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柄杓
柄杓ひしゃく
「志麻ちゃん待って・・・少し休もうよぅ・・・」
お紺が泣きそうな声で後ろから呼んでいる。
「さっき健脚を見せてあげるって言ってなかった?」
「だってあっちは柳橋界隈やなぎばしかいわいしか出歩いた事ないんだよ、いきなり戸塚までだってそりゃ無茶な話だ」
「だったら最初からそう言えば良いじゃない」
「歩けると思ったんだよ・・・勢いで」
言葉尻が下がってお紺がしゅんとしょげ返る。
「おばちゃん」
「誰がおばちゃ・・・!」
カッとして振り返ると、まだ年端としはも行かない女の子が立っていた。
「え?」
「どうぞ一文やってくだされ・・・」
おずおずと柄の長い柄杓ひしゃくを差し出された。
「あんた、抜け参りかい?」
「うん」
「うんって、あんた幾つ?」
「六つ」
「その年で一人で抜け参り?」
「母ちゃんが男の人と伊勢に行ったまま帰って来ないの」
「帰って来ないって、いつ出て行ったんだい?」
「一年前」
「それであんた、母ちゃんを探しに・・・」
「うん」
「なんて健気けなげなんだろう、分かったお姉・・ちゃんが連れてってやるよ」
「ううん、一人の方が早く行ける、だってオバ・・・お姉ちゃん足痛そうだから」
「だ、大丈夫さ・・・」
「無理しなくていいよ、一文恵んでくれたら」
「分かった、一文なんてケチなことは言わないよ、波銭三枚(十二文)持ってきな」
「わぁ、ありがとうオバ・・・お姉ちゃん」
「いちいち引っかかるねぇ・・・ま、いいや気を付けてお行き!」
「うん、お姉ちゃんもお大事に・・・じゃあね!」
女の子はお紺に手を振って駆けて行った。
「ああ、良い事をした後は気持ちが良いねぇ、志麻ちゃんも恵んでやったら良かったのに」
「私は・・・いい」
「ふ〜ん、意外とケチなんだね」
「お姉ちゃん・・・」
「なんだい?」にっこり笑って振り返る。
「どうぞ一文やってくだされ」
今度は男の子が柄杓を差し出している。
「なぁに、あんたも抜け参り?」
「んだ、お父を探しに伊勢まで・・・」
「ちょ、ちょっと待った、さっきの女の子はお母ちゃんを探しに伊勢まで行くって・・・」
「おら、お父だ」
「ひょっとしてそれって私を騙してるんじゃないでしょうね?」
「いいじゃねぇか、さっきの奴には波銭やってただろ、おらにも恵んでくれよ」
「お紺さん、あそこ・・・」
志麻が茂みの方を指差した。小さな頭が五つばかりこっちを見てる。
「あんた達グルだね!」
「人聞きの悪い事言うなよオバちゃん!」
「キィ〜!オバちゃんだって!あんたなんかに一銭だって恵んでやるもんか!」
お紺が道中杖を振り上げた。
男の子がサッと身を躱す。
「ケ〜チ!さっさと行っちまえクソババア!」
「なんだって!うら若き乙女をつかまえて!」
「おい、逃げるぞ!ババアが怒ってら!」
仲間に声を投げて男の子が駆けていく。子供らは蜘蛛くもの子を散らすようにいなくなった。
「あいつら、これで小遣い稼ぎをしてやがるんだ!」
お紺が歯噛はがみして悔しがった。
「災難だったね・・・」志麻が笑いを堪こらえて言う。
「あんた分かってたのかい!」
「マァ、何となくだけど」
「志麻ちゃん、見かけによらず意地悪だ!」
「いい薬になったんじゃない?道中長いんだから授業料だと思えば安いものよ。お紺さんが良い人だって事も分かったし」
「う〜ん、悔しい!」
「さ、行くよお紺さん」
「あ!」お紺が阿あ形の仁王におうのように口を開けたまま固まった。
「どうしたの、お紺さん?」
「しまった、大事なもの忘れた!」
「何を?」
「柄杓・・・」お紺が急に萎しおたれた。
「次の宿場で仕入れましょう、あの子達が教えてくれたのね」
「うん」
お紺はトボトボと志麻の後を歩き出した。
*******
「頑張って、もうすぐ六郷の渡しに着くわ」
