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抜け参り
明け六つ(朝六時頃)、日本橋の木戸が開いた。
「どけどけどけ!」魚河岸の仲買人の威勢の良い怒鳴り声が聞こえてくる。
長さ三十七間四尺五寸(六十九メートル)、幅四間二尺五寸(八メートル)、早朝の日本橋はうかうかしていると踏み潰されてしまいそうな活気があった。
町犬まちいぬが二匹、魚屋の落として行った小魚を奪いあっている。
「お紺の奴、まだ来てねぇみたいだな?」一刀斎が黒い木戸の周りを見回した。
「いいわ、橋の上の混雑が収まってから渡る方が安全みたい」
「そうだな、長旅前に怪我をしちゃ目も当てられねぇ」銀次が志麻に同意する。
「今日は戸塚泊まりか?」一刀斎が訊いた。
「私だけならそうするけど、お紺さんが一緒だから保土ヶ谷辺りが無難かなぁ?」
「戸塚までは十里半(四十二キロ)、保土ヶ谷までなら八里九町(三十三キロ)、初日に無理しちゃ後がこたえるからな」
「あっ、なんだあれ?」銀次が声を上げた。
橋を渡る人の頭越しに山形の帽子のようなものが見えた。
「大鳥毛おおとりげ(槍の鞘)だ!」
折から、「下にぃ下に」と言う下知の声が聞こえて来る。
「大名行列だ、国元へ帰ぇるんだろうぜ」一刀斎が言った。
通行人が慌てて高札場の陰で土下座をしている。
「チッ、この忙しい時に!」
気の短い魚売りが舌打ちをしている。
「路地に入ってやり過ごそう、こんな所で土下座をさせられちゃ堪らん」慈心が顔を皺しわめた。
「全く朝っぱらから迷惑なこった・・・」お梅婆が言った。「これで暫く橋は渡れないよ」
黒漆塗りのピカピカ光る駕籠を真ん中に、行列が静々と近づいて来た。
どの供侍の顔にも、国へ帰る安堵と嬉しさが滲み出ている。
志麻はまだ戸を開けていない商家の陰に身を入れた。味噌汁の具にするのだろう、中から菜を刻む包丁の音が聞こえて来て、志麻の腹がグゥと鳴った。
待つ事四半刻(三十分)、ようやく行列が行き過ぎた。
「小藩の大名で良かったぜ、大大名なら倍以上の時間が掛かる」物陰から出て来た一刀斎が言った。「おっ、やっと来たぜ」
通りの向こうにお紺の姿が見えた。
「お待たせ、念入りに化粧してたら遅くなっちゃった」
手甲、脚絆に菅笠を持ったお紺が目の前に立つ。
「遅ぇじゃねぇか、こちとら見たくもねぇ大名行列まで見せられたんだぜ」
「良いじゃない、お殿様の露払いなんて出立には縁起が良いわ」
「ちっ、口の減らねぇ奴だ」
お紺が志麻の方を向いた。
「今日から暫くの間、宜よろしくね」
「箱根の関所を越えるまでだからね」
「分かってるわよ」
お紺がニッコリと微笑み返した・・・本当に分かっているのか心配になる。
「人波が落ち着いたようね、そろそろ出立しようか」志麻が橋の方を眺めて言った。
「気を付けて行くんだよ」お梅婆がもう目を潤ませている。
「泣かないで、一生の別れじゃないんだから」
「待っておるぞ」慈心が志麻の手を取った。
「必ず戻って来る」
「嬢ちゃん、道中掏摸には気を付けな」銀次が言った。
「銀ちゃんほどの掏摸すりはそうそういるもんじゃないわ」
「こりゃ藪蛇やぶへびだ」銀次が首の後ろに手を遣った。
「ねぇねぇ私には?言葉はないの?」
「お前ぇはもうちっと化粧を薄くしな。そんなに目立っちゃ災いを引き寄せらぁ」一刀斎が言った。
「あぁら、心配してくれてんの、嬉しい!」
「ちえっ、背負しょってやがる」一刀斎が渋い顔をしたまま志麻を見た。「危ねぇ目にあったら、迷わず刀を抜くんだぜ」
