繊維と妹への援助した金額のすべてを返金するという内容で、その額は――三千万。
――これは、今できた借金じゃない。もしかして、私が専門学校に通っていた頃からずっと借金をしていたの?
青ざめた私をいたぶるように、啓雅さんは笑いながら言った。
「サインをしてくれるか。君はなかなか反抗的で気が強いようだから、契約書がないと安心できない」
自分の手が震えているのがわかった。
これにサインしてしまえば、私は父と継母に利用され続け、啓雅さんのいいなりになって一生を終える。
そんな未来が、容易に想像できた。
店内の音楽がまるで葬送曲のように聴こえる。
「モタモタするな。早くしろ」
啓雅さんは肉にフォークを突き立て、肉汁が落ちるステーキを美味しそうに頬張った――