テラーノベル
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翌朝。昨日の豪雨が嘘のように晴れ渡り、校庭のあちこちにできた水たまりが、眩しい太陽を反射していた。
泉は、丁寧に干して畳んだ優の黒い傘を抱え、少し緊張した面持ちで陸上部の部室棟へと向かっていた。
(優くん、もう来てるかな……)
「女子が苦手」と公言しているわけではないが、明らかに女子を避けている雰囲気の優。昨日の傘の貸し方も、優しさというよりは「正論」をぶつけられたような感覚だった。
部室の裏手に回ったその時、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「……で、昨日のメニューの意図は理解できたの?」
凛とした、涼やかな声。くるみ先輩だ。
泉は思わず足を止め、建物の陰に身を潜めた。
「はい。心拍数を維持したままのリカバリー……。あれ、マジで効きますね。先輩が言う通り、俺に足りなかったのは『粘り』でした」
答えたのは陸だった。その声には、教室で見せる冗談混じりの明るさではなく、純粋に「強くなりたい」と願う一人の選手としての、深く重い響きがある。
「そう。……陸くん、あなた本気なのね」
「当たり前ですよ。俺、先輩が引退するまでに、絶対に『あの記録』を超えます。……先輩に、俺が一番近くにいるって認めさせたいんです」
陸の言葉には、一切の迷いがなかった。
圧倒的な「余裕」を持ち、常に周囲を安心させる彼が、唯一「余裕」を捨ててでも食らいつこうとしている存在。
泉は、傘を握る手に思わず力が入った。
昨日の雨の中、自分を安心させるように笑ってくれた陸。でも、彼が本当に自分の「全て」を見せ、本気でぶつかっている相手は、自分ではないのだ。
「……おい。何してんだ」
不意に、背後から低く、冷ややかな声がした。
「――っ! 優、くん……」
振り返ると、そこにはタオルを首にかけた優が立っていた。彼は泉の様子と、角の向こうから聞こえる陸たちの会話を察したのか、わずかに眉を寄せた。
「……立ち聞きか。趣味が悪いぞ、茅野」
「ち、違うの! 傘、返しに来ただけで……」
泉が慌てて傘を差し出すと、優はそれを受け取ろうともせず、泉の顔をじっと見つめた。
その瞳には、昨日と同じ「苛立ち」と、それ以上に、泉の心の痛みを無理やり抉るような、冷徹なまでの鋭さがあった。
「あいつは、ああいう奴だ。目標に決めたら、それ以外は目に入らねぇ。……昨日も言っただろ。振り回されるだけ無駄だってな」
優の言葉は、相変わらず鋭い。
でも、その突き放すような物言いが、今は不思議と、泉の「モヤモヤ」を凍らせて、これ以上傷つかないように守ってくれているような気がした。
「……ありがとう。でも、私……それでも陸くんのこと、すごいって思っちゃうから」
泉が小さく笑うと、優は「……フン」と鼻で笑い、乱暴に傘をひったくった。
「勝手にしろ。……練習、始まるぞ。マネージャーならさっさと準備しろ」
優はそう言い捨てて歩き出す。
その背中は、陸のように眩しくはないけれど、泉の揺れる足元を、いつも厳しい言葉で支えていた。
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