「うん、分かった」
志麻がみんなから少し離れて立った。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう、行ってこい!」
「行ってらっしゃい・・・」
深々とお辞儀をすると、志麻が踵きびすを返し橋に向かって歩き出す。
「あ、待ってよ志麻ちゃん!」お紺が慌てて後を追う。「じゃあ、みんな行ってきま〜す!」
橋の上で振り返ってみんなに手を振った。
右手を見れば江戸城の櫓やぐらの白壁、朝靄あさもやの向こうには薄っすらと、富士山の頂いただきが浮かんで見えた。
「ふん、あんな小娘が草壁監物を倒しただと・・・とても信じられん」
深編笠の侍はそう呟くと木戸の柱の陰から通りへと足を踏み出した。
「本当かどうか、俺が試してやる・・・」
*******
「ところで、聞いてなかったけどどこへ行くの?」鈴ヶ森が近くなった頃志麻が訊いた。
「伊勢さ」
「伊勢?」
「あれ、言ってなかったっけ?」お紺が惚とぼけて応えた。
「訊いてない」
「訊きたい?」
「そりゃ・・・」
「あいつが!」 突然声が大きくなった。
「え?」
「い、いや、あっちを贔屓ひいきにしてくれる得意客が連れてきた田舎の商人さ」
「その商人がどうしたの?」
「そいつが『江戸には“抜け参り“っていうのがあるそうだが本当にそんな事が出来るのか』って言いやがった」お紺が忌々しげに吐き捨てた。「出来るわよ!って、売り言葉に買い言葉ね」
「抜け参りって?」
「思い立ったらその日にお金も手形も一切持たないで、伊勢参りに出る事さ。柄杓ひしゃくだけ持って出りゃ伊勢まで辿り着ける。しかも、『皆さんの為にお伊勢さんに参って来ました』って言や、帰ってから誰からも文句を言われない事になっている」
「でもなんで柄杓?」
「信心深い人たちの間には施行せぎょうというのがあってね、伊勢の参拝者には食事や宿を無償で提供するという習慣がある、その施行を受ける為の印が柄杓なのさ」
「でも何でそうまでして伊勢に行きたいんだろう?」
「お伊勢参りは江戸の庶民にとって一生に一度の夢なのさ」
「伊勢は私の故郷のすぐ近くだけど、そんなに良い所?」
「まぁ、日本の神様の総本山だからね。でも旅費がけっこう嵩かさむうえに通行手形を貰えるまで半年も待たなきゃなんないの。みんな町ごとに伊勢講いせこうを作って交代で行ってるけど何十年も待ってるわ」
「じゃあ、お紺さんも手形を持たないの?」
「当然!」
「関所はどうするのよ!」
「心配しないで、ちゃんと抜け道があるから」
「でも見つかったら・・・」
「大丈夫、街道稼ぎは今や旅人の常識よ、ちゃんと案内人が居るの」
「それにしたってお金がかかるんじゃ・・・」
「そこは抜かりはないわ、誰が折角のお伊勢参りを乞食こじき旅になんかするもんですか、家財道具一式、商売道具の三味線も質屋に預けて出て来たわ」
「ええ!じゃあ帰ってからどうするの?」
「何とかなるわよ、辰巳芸者は気風きっぷが命、宵越しの金は持たない、ってね」お紺は胸を張って見せた。
「後先考えないってだけじゃない」
「それに、女の一人旅って目立つの、男の連れが必要なの」
「男の連れ?」
「わからない、あなたってどう見ても若衆でしょ?」
確かに志麻の出立いでたちは、裾すそに黒い縁取りのある野袴のばかまにぶっさき羽織ばおり、手甲てっこう、脚絆きゃはん、菅笠すげがさ、背中に道中袋を背負った男装束である。
「誰が若衆よ!」
「怒らないで、若衆はみんなキラキラしてるでしょ?」