志麻がお紺を振り返って言った。お紺は痛む足を引き擦りながら必死で志麻の後を追っている。
「六郷を渡ったら川崎宿だから、茶屋で何か食べましょう」
「やった、もうお腹ペコペコ!」
急に元気になったお紺が志麻に追いついてきた。
「なに食べよう?」
「万年屋の奈良茶飯が有名だよ」
「なにそれ?」
「お茶で炊いた炊き込みご飯」
「やだ、もっとお腹にたまるものが良い」
「しょうがない、川崎に着いたら一膳飯屋を探しましょう」
「雑貨屋もね、柄杓を仕入れていかなくちゃ」
二人並んで暫く歩くと、前方に広い川面が見えてきた。
「あそこが渡し場ね」
岸に旅客が十数人、屯たむろしているのが見えた。
対岸を見ると客を大勢乗せた舟がこっちに向かって近づいて来る。
「結構乗ってるわね」
「昔は橋があったらしいんだけど、大雨ですぐに流れちゃうから渡しにしたんだって」
「詳しいわね?」
「江戸に来た時、舟頭さんに聞いた」
「ふ〜ん」
渡し場に舟がつくと、ぞろぞろと客が降りて来る。
皆、思い思いに志麻達が来た方向へ歩き出す。足の弱い人でも、今日中に江戸に着くには十分な時間だ。
今着いた舟に客が次々と乗り込んでいる。
「私達も行きましょう」志麻が客の最後尾に並ぶ。
順番が来て舟に乗り込むと、もう舟が一杯になった。
「舟を出すぞ〜!」舟頭が大声を張り上げる。
「あっ、舟頭さん、渡し賃は?」お紺が訊いた。
「あっちに着いたら舟会所で払ってくれ、一人十文(約三百二十円)だ」
「分かった」
川面を冷たい風が渡って行った。澄んだ水が船底を擦って下流へ流れて行く。
舟頭はいい声で唄いながら竿を川底に突き立てて舟を対岸に導いている。
志麻は久し振りの故郷の空を心に思い描く。
「今朝の参勤交代のお侍達も、同じ気持ちだったんだろうな・・・」
「ん?志麻ちゃんなんか言った?」
「あ、ううん、何でもない」
「私、江戸を出るの初めてなんだ」
お紺が空を見上げて言った。
「え、本当?」
「おっ母さんが柳橋の芸者だった。さる大店おおだなの大旦那に見染められて妾めかけ奉公にでていたの。そこで生まれたのが私」
「・・・」
「物心着いたら芸の修行に明け暮れていた。初めてのお座敷が十八の時だった、それからずっと働きっぱなし。今度の抜け参りだって、そんな生活に嫌気がさしたから・・・いや違うな、一生に一度で良い、江戸より外の世界を見てみたかったからなのよ」
「じゃあ、抜け参りは口実?」
「そういう事になる・・・かな?」
「随分思い切ったのね」
「一刀斎が背中を押してくれた。良い連れ合いがいるから一緒に行けって」
「あいつ!」
「あいつね、幼馴染なの。小さい頃からよく一緒に遊んでた。あいつは身分違いの子供達でも分け隔てしなかったわ。堅っ苦しいお武家の世界が嫌だったのかも知れない」
「お武家の世界?」
「あいつ結構良いとこの若様だったのよ、お父上があらぬ疑いをかけられて閉門蟄居を命じられるまで。それからは自棄やけっぱちみたいに剣術に打ち込んでいた。やがて両親共病気で他界して一刀斎は身分を捨てて浪人になった。その時名前も捨てたの」
「そうだったの・・・」
「だから志麻ちゃん、私をよろしくね」
「それとこれとは話が別でしょ!」
「あはははははは、それもそうだ」
お紺の笑い声が風に乗って流れて行った。
*******
「やっぱり戸塚までは無理みたいね」
「保土ヶ谷だって無理よ・・・」お紺が情けない顔で志麻を見た。
「仕方ない、今夜は神奈川泊まりか」
「そうと決まれば早速宿を探さなくっちゃ!」お紺の顔がパッと明るくなる。
「まったく現金なんだから・・・」志麻が呆れ顔で溜息を吐いた。
神奈川湊を左に見ながら宿場に入る。道の両側に立ち並ぶ旅籠の前には留女とめおんなが大きな声で客を呼び止めていた。中には客の首根っこを捕まえて、強引に宿に引き込む者もいる。
「大変な騒ぎね」お紺が珍しそうにそれを眺めている。
「もし旅の人、宿をお探しかね?」
湊屋と染め抜かれた臙脂えんじの前垂れに、同色の襷たすきを掛けた中年の女が声をかけてきた。
「うちに来なされ、改築したばかりで部屋も新しいしお風呂も広い。道行にはぴったりの宿だよ」
「道行き?」
「粋なお姐さんと若衆の道行きなんて、芝居にかけりゃ大当りさね」
「やっぱり間違えられた!」お紺が大口を開けて笑っている。
「え?」留女が怪訝な顔でお紺を見た。
「良っく見てごらん、この人女だよ」
「ええっ!」
留女はそっぽを向いた志麻の前に回り込んで、まじまじと菅笠の下から覗き込む。
「あれま、本当だ!」
「その娘に聞いてごらん、その娘が良いって言ったら泊まってやるよ」
「ほんに可愛い女武道さんだこと。どうだい、うちは相部屋無しだよ、周りに気兼ねせず旅の垢を落とせるんだけどねぇ」留女は悪びれもせず志麻を誘って来る。
「あ、相部屋じゃ無いなら・・・良いよ」留女の迫力に負けてしまった。
「よし、決まった!早速案内すべぇ」
「ちょっと待った、姉さんその娘に失礼なこと言ったんだから、少しは勉強するんだろうね?」
さすが人慣れしたお紺である、交渉ごとには抜かりがない。
「参ったね、分かったよ任しときな!」
留女が胸を叩いたので着いていく事にした。
「ところでこの辺に柄杓を売ってる店はあるかい?」お紺が訊いた。
「ああ、店の向かいに土産物屋がある、そこで売ってるよ」
「良かった、柄杓が無けりゃカッコつかないもんね」
「お客さん達は抜け参りかい?」
「そ、今日発って来たばかり」
「だったら晩飯のおかず、一品余分に付けとくよ。抜け参りの旅人に親切にするとご利益があるって言うからね」
「ありがと、姉さんの分もしっかりお参りして来るからね」
「頼みますよ・・・」
*******
「お風呂湧いたよ、晩飯前にひとっ風呂浴びて来れば良い、今なら誰も入ってないから」
さっきの留女が呼びに来た。名を『つる』と言うらしい、何ともおめでたい名だ。
「志麻ちゃん行こうか?」
「いいよ、お紺さん先に行って」
「今日だいぶ迷惑かけちゃったからさ、背中を流してあげたいんだよ」
「いいよいいよ、そんな事・・・」
「遠慮しなさんなって、さ、行くよ!」
抗う間も無く、お紺は志麻を風呂場に引っ張って行った。まるで留女みたいだと志麻は思った。
檜の匂いがぷんと香った。どうやらつるの言った事は正しかったらしい。
脱衣所で埃ほこりにまみれた衣服を脱いで洗い場を覗くと、木の肌も新しい長方形の湯船がドンと設えられていた。
「なんだい、ぬるいじゃないか」お紺が文句を言っている。
「これが普通よ、ここは江戸じゃないんだから」
志麻はお紺の言いようが可笑しくてつい笑ってしまった。
「そうそう、志麻ちゃんはずっと笑っていれば可愛いんだから」
「もう、揶揄からかわないでください!」
志麻にはちょうど良い湯加減だ、久し振りに長く歩いた足にジンジン沁みて来る。
「さっき聞いたんだけど・・・」
「なぁに?」
「つるさんってこの宿の仲居頭らしいよ」
「留女じゃなかったの?」
「急病で休んじゃったから、代役だって笑ってた」
「道理でおかず一品増やせるわけだ・・・」
ふぅ、と首まで湯に浸かってため息を吐く。疲れが瞬く間に消えて行った。
「志麻ちゃん糠ぬか袋持って来た?」
「うん、そこの木桶の中に置いてある」
「じゃあ上がって、背中を流すから」
「いいよ、遠慮する」
「黙って言う通りにしなさい、年上の言う事は聞くものよ」
背中を押されて無理矢理湯船から追い出される。
「そこに座って、背中をこっちに向けて」
言われるままに座った。
「まぁ、綺麗な背中・・・」
「・・・」
「ねぇ、なんでセミ鯨って言うか知ってる?」
「え、蝉に似ているからでしょ?」
「違うわよ、背中が美しいと書いて背美せみクジラ」
「知らなかった・・・」