「褒め言葉になって無い!」
志麻がお紺に抗議をした時、前方に人影が見えた。
「あそこ、鈴ヶ森の刑場じゃない?何であんなところに人が居るのよ?」
お紺が訝いぶかしげに首を傾かしげた。
「深編笠で顔が見えないけど、二本差しの侍ね」
「お紺さん、ここで待ってて」
志麻がお紺を止めて、一人で歩き出した。
「なに、どうしたの?」
「絶対に来ちゃダメよ!」
志麻はお紺に釘を刺して深編笠の侍に近づいて行った。
*******
「私を待ってたの?」志麻が侍の前に間合いを取って立った。
「察しが良いな」低い声で侍が応える。
「何の用事?」
「お前の首を貰う」
「なぜ?」
「お前の首に五百両の賞金が掛かった」
「五百両ですって?」志麻はあまりの事に驚いて声が上ずった。
「草壁監物を斬ったのはお前か?」
「そうだけど・・・」
「監物が生前、自分が負けたらお前を殺せとある男に頼んだ」
「ある男って?」
「闇の仕事屋」
「そんな仕事があるの?」
「信じなければそれでも良い、俺はお前を殺すだけだ」
「そう簡単には行かないわよ」
「本当にお前が監物を斬ったのならな」
「本当よ」
「そうか、なら遠慮なく殺やれるな」
侍が深編笠を取った。月代さかやきの伸びたむさい髪型で浪人者と分かる。
浪人が無言で刀を抜く。
志麻も刀の柄に手を掛けた。
居合よ・・・
「鬼神丸?」
長く斬り合えば相手の方が有利になる、居合で一気に勝負をつける・・・
「私居合なんて出来ない」
出来る、私のいう通りにやれば良い・・・
「分かった」
「なにをぶつぶつ言っている、念仏でも唱となえているのか?」
浪人が訊いたが志麻は答えなかった、どうせ言っても分からない。
「そうか・・・」
浪人の剣が徐々に上がって行く、左の拳が右目の横でピタリと止まった。
薩摩示現流、二の太刀は無い・・・
「どうすれば良い?」
鯉口を切って・・・柄に掛けた手は力を抜いてそのまま・・・
志麻は鬼神丸のいう通りにした。
目を瞑って・・・
「そんな事をしたら相手が見えない」
感じるの・・・額ひたいがヒヤリとしたら同時に右に飛んで胴を薙なぎ払う・・・
「怖い・・・」
大丈夫、私を信じて・・・
「分かった・・・」
志麻はゆっくりと目を閉じた。
「どうした諦あきらめたのか、命乞いをすれば許さん事も無いが?」
志麻は応えず、ただ額に集中した。
浪人はもう何も言わず、ジリジリと間合いを詰める足音だけが聞こえる。
足音が止まった、志麻の耳がピクリと動く。
まだよ・・・
志麻は迅はやる気持ちを抑えて待った。
一陣の風が額に吹いた。
矢が放たれたように右へ飛ぶ。同時に抜刀した剣に手応えがあった。
振り向いて構えると、浪人がゆっくりと倒れて行くところだった。
「志麻ちゃん!」お紺が駆け寄った。「大丈夫だった!」
志麻は懐紙かいしで鬼神丸の刀身を丁寧に拭ぬぐって鞘さやに納おさめた。
「誰なのこいつ?」倒れた浪人を指差してお紺が言った。
「さあ、殺し屋みたい」
「あなた物騒な奴に狙われてるのね」
「どお、これでも私と一緒に旅をする?」
「決まってるじゃない、何だかワクワクして来たわ」
「この先どんな危ない目に遭うか分からないよ?」
「私だって辰巳芸者の端くれ、修羅場は結構潜ってる、馬鹿におしでないよ」
「ふ〜ん、腹は据わっているのね」
「当然!」
「じゃあ、先を急ぎましょ。できれば今日中に戸塚まで行きたい」
「分かった、お紺姐さんの健脚を見せてあげる!」
二人は足を早めて鈴ヶ森の刑場を過ぎて行った。