ふふん、とお紺が鼻息を漏らす。
「ん、これは何?」
お紺は志麻の右腕を斜めに走る白い傷跡を見つけた。
「あっ、それは・・・」
慌てて志麻が隠そうとするが後の祭りである。
「これって刀傷?」
「う、うん」
「古い傷みたいだけど、どうしたの?」
「・・・」
「あ、言いたくなければ言わなくて良いのよ、ただ気になっただけだから・・・」
志麻が俯いて首を横に振った。
「ううん、今まで誰にも言った事は無いけど、お紺さんになら話せそうな気がする」
「なんだか深刻そうね。うん、でも訊いてあげる、それで志麻ちゃんの気持ちが少しでも楽になるのなら」
「ありがとう・・・」志麻は何かを思い出そうとするように湯気で霞んだ天井を見上げる。
「あれは私が十六の時だったかな・・・」
*******
「志麻、今度の錬武舘との対抗試合出て見ろ」
志麻の通う剣術道場、誠心館の館長、金子誠師範が言った。
「え、良いんですか!」志麻はびっくりして師範に訊いた。
「この道場にお前に敵かなう男子はいない、代表五人のうちの一人に選ばれてもおかしくはなかろう」
「でも私は女です・・・」
「女でも強いものは強い、私はそんな事は気にしない」
「ありがとうございます先生!」
志麻は喜び勇んで家に帰って両親に報告した。
「お前が・・・?」
両親は呆れた顔をしていたが、それ以上何も言わなかった。
試合当日、志麻は代表五人のうち最後の登場となった。
二勝二敗、志麻の試合に道場の面子が掛かっている。
相手は出稽古で親しくなり志麻が密かに思いを寄せる男子だった。
「双方、面を付けて前へ!」
行司役の師範代が声を掛ける。
互いに礼をして蹲踞そんきょの姿勢を取った。
「勝負三本、始め!」
志麻は立ち上がると同時に積極的に攻めて行く。相手は志麻の攻めに防戦一方となった。
胴突きで攻めて、怯ひるんだ所に面を決めた。
場内がどよめいた。
二本目は鍔迫り合いから引き際に胴を打たれて一対一の対に持ち込まれる。
「三本目、始め!」
行司の声と同時に床を蹴った。志麻の竹刀の切先が相手の突垂つきだれを真っ直ぐに貫いた。
場内が水を打ったように静かになる。
「突きあり、勝負あった!」
相手は礼をする事も忘れて、床に突っ伏して泣いていた。
志麻は静かに頭を下げると道場を後にした。
帰り道、相手の男子が待っていた。
「真剣なら負けない!」
目がギラギラと光って志麻を睨みつけている。
「真剣でも私が勝つ!」
志麻も負けじと睨み返す。
「勝負!」
いきなり刀を抜いた。
志麻も素早く抜き合わせる。
力任せに振るう相手の剣を、志麻は柔らかく往なし続ける。
真っ向から斬り下ろしてきた相手の剣を鎬しのぎで受け流し、剣を返して寸止めに首を斬る。
これで勝負ありね・・・
その瞬間右腕に痛みが走った。
「痛つッ!」腕を押さえて蹲うずくまる。
「ご、ごめん・・・」
見上げると相手が呆然と立っていた。
「斬る気は無かったんだ・・・本当にごめん」
そう言うと相手は踵を返し、一目散に逃げて行った。
家に帰ると大騒ぎになったが、志麻は頑として相手の名を言わなかった。
それ以来、その人と会う事は二度と無かった。
*******
「そう、そんな事があったの・・・」お紺は優しく志麻の傷痕を撫でた。
「もう、過ぎてしまった事です」
「好きだったのにね・・・」
「仕方ありません、わざと負けるなんて出来ないから」
「あなた本当に強いわね」
「私は日本一の剣客になりたい、女のくせになんて言わせない」
「そうよ、男か女かなんて関係ないわ。私ずっと志麻ちゃんを応援してるからね」
「ありがとう、お紺さん」
しんみりとした時間が二人の間に流れた。
「でも・・・」
「え?」
「おっぱいは私の方がおっきいわね」
「な・・・」
「一刀斎は渡さないよ」
志麻の声が風呂場中に響き渡った。
「一刀斎なんか関係な〜い!」
その夜、志麻はお紺と一言も喋らなかった。